deleteの方法

ターボー (126.33.158.234)    

>>sabbe dhamma anatta 一切の事物は我(われ)ならざるものである。=諸法非我 これがパーリ聖典にあらわれる古い思想である。 ところがのちには「一切の事物は恒存する実体を持たない」=諸法無我 と解釈するようになった。
ショーシャンクさん、おはようございます。 全く仰ってる通りだと思います。 結局ここが一番の要点だと思います。 私が思うに日本の大乗仏教は一手間かけ過ぎだと思うのです。 公案にしろ、数息観にしろ、念仏にしろ、祈りにしろ、全て対象との一体化です。 方便という対象を使えば一体化せざるおえないわけです。 一体化すれば諸法無我にするしかない。 以前ヤフー掲示板でお話しした、印可2個持ちのベテラン禅者の方といくら話しても合わないのは、この点だったと思います。 「目の前のPCが貴方、目の前のスマホが貴方」だと言われても私にはそんな経験ないので全然分からなく反発してしまいました。 しかし、今率直に考えますと、これは自分が自分に対して腹を立てていたのだと思います。 私は、自分の自己重要感の欠如感を満たす為に、自分に注目して欲しかったのだと思います。 分かったように書いてても、それは自分の過去の悟りの記憶で書いていただけで、今現在の自分の現状はどうかと言うと、この170センチあまりの肉体と一体化してるわけです。 その自分の理想とする場所と、現状の肉体に一体化してしまっている自分の不甲斐なさ、これをその禅者さんの発言に投影させて腹を立てていたと思います。 つまり人に腹を立てる時には、自分の中の葛藤に触れられて、自分で自分に腹を立てているのだと思います。
 
 
たーぼーさん、おはようございます。
私はこの数日で劇的にわかりました。
人が何に自己同化し感情移入し『私』という中心を作っているか、
そしてなぜ禅など仏教で悟ったという人に普通より我が強く人が悪くなることが多いのか、
人は何故引き寄せの法則を知っていても引き寄せに失敗するのか、
我などないとか無我だという人に限って凝り固まった我執があるのはなぜか
・・・・そういう疑問がすべて氷解しました。
 
玉城康四郎博士はなぜ、学生の時から真剣に坐禅に打ち込み見性も印可も数多く経験し『爆発体験』もたくさん経験したのに数日で元の木阿弥になって最晩年には『自分の仏教理解は間違っていた』と述懐したのか、親鸞の念仏にも傾倒し高僧に師事しどの人も真似できないほど真剣に取り組んだのにどうして救われなかったのか、です。
 
意識はとんでもない暴流だということ、これを本当に心底から実感しなければ何一つ変わらないことがはっきりわかりました。
無我だと思えば無我だとか、無我だと思わなくても無我だとか、もうすでに救われているのだとか、私などないのだからすべてはただ起こっているだけとか、そういう言葉に一時的にいい気分にはなったとしても何一つその人は変わりません。
肉体の感覚があり、私があるという思い込み、中心は厳然としてあり、『私などない』とか無我だとか頭の表面で考えたことと実際の日常生活での行動の中心である『私』がいつも自己矛盾し分裂した精神になるだけです。極めて中途半端な生き方、精神になってしまいます。
いくら坐禅をしてその40分間だけ思考を止めても、『私という中心がある』という感覚は全く変わっていないのです。それが見性をし印可を受けた人でも同じです。
『自分は悟った』と思っているから普通の人よりも余計強固な自我を形成しています。
 
仏陀は四念処法で、身、受、心、法を非我と見なす『一乗道』を説きました。
肉体、感覚、思考、そして記憶の束です。
このようなものに人は自己同化、感情移入を強くしていますので、この4つについて『私ではない』と徹底的に見なすことが必要です。
特に自我の中心となっている記憶の束を消去していく作業、これがないと絶対に無量には近づけず、いくら本人は悟った気分でいたとしても環境には欠乏感が現れてくるでしょう。
 
生まれてからこのかた、溜まりに溜まっている記憶の束、感情の束をdeleteしていくメソッドを抜きにしているから、ほとんどの宗教や修行はどこにも行き着かないものとなっているということがはっきりとわかりました。
わずかにそのメソッドがあるように思われるのは、
仏陀の三十七菩提分法
神道の大祓祝詞
くらいかなと思います。