非常に重要な言葉があります。
【神いわく】
人が、いかなることをなさないように心を抑制しようとも、まさにそのゆえに、苦しみはその人に到達しない。
人は、あらゆることを離れるように、心を抑制せよ。
そうすれば、かれはいかなる苦しみからも解脱する。
【尊師いわく】
心を、あらゆる事柄から離れるように抑制すべきではない。
すでに自制されている心を抑制すべきではない。
悪の起こるところから離れるように、それぞれの場合ごとに心を抑制すべきである。
(第1篇 神々についての集成)
注(解説)にはこうあります。
神の立言は、心をして善悪両者から離れさせようというのである。それに対して釈尊は、『施与をなそう。戒めを守ろう。』という心は抑制すべきではない、という。
最初期の仏教の立場は、倫理的であった、というべきである。
つまり、『善悪を超え・・・』という般若経的、禅的な表現とは異なったものであったのである。
つまり、禅や今のはやりの考え方である、『善でも悪でも思考そのものをなくしていこう』というやり方は仏陀はあきらかに否定していると言うことです。
仏陀は明らかに思考をなくそうとはしていなかった。
真理の観念(これを理法という)を選び取り(択法)、それを心に保持して繰り返し念ずる(念)。
これが仏陀が言ったことです。
次も非常に重要です。
慢心を捨て去った人には、もはや結ぶ束縛は存在しない。
かれは慢心の束縛がすべてはらいのけられてしまった。
聡明な叡智ある人は、死の領域を超えてしまったので
「わたしが語る」といってもよいであろう。
また「人々がこれこれはわがものであると語っている」と言ってもいいであろう。
真に力量のある人は、世間における名称を知って、言語表現だけのものとして、そのような表現をしてもいいのである。
「私という中心」が消滅して無量に到達しても、世間の言語表現を使って「わたしはこうこうした。」とか「わたしのもの」と仮に語ってもいいということです。
そうでないと日常生活はおくれない。
善き人々の正しい理法を知るならば、智慧が得られる。
そうでなければ得られない。
四諦や十二縁起などの理法を徹底的に知ることです。
そこで初めて、智慧が得られます。
思考をなくしたり、思考に気づいているだけで、智慧など絶対に生まれません。
思考は連想によって妄想になりがちなので、その連想を止めることは重要ですが、それは初歩にしか過ぎません。
喩えれば、畑の雑草を抜くようなものです。
畑の雑草を抜くだけならば、何もないただの空き地になるだけです。
理法という種を植えなければ智慧は生じません。
ただの空き地になること、これは後世では空の境地として非常に高く評価されています。悟りはてたる上の空かな、です。
しかし、空っぽになっただけでは智慧は生まれません。
現実から遊離していきます。
空一辺倒の悟りを生悟りまたは野狐禅といいます。
これは、現代にも蔓延っている考え方です。
思考や想念を悪として考え、それらを取り除くことまたはそれらに気づいていることによって思考のない境地でいようとする試みすべてです。
禅のほとんど、クリシュナムルティやノンデュアリティ、ワンネスなど現実遊離へと導く教えは、雑草のない空き地を理想としています。
仏陀の死の直後に第一結集があり、それから100年後の第二結集、根本分裂から部派仏教の時代が始まりますが、その間ずっと、仏教は灰身滅智の考えへと大きく傾いていきました。創造の主体を見失ったのです。
そして、失われた主体、仏陀の真意を復興しようとした運動が大乗仏教でした。
しかし、その大乗仏教も部派仏教と同じく、仏陀の真意を失っていきます。
禅は大乗仏教ですが、その中で極めて優れた臨済とか白隠などは空一辺倒の悟りを非常に嫌い自ら創造の主体になることを説きますが、やはり大多数の人は空に傾き自らの創造の主体性を獲得することもなくなっていきました。
一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者であるブッダに、罪過、過失、迷妄は存在しない。
ここでは、慈悲が出てきます。「一切の」となると無量心です。無量心であるブッダは完成していると言うことです。
炎の燃えさかる家から器財を運び出したならば、その器財はその人にとって有用なものとなる。しかしそこで焼かれたものは、もはや役に立たない。人の世は、このように老と死によって燃え立っている。
人に与えることによって運び出せ。
人に与えたものは、よく運び出されたものとなる。
布施の功徳の根拠と言うべき文です。
道の人たちには常に自由自主性がある。
(これまで全部、第1篇 神々についての集成)
bhojisiya = 独立・自由・奴隷を脱したる