古層の仏典から仏陀の筏を探すブログです

有尋有伺 (114.187.206.144)  

ショーシャンク様。お疲れ様です。
異なる意見の相違というものは、世間一般的には耳障りで煩わしく、それ故ほんの少しでも我を試みようともせずに、悪口だけをたくさん喋り、イマイチすっきりしない感じで去っている方々がほとんどの中、 ショーシャンク様は敢えてご自身からお尋ねになられる、その姿勢に心から尊敬致します。
 
ショーシャンク様からしてみれば、私の説を聞くということは、聞く前から結果的にショーシャンク様のご見解とは異なる、または否定する、耳障りで煩しくご気分を害されるだけである可能性も、読解力で、ニュアンスを読んで推察できるわけでして、 それでも新しい知見を得るために、聞こうとなされる、これは世間一般ではできることではない、それ故にリスペクトさせて頂いているのです。
 
流石懺悔慚愧に御通達されている方です!
 
正直そのご立派な姿勢でもって身体の死まで生き続けられる限り、仏教関係なく人として幸せに生きていけるのではないでしょうか。
 
さて、私の十二縁起についての理解についてお尋ね頂けたわけなのですが、了解致しました!
 
ただ、やはり十二縁起という仏教のなかなか根幹の理解を述べるとなりますと、引用等も少しは必要ですので、少し日数を頂けたらと思います。
とは申し上げましても、2週間、3週間という話ではなく、近日中、遅くなっても日曜日ぐらいにはお返ししたいなと思います。
 
それ故お時間を頂き大変恐縮ですが、今回のブログ記事についてこれから述べさせて頂きますので、それを読みながらでも、お待ち頂けたらと思います。
 
 
さて、コメント返しさせて頂く前に、私の仏教に対する前提をそろそろ先に申し上げておきたいと思います。
お話し会いではなく、議論に近づいてきたら、言葉の定義が必要です。水掛け論になってしまうからです。
とは言っても、非常に簡潔です、なぜなら経典でこれ以上簡略に話しようがないことを、そのまま採用しているだけだからです。
ゴータマ尊は四聖諦や十二縁起などの哲学っぽいことを語っているので、テーラワーダや仏教学者先生は何を言いたかったのかについて今まで2千年間議論されてきましたが、実は経典に書いてあるのです。
それは、中部22のこちらです 比丘たちよ、私は以前も今も、苦と苦の止滅のみを説いています。 (片山一良訳『パーリ仏典 第1期1 中部(マッジマニカーヤ)根本五十経篇』p369)
 
そう、心の苦しみと、心の苦しみの止滅「のみ」、「だけ」、「Only」を語っていたのです。
最も、ショーシャンク様の仰る通り、一箇所「だけ」を根拠にすると、偽経典とお想いになるかもしれません。 それ故違う経からも引用させて頂きます。私は大学では歴史学を専攻しておりましたが、複数に跨って同じ事が記されていたら、それは有力な根拠となりうることを、存じているからです。
※林の中、手のひらに落ちた葉と、林の葉、どっちの方が葉の量が多いかと比丘に聞き、もちろん林の方が多いと答えた後、  「まさにそのように、比丘たちよ、私によって証知されながらもあなたがたへ説かれなかったようなそのこと。それは、より多量なのです。 では比丘たちよ、なにゆえそのことは、私によって説かれなかったのでしょうか。 なぜなら比丘たちよ、そのことは、意義をともなわず、梵行の端緒とならず、厭離へ、離貪へ、滅尽へ、寂止へ、証知へ、正覚へ、涅槃へ導かないからです。 では比丘たちよ、何が私によって説かれたのでしょうか。 比丘たちよ、『これは苦である』と私によって説かれ、『これは苦の集(原因)である』と私によって説かれ、『これは苦の滅である』と私によって説かれ、『これは苦の滅へ導く道である』と私によって説かれました。 では比丘たちよ、なにゆえそのことは、私によって説かれたのでしょうか。 なぜなら比丘たちよ、そのことは意義をともない、そのことは梵行の端緒となり、そのことは厭離へ、離貪へ、滅尽へ、寂止へ、証知へ、正覚へ、涅槃へ導くからです。 「シーサパー林経」(『相応部』56-31) ※十無記について語った後、 マールキャプッタよ、なぜならこれ(十無記)は、意義を伴わず、初梵行(梵行の基礎)とならず、厭悪、離貪、滅尽、寂静、神通、正覚、涅槃のためにならないからです。
それゆえ、これは私によって解答されないのです。
ではマールキャプッタよ、何が、私によって解答されることなのでしょうか。
マールキャプッタよ、『これが苦である』ということが、私によって解答されることです。  
『これが苦の集(原因)である』ということが、私によって解答されることです。
『これが苦の滅である』ということが、私によって解答されることです。
『これが苦の滅へ至る道である』ということが、私によって解答されることです。
マールキャプッタよ、なぜならこれは、意義を伴い、初梵行(梵行の基礎)となり、厭悪、離貪、滅尽、寂静、神通、正覚、涅槃のためになるからです。
それゆえマールキャプッタよ、あなたがたは、私によって解答されないことは、解答されないと憶持しなさい。  
私によって解答されることは、解答されると憶持しなさい」 中部63「小マルキャ経」 つまり、ゴータマ尊は世間一般では思想家とか、哲学者などという認識で通っているのですが、そのような捉え方は生前の彼の意図からすれば誤謬であると「読み解く」ことができ、 今風に申し上げるならば、 哲学ではなく、ハウツー、学者先生ではなく、塾の講師なのです。
律・経は、哲学書ではなく、今風に言えば世界一役に立つハウツー本といえるのです。 さて、その前提を踏まえた上でコメントをお返しします。 ヤフー掲示板の時に投稿して、このブログの初めの方に格納している文でも言っていることですが、原始仏典でも、遅く成立した経典になればなるほど、変化、増大、付加、再編集が行われています。 すべての仏教経典を同列に考えると、同じ言葉であっても、言っていることが矛盾することはよくあります。
例えば、『一人で修行しなさい』という言葉があります。
しかし、『よき修行仲間と修行しなさい』という言葉もあります。
それもだんだん強調されてきて『よき仲間が出来ることが悟りへの道の大半なのだ』というような極端に仲間と修行することを勧める文言もあります。
最古層の仏典では『一人で修行すること』に重点が置かれています。
それがサンガが発展した後のより新しい仏典では、さかんに『仲間と修行すること』を強調し始めます。
このように、同じ原始仏典でも、矛盾に見えることが多くあります。
前にも書いているのですが、そのような場合は、私はより古層の仏典を重視します。
私は、歴史上の仏陀が本当は何を言ったのか、をテーマに探求していますので、仏陀の肉声に迫ることを優先しているのです。
最古層の仏典は、スッタニパータの第4章第5章と、相応部経典の詩句を伴った集、だと思います。
それから、他の相応部経典やダンマパダなどが続きます。 以前の『仏教についてのひとりごと 134』ではこう書いています。
※※※ 確かめた結果、増谷文雄もやはり次のようなことを書いています。
①小部経典の中の『スッタニパータ』『ダンマパダ』は原初的で、有力な資料とされる。一つにはそれらが偈(韻文)を中心に成っているからだ。韻文は古形を保存するのに適している。
②『スッタニパータ』『ダンマパダ』以外で考えると、  相応部経典⇒中部経典⇒長部経典⇒増支部経典 の順で出来たと考えられる。  漢訳の阿含経で言えば  雑阿含経⇒中阿含経⇒長阿含経⇒増一阿含経 の順番で、雑阿含経が一番古い。
③増一阿含経は、最も遅く出来た経典で、大衆部の所属と想定され大乗仏教の影響がみられる。
④遅く成立した経典になればなるほど、変化、増大、付加、再編集が行われていると想定される。
⑤故に、雑阿含経より中阿含経、中阿含経より長阿含経、長阿含経より増一阿含経の方が、変化や付加が多大になっている。
⑥しかし、古層である雑阿含経でも、成立時期はバラバラであり、変化、付加が大きいものもある。
※※※
仏陀の肉声に迫り、仏陀の真意を解き明かしたいと念願している私が、増支部経典などをあまり重要視していないのは上記のような理由があります。
 
なるほど、それは仰る通りです!
よくご研究なされています。
 
確かに、経典内では人によって同じテーマでも全く食い違ったことを説法していたり、特に遅くに成立した経典には細工をしている場合もあるのは事実です。
 
例えば相応部の無為相応は丸々偽経です。
偽経とは、ゴータマ尊や当時の弟子の名を詐称して語った、苦しみの滅に役に立たない「教義」です。
ゴータマ尊の教えは認識可能なものをベースに観察をするので、無為をベースに語ることはありません。
また、小部の「義尺」、「無礙解道」とかも丸々そうですね。 それ故確かに丸々盲信することは危険です。
同意します。
だからショーシャンク様は、確実に現代までそのまま伝わっていると客観的な要素から断定に近い形まで信頼できると推察できる、選りすぐりの経を拠り所にその経以外と異なる教えの経を省くことで、安全性を確保された上で吟味なされているわけです。
非常によく考えられた、恐らく最適解である賢明なご判断でしょう。
言うまでもない話ですが、阿羅漢果という結果を出すために、全経典を参照する必要はありません。
少しの知識で達した人の事例が様々な経に多数散見されるからです。
その多数の実体験があるところから、私も最初に申し上げた通り、 ショーシャンク様のご戦術で、到達できると思います。
同意します。
一切の文句をつけようもございません。
経典でもそのご戦術で保証しているとも読み取れます。
たぶん他の方に聞いても最適解だと仰ると思います。
完璧な御理論です。
 
それを踏まえた上で申し上げたいことがあります。
あなた様もお認めになる、彼岸道品に、 1141まのあたり即時に実現される 、時を要しない法 、すなわち煩悩なき 〈妄執の消滅 〉 、をわたくしに説示されました 。
と「時を要しない法」、具体的に言えば中部10「念処経」の、7年以内に不還果か阿羅漢果という成果を出せるとありますが、 あなたはなぜその方法で「すぐに」到達、それ故の修行の終わりという 「結果」をだせないのでしょうか?
仏陀の真意を解き明かしたいと念願しておられるのは、 熱心に懺悔慚愧の修行をなされてりることからも、 仏教学者のようにただ知識好奇心を満たしたいだけではなく、 苦しみの滅尽を願っておられるからでしょう。 長部23経パーヤーシ経に「螺貝の例え」というものがあり、 海のない山村かどこかで旅人が螺貝を吹いた時に、 初めてその音を聴いた人々が、音を鳴らそうと螺貝を叩いたり蹴ったりしたが、 「吹く」という概念がなかったため音を鳴らせなかったというように、 要するに、目的に沿った「適切な手段」を取らないと、結果は一生出ませんよということなのですが、 あなた様の手段は最適解です。 テーラワーダはホラ貝叩きで、思考によるsatiは笛を咥えることです。 笛を咥えているのですぐ音は鳴るはずなのです。それなのに十二縁起の解釈などで悩まれているのです。意味なんか誰かに聞かなくったって一瞬で察するはずなのです。おかしいのです。 あなた様のざっと読ませて貰った記事からだけでも私には理由が透けて見えます。 はっきり言います。 あなたは笛を咥えていますが、潜在意識レベルで「本気」で吹く気が無いからです。 古い教えだけならば、世の中にはたくさんあります。 あなた様はそのガラクタの中から、誰にも頼らずご自身の目利き力、強い意志で宝石を見出されました。 本当に凄いことです、テーラワーダや大乗のバイアスを取り払い、孤高で勇気を持って人生かけて立ち向かえる人は、あなたぐらいしか今の世にはいないのです。 不思議なのは、なぜ、そんなあなたが、 思考によるsatiをガラクタの山から貴方だけの力で到達した強い心を持ったあなたが、 教え、『道具』に、 「すがっている」のですか? 「屈している」のですか? 「屈伏している」のですか? 「首を垂れて這いつくばっている」のですか? 「あなたの『懺悔慚愧』は、教え通りでないか否かと顔色を伺いオドオドする、そんな情けない「恥いる」」なのですか? ゴータマは言ってます。「自己を島としろ」と。それはあんたの言う通り、意味は四念処をやれだ。それで合ってる。 ただ、四念処をやれって意味だけで、「自己を島にしろ」と言ったのか? すなわち、それが四念処なのである。   ── 四とは何か?   比丘たちよ、ここに比丘は、   身において身を観続け、熱心に、   正知を備え、念を備えて、世界における欲貪と憂いを除いて住みます。 「熱心に、」 きっと宝、思考によるsatiを見出した時のあんたは、ゴータマも一目置くほど『熱心』であっただろうよ。 貴方の思考によるsatiについてを熱く語る記事からは、自己を島とした、自信に満ち溢れた想いが私には深く感じられる。だから尊敬したのです。 自分の力で見つけ出した、確信した、身をもって『体感』した、誰にケチを付けられようとも揺るがない、熱心な、自己を島とされている自信に満ち溢れた記事ほど、 読み手にとっても気分が良いものはありません。その時のショーシャンク様は、生き生きと快活に私には見えます。 が、 三十七菩提分法のこの教えはここの経典と食い違ってるから間違ってるのかなぁ?ぼくはこう解釈してるんだけどこれで合ってんかなぁ とか この経典は増谷大先生がゴータマの肉声じゃないって言ってるから、他のマニカナでお話しした他の友達もそうって言ってるし、だからきっとたぶん恐らくそうなんやろ、みんなそうや言ってるんやし。だから変なニュアンスがつきそうで嫌ややから読まへん。無視する。 とか ぼくがずっと勉強してきて知ってる「無明」は苦しみの始まりで納得してたやろ、その通りのはずなんや、間違いないんや。 でも、有尋有伺とかいう奴が違うこと書いてある経持ってきとるで、 増支部かぁ、全く無視するって感じでも無いけど、なんか胡散臭いなぁ。 まぁ?俺はそうやったはずやと思うけど??まあ有尋有伺はそこそこなんか知ってそうやし?まあ他人の意見も聞いてみたいって、この曖昧で雑でいいかげんな勝手に出てきた感情が、聞いた方がええって言うしな?とりあえず聞いてみよか。 みたいな記事はただただ一言、糞。 古くて肉声だから何? お前は古くて肉声の証拠があったら、なんでも言うこと聞くんですか? 思考のsati見つけてそうだと確信した時、 肉声だから認めたんですか? 古いから認めたんですか? 増谷先生や石飛先生に聞いて釈迦の瞑想は古い経を読んでも思考のsatiじゃないですって言われたら、テーラワーダの螺貝叩きに戻すんですか? この世の中、誰も螺貝なんて吹いてないですよ?みーんな、真面目に叩いてますよ?あなただけ浮いてますよ? 螺貝叩きは5世紀の偉い長老が最初に「発見」された偉大なる修行法なんです‼‼‼‼ 今までそれで何となく皆んなやってきたんです‼‼‼‼‼‼‼‼‼ 歴代の長老もそうだったからきっとそれで合ってるはずなんです‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼ だからホラ貝は「叩き」ましょうよ? みんなが認めていない意見をこれこそが本物だって断言するのは、高慢という「恥」なんちゃうの? ほら、テーラワーダの偉い長老も、学者先生も、みーんなやってるし、みんな偉いからきっと合ってるんでしょ? それが自己を島にすることなんですか? 食い違った経典があるから何なのですか?偽経だから何なのですか? 貴方様は筏の例えの本質を見抜かれましたが、それは古いから正しいと信じたんですか? 筏の例えの経がもし偽経だと学者が指摘しその通りだったら、筏の例えは即誤謬の嘘なのですか? 螺貝の例え経も肉声かどうか知りませんが、 偽経だったら全部間違っているんですか? 他の古い経典に書いてないから、実は螺貝は叩いたら鳴るかもしれないんですか? 意図は目的に沿った適切な手段を取らないと、結果は一生出ませんよ、 ですが、他の古い経典に書いてないから、 実は「目的に沿った不適切な手段を取れば、あらゆる物事はことごとく成果は出る」が正しいかもしれないんですか? 本当に大事なのは、経典が本物か偽物か肉声なのか否なのかではなくて、 その内容があなたにとって役に立つか立たないかじゃないですか? そしてその判断をするのは、他人やこの経典に書いてあるからじゃなくて、 あなた自身じゃないんですか? 経典の内容に納得する本当の理由は、他の経典に書いてあるからじゃなくて、 その内容を主体的に能動的に自分で考えて、自分にとって、為になる、役に立つからでしょう? 道具は、『使う』ものです。道具は、『使役』するものです。道具に、『使われる』ものではありません。 道具を使うのは、自分にとって『役に立つから』道具を捨てたり仕舞ったりするのは、自分にとって『役に立たなくなったから』 修行法もそうです。修行法は、心の苦しみの滅尽のための『道具』です。修行法は、心の苦しみの滅尽のために『使役』するものです。 あなたは私が話の中心として挙げた「有尋有伺・無尋有伺・無尋無伺」については返信からはそれほど関心がなさそうでした。 どうしてか? ゴータマ尊の修行の実践方法は、『要するに』、思考によるsatiだから、有尋有伺・無尋有伺・無尋無伺とやらも、『要するに』思考によるsatiのことなんでしょう?と 本質の基礎を根本的に理解しているから、派生系のことを聞いても、聞くまでもなく理解するのです。 それは自分にとって「役に立つ」のか「役に立たない」のかを。 思考のsatiについて語るショーシャンク様は、道具を駆使することでご自身の特技であられる懺悔慚愧を自由気ままに使役し、無量の感覚という成果を出されており、自身に満ち溢れているように見えます。 三十七菩提分法について語るあんたは、道具に四念処様に、七覚支大陛下に、四正勤閣下に、四神足王に、五根・五力公に、八正道殿に、正しいとか間違っているとかという粗相を気にして、顔色を窺いオドオドし従属している、自分の頭で考えず、他人の意見ばかりに振り回されて、 サルのように無思考でいることを喜ぶ、テーラワーダと同類に見えます。 あなたの人生は、あなたが思うように、あなたが願うように、あなたの想いのままに生きていけるためにあるべきです。 誰もあなたを助けてはくれません。修行法はあなたを苦の滅尽に導いてくれません。 自分の力で、自分の人生の中で培ってきた判断力で、内容を自分にとってふさわしいのか、役に立つのか吟味して、自分の力で幸せをつかみ取るべきです。 経典の教えを「使って」、幸せをつかみ取るのです。経典の修行法を「使って」、成果をつかみ取るのです。 経典に従えば、涅槃に導かれるだなんて、 仮にそれで成果が出たとしても、そこに主体性はありません。 死ぬ直前にゴータマは、「怠ることなく努めなさい」といいましたが、 それはただただ、彼の教えだけを盲目的に信じて実践すればいいという意図だったのでしょうか? 結果さえ出せれば何でもいいという考え方は一理あります。 ただ、何かに執着して依存することで成立する渇愛を滅するために、 正しい滅尽の修行法論に「縋りつく」。 それでマジで執着を消せるとでも思うのでしょうか? いろいろ言ってきましたが、私はこれだけを言いたいのです。 ショーシャンク様は三十七菩提分法を考えられる前に、ひとつ根本的なことを思惟されるべきです。 ショーシャンク様は、思考によるsatiという、具体的実践方法の基礎を見つけ出されました。 しかしもう一つ思惟しなければならないことがあるのです。 それは、「この修行法の指示通りにさえ従えば、成果が出る」 ではなく、 「これらの修行法により、心の苦しみの要因である渇愛が滅尽するという成果が出る、『その原理、メカニズムはなんだろう?』」です。 それは経典にばっちり書いてあるのです。 しかも、思考によるsatiと違い、 長部、中部、相応部、増支部、小部のあちこちに、うんざりするほど書いてあるのです。 てきとうに日本語訳の経典をパラパラ開いたら、うんざりするほど書いてあるのです。 ただ、それは自分の力で向き合わない限り、思考のsati同様、書いてあるけれど、文章に目を通しているんだけれど、読み解くことができません。 まるで妄信して思考のsatiだと読めない読解力のない、テーラワーダのように。 私がいきなり批判したのは、あなたの修行法に対する、自立性のなさです。 あなたは最初は自身の培ってきた力で、原始仏教まで辿り着いたのでしょう? どうして原始仏教に取り組始めた今、自分の頭で内容の吟味をすることを捨てられたんですか? あなたはsatiについて自力で吟味して、その本質を見いだされました。 だから成果が出始めています。 一方あなたは修行法については、この手順通りにすればできると表面的なところばかりを追っていくだけで、なぜそれをやれば滅尽するのかという、そのメカニズムには目を向けようともしません。 最初からその切り口で話しかけても良かったのです。 その切り口を思いつかなかっただけかもしれませから。 でも、自己を島としない人にそれだけを言っても、 「でもそれはこの経典に書いてないから」 「でも○○先生が違うって言ってるから」 「でも古い経典じゃないから」 「でもそこにしか書いてないから」 といくらでも他人の意見に左右されて、真に向き合おうとしません。 「これらの修行法により、心の苦しみの要因である渇愛が滅尽するという成果が出る、 『その原理、メカニズムはなんだろう?』」という分析は、 思考のsati同様にもう一度自己を島にして立ち向かわないといけないやっかいな教えです。 なぜならどこにでも書いてあるのですけれど、 実際実践するとそこまで大したことが無いとわかるのですが、 あまりに一見生理的にきついと感じられる内容なので、ありのままに読み解ける人は、とても少ないのです。 私が初めて気づいた時、あまりにもシンプルかつ当たり前だと言えばそこまでなのですが、斬新的である意味どのような修行よりもストイック過ぎるこのメカニズムに、 心の底から驚き、感心し、思いついたその勇気に感動し、そして心の底からドン引きしました。 そりゃあ、言いふらすのを躊躇するわと。ある意味完全に不道徳かつTPO違反だからです。 最後に、最初にお話しした通り、近いうちに十二縁起について述べさせて頂こうと思います。しかしただただ、十二縁起を語るつもりはありません。 十二縁起がなぜ渇愛の滅尽につなげることができるのか?という、そのメカニズム、根幹をメインに経典に即してお話しします。 なぜか?十二縁起そのものについて議論しても、渇愛の滅尽という成果の成就に対して、なんの成果もでないからです。 そして思考のsati同様に、メカニズムを理解できたら、 もう、疑の完全な消滅はもう間近だからです。 いきなり文面で叱るようなことをして大変失礼致しました。 ショーシャンク様にとっては、いきなりのことでビックリなされて、戸惑われているかもしれませんが、 私は少し話したり文章を拝読させて頂いたら、大体のレベルがわかります。 ショーシャンク様は仏経の理論と実践法の根本について、既に実践法はマスターされているので、理論の根本についてだけお教えすれば、もう私が申しあげないといけないことはなくなってしまうぐらいの状態でしたので、敢えて強く申し上げたのです。 仏教は長年かけて達成するものではありません。 条件さえ満たせれば、その変化は間を置かない、本当に一瞬の出来事なのです。 だからそのタイミングであれば、さっさと行動するのです。 私は、別にショーシャンク様に自説を納得して頂きたいわけではありません。 他の誰かが言ってるからとか、経典に書かれているから否だからとか、そんな執着に縛られず、あなたが座右の銘のように大切になされている、自己を島のようにして、 ショーシャンク様にとって役に立つのか否なのか、ご自力で判断して頂きたいのです。 そうすれば、かなりの仏教理解を既になされているあなた様には、きっと結果がすぐ出られるでしょうから。 最後に前の記事について私が雑に書いた感想と、いくつかのあからさますぎる経を掲載させて頂きます。 なぜ直接言わないのか、ご自力で察して欲しいからです。 これらの中に、既にメカニズムは含まれています。 なのでまずそれを喝破されてから、三十七菩提分法とどう繋がっているのかを、吟味されてみたら、よろしいかもしれません。 それにしてもなぜ、いつもは丁寧な感じに述べさせて頂いているのに、今回の記事には粗さが目立つのか、 時には丁寧な文章よりも、かえって気持ちが伝わったりすることもあるからです。 まるで野球部のコーチの激励のように。 ※なお、もしこのコメントにお返事頂けるなら、次の十二縁起を書いたのちにまとめて、お返事します。 あくまでこの続きとして書くからです。 後、今後は前回までの普通のトーンで書きますし、 もし今回のコメントでご不快になられたならば、仰って頂けたらコメントは差し控えさせていただきます。本当にすみませんでした。 心の修行は知識で理解するのと同時に、フィーリングで感じて知るものでもありますから、 時には抽象的でよくわからないことを言わないといけない時があるんですね。 http://jbbs.shitaraba.net/study/12104/#5 ↑例えば見るだけで頭が痛くなるこれも、自己を島として向き合えば、ある程度脳内で言語化できて、結構役に立つとわかるのです。 まさか私がこれに近い何かを書くことになるとは夢にも思っていませんでしたが…。 四念処は、身、受、心、法につき、不浄、苦、無常、非我をそれぞれ観じる瞑想法ですが、つまるところは、非我を観じていくのです。不浄であり苦であり無常であるというありのままのリアリティを洞察して、それらへの執着、愛着、自己同化から離れ、厭離の心を生じさせ、身・受・心・法につきどれも私ではないということを徹底させるのです。 〈不浄であり苦であり無常であるというありのままのリアリティを洞察して〉 あなたは何気なく書いたんでしょうけど、なんで他人事な感じなんですか? もし渇愛が苦しみの原因で心の底から煩わしいと思っているならば、 ゴータマに言われるまでも無く、想起した渇愛の尋や想に対して向けるべき意識はありませんか? ありのままに観るだけで渇愛がなくなる教えだとしたら、言いふらすのに躊躇するもんなのですか? ゴータマはありのままに観る「だけ」を語っていたんですか? その前に、違う観察の仕方をやってから、やれって言ってないですか? 〈厭離の心を生じさせ〉 ただただありのままに観ていたら、厭離の心が生じるのですか? なにか条件を自力で満たして、〈生じさせ〉るものではないですか? それは他の経典を見るまでもなく、普通に考えて、言われてみたらその通りと判断できるぐらいシンプルじゃないですか? でもそれは簡単だけど、うかつに社会に言いふらすのは、TPO的にも道徳的にもかなり悩むような方法ではないですか? 相応部 ラーダ相応 悪魔経(死魔経とも) 大徳よ、魔羅(悪魔)、魔羅と仰せられますが、いったい何を魔羅と言われるのでしょうか? ラーダよ、色(肉体)があれば、そこには魔羅がある。 殺す者があり、また死する者があるであろう。 ラーダよ、だから、 『色を魔羅であると観じ、殺す者であると観じ、死する者であると観じ、 あるいは病なり、瘍(はれもの)なり、刺(とげ)なり、痛みなり、痛みのもとであると観ずるがよい。』 そのように観ずれば、それが 『正しい観察sammā passanti』 ※sammāは八正道ぐらいにしかほぼ使われない、仏教内では非常に「重い」言葉です。 というものである。 ※以下、受・想・行・識についても、同じ説明が繰り返される。 大徳よ、では、いったい、何のためにそのような 『正しい観察Sammā dassanaṃ』をするのでしょうか? ラーダよ、 『厭い離れるため』 に、正しい観察をするのである。 大徳よ、では、いったい、何のために厭い離れるのでしょうか? ラーダよ、 『貪りを離れるため』 に、厭い離れるのである。 大徳よ、では、いったい、何のために貪りを離れるのでしょうか? ラーダよ、『解脱するために』貪りを離れるのである。 大徳よ、では、いったい、何のために解脱するのでしょうか? ラーダよ、それは涅槃のために解脱するのである。 「テーラガーター(仏弟子の告白)」 405 わたしは出家してから二十五年になるが、そのあいだ、 指を一はじきするだけの時間でも、心の静けさを得られなかった。 406 心の統一専念を得られなくて、快楽の欲情に悩まされて、 両腕を突き出して泣きながら、私は住居から出て行った。 407 わたしは、小刀をもって来ようか? わたしは生きている必要があろうか? わたしのような人間は、修学を捨てて、どのようにして死ぬべきであろうか? 408 そこで、わたしは剃刀を手に執って、座席に就いた。 自分の脈管を断つために、剃刀を抜いた。 409 そのとき、わたしに、正しい道理にかなった思いが起った。 『患いであると思う念いが現れた。 世を厭う気持ちが定まった。』 410 次いで、私の心が解脱した。 見よ、──教えがみごとに真理に即応せることを! 三つの明知をすでに体得した。ブッダの教えはなしとげられた。 サッパダーサ長老 中部147小ラーフラ経 「ラーフラよ、そのように見た多聞の聖弟子は、〈眼〉について厭悪し、諸々の〈色〉について厭悪し、〈眼識〉について厭悪し、〈眼触〉について厭悪し、かの、およそ〈眼触〉によって生ずる〈受〉の類、〈想〉の類、〈諸行〉の類、〈識〉の類、それについて厭悪します。 〈耳〉〈声〉(鼻〉〈香〉〈舌〉〈味〉〈身〉〈触〉〈意〉〈法〉意識〉〈意触〉〈意触〉によって生ずる〈受〉の類、〈想〉の類、〈諸行〉の類、〈識〉の類、それについて厭悪します。 『厭悪して離貪し』、離貪のゆえに解脱します。 解脱したとき、『解脱した』という智が生じます。 『生は尽きた。梵行は完成した。なされるべきことはなされた。もはやこのような〔輪廻の〕状態へ〔至ることは〕ない』と了知するのです」 心に適った尊者ラーフラは、世尊の所説へ歓喜した。 『色を魔羅であると観じ、殺す者であると観じ、死する者であると観じ、 あるいは病なり、瘍(はれもの)なり、刺(とげ)なり、痛みなり、痛みのもとであると観ずるがよい。』 『色を魔羅であると観じ、殺す者であると観じ、死する者であると観じ、 あるいは病なり、瘍(はれもの)なり、刺(とげ)なり、痛みなり、痛みのもとであると観ずるがよい。』 『色を魔羅であると観じ、殺す者であると観じ、死する者であると観じ、 あるいは病なり、瘍(はれもの)なり、刺(とげ)なり、痛みなり、痛みのもとであると観ずるがよい。』

 

 

 

 

有尋有伺さん、こんにちは。

まず、私の考えていることを書きます。

私は、歴史上の仏陀(ゴータマ・シッダッタ)が本当は何を言いたかったのかを探求してきました。

仏陀は、自分が説いた教えは向こう岸に渡る筏だと言いました。

その筏とは何なのかを知ろうとしました。

私は、仏陀以外の人や教えを否定する者ではありません。

シャンカラなどのヒンズー教の覚者たちも荘子などの中国の思想も好きですし、イエス・キリストの映画はほとんど全部見ていますし聖書も読みますし、大祓の祝詞を唱えたりもします。

仏教や仏陀でないと駄目だとか思うことはありません。仏陀は仏教なるものの開祖になろうなどとは全く思っていませんでしたし、自分の教えを古城にいたる古道を見つけただけだと言っているようにそれまでのインドの精神フィールドをそのまま受容したものでした。仏教の独自性や優位性が強調され始めたのは弟子たちによってです。

この世界には、過去、現在、未来、無数の覚者が存在したと思いますし、仏陀だけが覚者ではありません。

しかし、私が見る限り、仏陀ほど一貫性がありブレない人はいません。成道の時から入滅の時まで、その言動に矛盾がありません。

そして、仏陀ほど、数多くの人を悟りに導いた人を私は知りません。

たぶん、世界最大の教師だと思っています。

ですから、私は、仏陀の真意、そして、仏陀が残してくれた筏を探求しているのです。

 

仏教には膨大な量の仏典があります。原始仏典から大乗仏典まで、多くの異なる教えで溢れています。

その中で、歴史上の仏陀が本当に言いたかったものは何か、本当に残してくれた筏は何かを探求しているのです。

さいわい、文献学の発展により、仏陀の肉声により近い仏典はどれかがはっきりしてきました。

ですから、後世にかけて膨大に創作された経典の中で、矛盾するような教えがあった場合は、より仏陀の肉声に近い古層の仏典を優先しようと思っていますし、これはこれからも変わりません。

 

もちろん、すべての言説は道具なのだ、どんな道具でも役に立つものは積極的に使うべきだという人もいるでしょう。

それはそれでいいと思います。

はっきり言って、その人の役に立つのであれば、仏陀の肉声でなくても、創作でも、あるいは、キリスト教の聖書でも、イスラム教のコーランでも、あるいは、近所の10歳の子供がなにげに言った一言でも、それを筏としたいというならその人の自由です。キリスト教で救われた人はいっぱいいると思いますし、その人その人に合った筏を見つければいいのです。

 

ただ、私は歴史上の仏陀が残してくれた筏を探しているのです。

仏陀を誰よりも尊敬していますから。

そして、歴史の堆積物の中に埋もれてきた仏陀の筏は、人類の至宝ではないかと思っているのです。

 

ですから、その趣旨を理解していただけてともに探そうという人は大歓迎です。

 

しかし、『自分は悟っている』『自分はわかっている』『自分は目覚めている』だから、自分の考えは正しいので他のやつに教えてやろう、という人は時間の無駄ですので来ないでいただきたいのです。このブログに書きましたが、私には師は要りません。仏陀の説いた法を島とするだけです。

 

ヤフー掲示板にも、『自分は悟っている』『自分はわかっている』『自分は目覚めている』だから、自分の考えは正しいので他のやつに教えてやろう、という人がいました。

マージャンと呼ばれている人、女マージャンと呼ばれていた赤い実という人、和弘という人、この人たちは、『自分は悟っている』『自分はわかっている』『自分は目覚めている』と思っていて、自分の考えを聞いて欲しくて、人を教えたくて仕方ないようでした。

あちらこちらの他人のスレッドによく投稿していました。

そしてみんなに嫌がられていました。

その人たちは自分が立てたスレッドがあるのですが、誰も来ないで閑散としているので、どこか閲覧数の多いスレッドにさかんに投稿していました。

ヤフー掲示板がなくなって、このブログに移行してからは、ブログの趣旨に合う人だけと話せるので本当に快適です。

 

このブログは、歴史上の仏陀が本当に言ったこと、本当に残してくれた筏は何かを探求するものです。

その趣旨を理解して、いっしょに学んでいこうという人に限り、このブログを見ていただきたいですし、コメントをしていただきたいと思っています。

 

 

 

 

>> 最後に、最初にお話しした通り、近いうちに十二縁起について述べさせて頂こうと思います。しかしただただ、十二縁起を語るつもりはありません。 十二縁起がなぜ渇愛の滅尽につなげることができるのか?という、そのメカニズム、根幹をメインに経典に即してお話しします。 なぜか?十二縁起そのものについて議論しても、渇愛の滅尽という成果の成就に対して、なんの成果もでないからです。

 

有尋有伺さんのこの言葉が非常に引っかかりました。

実は十二縁起というのは、難解中の難解であり、たぶん今までに完全に解き明かした人はいないように思えるのです。

それを、有尋有伺さんは、最初から、十二縁起は簡単なように言われていました。

いままで、そういう人を見てきた経験からすると、十二縁起を簡単だと思っている人は実際には十二縁起の深さ、難解さが理解できてなかっただけだったのです。

十二縁起の、無明⇒行 を前世の行為と解釈すれば簡単なのですが、それでは、今において、無明を滅して苦を消滅させることが出来ません。前世の行為や無明はすでに起きたことだからです。

いま、たちどころに滅するものでなければならないはずです。

 

ですから、十二縁起は難解中の難解なのです。

少し期待しましたが、結局、十二縁起を語るつもりはないとのこと。

 

そうですか、というしかありませんね。