中部経典『布喩経』

中部経典『布喩経』にこうあります。

 

世尊は、比丘たちにこう言われた。

『比丘たちよ、ここに穢れ垢づいた布があるとするがよい。

 染物工がこれをとって、藍色に、黄色に、紅色に、あるいは茜色に染めようと、これを染め壺の中に浸したとするがよい。

 そのとき、この布は、染色鮮やかには染め上がらないであろう。

 しかし、無垢にして清らかな布があれば、鮮やかに染め上がるであろう。』

 

『そのように、比丘たちよ、なんじらの心が清浄であったならば、よき結果を期待することができるのである。』

 

『心の汚れとは、貪、瞋、恨み、妬み、吝嗇、詐り、慢、放逸などである』

 

『心の汚れを捨離することを得れば、仏と法と僧に対して絶対なる信を持するに至る』

 

『心の汚れを去って、よく解脱したる比丘は、いかなる施食を受けて食しても何らの妨げにもならぬのである。』

 

『彼はそのとき、ただ、慈悲の心をもって、あまねく一切をおおうて住するのである。

 東も西も、南も北も、上も下も、一切処にわたって、あます隈もなく、ただ広大なる、博深なる、無量なる慈悲の心をもって覆い、怒ることもなく、害なうこともなくして、住するのである。

そのとき、彼の心のうちには、はっきりと解脱の自覚が成るのである。』

 

『わたしは解脱した。わが迷いの生活はすでに尽きた。清浄なる修行はすでに成った。なすべきことはすでになされた。

もはやこの上は、さらにかくのごとき迷いの生活を繰り返すことはないであろう、との確信が成るのである。』

 

 

 

この説法は非常に重要です。

それは、解脱と無量心の関係について説かれているからです。

後世、とくに部派仏教の時代になってからは、四無量心は解脱・涅槃に至らないとして不当に貶められてきました。

梵天界が、色界最下層の境地とされました。

四無量心は、その色界最下層の梵天界に生まれる方法とされてしまいました。

 

しかし、この『布喩経』では、無量心の境地と解脱の境地がはっきりと結びついています。