部派の大乗仏教批判

以前、スマナサーラが、法華経について、『脱線脱線脱線物語。他の大乗仏典にはよいところも少しはあるけれど法華経には何もよいところがない』と言っていた動画を挙げましたが、本の中でも結構大乗仏教批判は多いです。

例えば『無常の見方』という本では、こう言っています。

 

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哲学的な大乗仏教は、「無常はどうにもならない状態だから、本来すべては空だ。何もないのだ」と考えて、ブッダの説いた教え、解脱まで「空」にして否定します。ブッダの教えを骨抜きにするのですよ。

日本の皆さまに馴染みの深い「般若心経」は、ブッダの言葉ではありません。あの経典は真理を語るのではなく、すべてを否定しているだけです。何の役にも立ちません。

あらゆることを否定すると、どうなりますか?

「否定ということまで否定する」と、もう「黙るしかない」でしょう?

それは高尚な思想ではなく、思考停止という退廃です。

そこから智慧が生まれることはありません。

大乗仏教の哲学は、この欠点のために、痛い目にあっています。

それで葬式仏教などと呼ばれるようになったのです。

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なかなか痛快ですね。

スマナサーラの大乗仏教批判については、その通りという部分が多いです。

 

そして、同時に、法華経などの大乗仏典に書かれている部派仏教への憤りもその通りだと思っています。

 

ここを本当に見ないと、どちらかに自己同化して喧嘩するだけになります。

 

どちらに自己同化しても本当のところは見えてきません。部派仏教の前、大乗仏教の前の仏陀の真意に還らないと仏教の本当の姿が見えてこない。