思考が思考者を作った

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ターボーさんの返信を待っていたのですが。
「自分とは何か」の、ショーシャンクさんの「存在基盤と思い込んでいる記憶の束が抜け落ちたときに開ける無限の空間」という答えは、ぼくの言いたかった答えとほぼ同じ答えでした。
先日の「底が抜けた」話から盤珪のことを話しましたが、盤珪が十五年間考え続けた「明徳」とは「大学(大いなる学び)の道とは、明徳を明らかにするにあり」(大学)の中にあります。辞書的に言えば「天から授けられた(自らの)優れた徳性」という意味で、「自分に備わっているもの」とも読め、盤珪も十五年間「明徳」「自分とは何か」を迷い考え続けたということです。 「自分とは何か」とは、個々、であり、器であり、DNAであり、「自分とは何か」の答えは人の数だけ答えがある訳です。なかなか考えてみても、自分はこうだと答えが出るものではなく、盤珪池田晶子も「底が抜けた」と言っているように、桶の底が抜けるように突然、ハッと分かるものなのかも知れません。 本当は話の上では簡単なことで「因」と「果」の関係で考えると分かりやすいかも知れません。今、我々が生きているのは「果」であり、その「果」とはショーシャンクさんのおっしゃってる記憶の束を作っているものです。「果」があれば当然、「因」があるはずなのに、その「因」が何なのか分かりません。「因」とは何かと考えてみれば、「果」を作っているものであり、「果」を「苦」とイコールにすれば、「苦」を作り出している「矢」があるはずです。「矢」が「因」になります。 つまり、自分に突き刺さっている矢が何であるかと分かれば、矢は自然に解(ほど)け、抜けてゆき、「矢」が、「苦」が、自分(と思っていた架空の存在)という人間を形造っていたことに気がつきます。 「矢」「苦」が抜けた自分は、ターボーさんが禅で言われた「忘我」の話と似ていて、何者でもない名前さえもない自分がそこにいるのです。 ターボーさんの「あれがあって、これがある」というお話は、ターボーさんが自分に突き刺さっている「矢」の正体が分かりかけていて、「因」と「果」の構図が分かりかけているのかも知れないと思ってみてました。 戻るところは、個々であり、それぞれのDNAの中に「自分とは何か」という延々たる答えが隠れているのでしょうが、現実に現れている「果」の部分ばかりを見つめていても答えは出ずに、「因果」の「因」の部分に目を向けることに気がつけば、「果(今の自分)」も綺麗さっぱりと底が抜けるんだと思います。話そうと思っていたことが話せているのかも自信がなく、うまく説明できなくてすみません。
 
 
これは、自費出版の中でのみ書こうと思っていたことですが、夜半に嵐が吹くかもしれませんので書いておきます。
 
『矢』とは何か。
自分に矢が刺さって痛い、その矢を抜かなくてはいけない、誰もがそう思います。
しかし、自分に矢が刺さっているのではない、『自分』こそが『矢』なのだ、それがわかったとき、仏陀が言おうとしたことがはっきりわかりました。
顛倒夢想。私たちは顛倒しているのです。仏陀の見方と私たちの見方は180度違うのです。それが顛倒ということです。
自分という存在基盤、様々に作り上げてきた『自分』という中心。
クリシュナムルティが言った、『思考者が思考しているのではない。思考が思考者を作ったのだ。』という言葉。
 
因果といいますが、歴史上の仏陀は因と言う言葉はあまり使っていません。
仏陀は、縁といいました。縁起です。
後世になれば、因というのは直接的な原因、縁というのは間接的な原因、などという解説が横行しています。
全く違います。
目覚めの偈にありますように、仏陀は『縁の滅を知ったので』目覚めたのです。
縁起とは苦の縁って起こる原因です。間接的な原因などではありません。
それが滅すれば苦が滅するとされる根本原因です。
縁起とは十二縁起です。
そして、根本原因は無明です。
無明とは何か、四諦を知らないことです。苦であることを知らず、苦の集起するありさまも知らず、苦の滅するありさまも知らず、苦を滅する道も知らない、つまり『苦』そのものを知らないことです。
それが『苦』であることを知らないから、『行』すなわち能動的な衝動というか形成せんとする意思というか、それが生じる。苦でなく好ましいことと思うから形成せんとする能動が生まれるのです。
それが五蘊を集合させ、感覚が生まれ、感覚の記憶が生まれ、記憶の反応としての思考が生まれ、思考が集まって観念となり、記憶の束・観念の束である『私』『自分という中心』が生まれる。
 
盤珪は『明徳』を知りたくて何年も何十年も死に物狂いで坐禅しました。
これは『明徳』でなくとも『無位の真人』でも『本来の面目』でも同じく悟っただろうと思います。
 
しかし、それが本当にわかるためには、ため込んでいる記憶データをクリアにしていかなければいけないでしょう。
仏陀は、それをクリアにするために、四念処や四正勤を説いたのだとはっきりわかりました。
盤珪は本当に悟った人だと思いますが、残念ながら『不生の仏心でござれ』とだけ言って筏を与えなければ誰も何も変わらないでしょう。