レス

ターボー (210.138.216.243)  

ショーシャンクさん、お久しぶりです。 ブッタの言った「縁の滅を知ったので疑念は全て消え去る」とは法華経の一仏乗だと思います。 私が貴方、貴方が私なら縁は滅します。 ですから十二縁起の無明とは一仏乗を知らないことだと思います。 自己の世界があるだけならば、この世を捨てて涅槃に渡る。親類縁者を捨てて涅槃に渡るという心配はありません。 更に言うと中心を形成しているのは、おちんちんだと思います。 このおちんちんが性別という二元性の最も根源になってるように思います。 性欲の元は全体ではなく、他の誰でもない個でありたいという欲求だと思います。 そして自分を肉体に縛り付けている杭もこのおちんちんだと思います。 そこでショーシャンクさんにお聞きしたいんですが、ショーシャンクさんは帯妻されていますか? お子様はみえますか? プライベートな質問なのでお答え出来なければ構いませんが、私はもう今はかなり現象にも無量が現れるようになってきており、いつまで個で居続けることが出来るか。この先どうしようか迷っているのです。 ですからお聞きしたいのです。
 
 
ターボー (210.138.216.243)  
それとショーシャンクさんには本当に感謝しております。ショーシャンクさんのお陰で仮釈放出来たようなものです。 ずっと苦しい地獄にいて救い出してくれたショーシャンクさんには感謝の言葉しかありません。 今は漫画喫茶にきてこの文章を書いています。携帯ではショーシャンクさんのブログにはアクセス出来なくなってしまったので、(おそらく無量が効いてる。最近携帯がおかしいです)返信はできないかもしれないです。あまり突っ込んだことを書くと他の人の修行の邪魔になるからアクセスできないのかもしれません。とにかくありがとうございました(^_-)-☆
 
 
ターボー (210.138.216.243)  
ショーシャンクさんのブログに書き込めなくなるとほぼ同時に10年ほど前から知り合いだった創価学会の女性と縁あり知り合いました。 物凄く波長が合い、彼女から法華経のことを毎日少しづつ教わっています。 自己の表裏だから当たり前なんですが、物凄い波長が合います。 LINEでやり取りしてるんですが、毎回同時に書き込んでます(笑い 私とは性格とか考え方とか魂の傾向性も私にそっくりで心が通じ合えるいい子です。 でも結婚して旦那さんがいます。 だから悩んでいます。 婚姻関係など言うまでもなくフィクションです。虚妄です。 でも旦那さんのことを考えると手を出すわけはいかないし・・・。 彼女は私に好意は持ってくれてるようなんですが。というより私が好意を持ってるから彼女も好意を持つのだと思うのですが。
 
 
ターボー (210.138.216.243)  
30年地獄を見てきました。 自業自得ですが。 だから今すぐ窮極の涅槃に入らないでも人並みな幸せを味わいたいんです。 このまま今生を終えたら勘定が合わないです。 30年の間に何人かの女性とお付き合いしましたし10年ほどは同棲もしていますが、心の傷があり内省していなくてその傷に気が付かぬまま、心を開いて付き合えていませんでした。今のその彼女とは心底本音で何でも話し合えています。彼女も私も普通の人には理解されない孤独を共有してると思います。
 
 
たーぼーさん、こんにちは。
それぞれの人でそれぞれの解釈があって当然だと思いますし、それで救われればそれが一番だと思います。十二縁起にしても、『縁の滅』にしても、解釈はいろいろ成り立つと思います。
ワンネスの世界観で解釈することも可能でしょう。
 
ワンネスの世界観は私も大好きですよ。20歳の時に相当はまりました。
禅語で「心迷法華転 心悟転法華」(心迷えば法華に転ぜられ 心悟れば法華を転ず)のところ、道元は、『法華転法華』と言いました。これは凄い言葉です。ワンネスです。
シャンカラは大好きですし、ラーマクリシュナもラマナ・マハリシもヨガナンダも大好きで、クリシュナムルティの本は全巻持っています。
ワンネスの世界に浸るのは至福なのですが、残念なことにその世界は想像でしかありません。現実には対処できない。日常生活には感覚があり、『私』と『私のもの』で成り立っているので、そこから遊離して私もあなたも一で私はない私のものはない、という意識で生活することなど1日たりともできません。寝たきりの老人であればできるでしょうけど、お金を稼いで生活することはできません。
どうしても『筏』が必要なのです。
これは私の考えですので、ワンネスそのままで生活できるというのならそれでいいとは思います。
 
質問の答えですが、私は既婚者で妻はいますよ。仲はいいです。私は人と長時間おしゃべりして楽しむこともできますが基本的にひとりでいる時間が貴重で至福です。妻は私に精神的に依存しているところがあります。そこがちょっと心配ですが。
 
 
たーぼーさんが抱えている心の傷がどのようなものかはわかりませんが、人はみな傷や痛みやへこみを持っています。
そして、その痛い感情を伴う記憶の束をdeleteしていかなくては、記憶の束という中心に縛られて本当には無量を感じることができません。
もちろん、記憶の束を放置したまま、座禅や瞑想や想像や音楽で無量を感じた気になることはできますが、日常生活に戻ると元の木阿弥です。
 
たーぼーさんの文章を読んでいて少し心配なのは、強い痛みを抱えたままだと同じような痛みを抱えた人と出会い共感することになることです。
 
古来、神道では大祓祝詞によって、キリスト教では懺悔によって、記憶の束をdeleteしてきました。仏陀の説いた法でも、十二縁起や四念処や四正勤は、本来の意味では、deleteすることを説いたものだと思っています。
 
どのような方法でもいいのですが、記憶の束をdeleteしていくことをお薦めします。
唯識論でもそうであるように、人間は阿頼耶識に記憶という種子を溜め込んでいてそれが発芽して現象となるのですから、溜め込んだ種子をきれいにdeleteしていくことが将来の現象に無量が現れることになるのだと思っています。