四念処観についてのレス

<<ショーシャンクさん。仏教についてのひとりごとで、お返事ありがとうございました。あちらのコメントを書くボタンを押してもなにも開かないので、こちらにコメント書かせてもらいます。 「イメージによって」「イメージをフルに使って」というのが、どういうことなのか、をできれば教えていただきたいです。 それは自分を外から客観視するようなイメージでしょうか。自分の内部から見ているようなイメージでしょうか。 そのイメージによって、非我であることを腑に落とす、納得する、という感じでしょうか。 ヴィパッサナーでは、思考やイメージはたんに手放す対象なのだと思います。そうした瞑想法とは違うイメージの使い方について、教えていただけないでしょうか>>

 

瞑想には、無思考型瞑想と徹底思考型瞑想があると思います。

今まで、仏教もほとんどが無思考型であったと思います。

思考をなくすこと、想いをなくすこと、イメージをなくすことが究極の瞑想と思われてきました。または、想いにいつも気づいていること、これも思考を使わない瞑想で、想いというのはただ浮かんでは消えるあぶくのようなものなのでそれを掴まずにただ見ていれば消えてしまう、というものです。

道元曹洞宗は黙照禅ともいわれ、何も考えずに只管打坐することが仏そのままだとされています。

臨済宗公案禅は、理屈では解けない公案を徹底的に考えますから、徹底思考型瞑想といえなくもないですが、要はいくら考えても無駄なことを考えて無思考に到達するものでしょう。

 

歴史上の仏陀は、最初、2人の仙人に無思考型瞑想を教わりすぐ師の境地には達しましたが『これは涅槃には至らない』と考え、そこを離れて、自分なりの瞑想を探求しました。そして、四諦、十二縁起の瞑想や三十七菩提分法のやり方を編みだし、涅槃へと至ります。

 

さて、ヴィッパサナーでは、sati (念)を『気づき』と訳しています。

私は、sati を『憶念』『記憶』と訳します。

雲井著『パーリ語佛教辞典』では、sati は、念、憶念、正念、注意 という4つの訳語にしています。

 

sati(念)とは、選択して記憶したイメージ、観念を意識的に繰り返し念じることだと思っています。

私たちが生まれてからこれまで積み上げてきた記憶の束、観念の束は、ほとんどすべて『私という中心』から見たものです。私という中心が主体となって積み上げてきたものです。そこに私たちは閉じ込められています。

本来は無量である私たちの精神は、『私という中心』によって限定され固定化され分離され無量感を感じられないようになっているのです。

この記憶の束、観念の束は、身、受、心、法によって形成されています。

それこそが私が『私』と呼ぶコアです。

そこにとんでもなく感情移入、自己同化しているのです。

そこをイメージと自己洞察によって打ち壊そうとするのが四念処観だと思っています。

身が不浄なのはイメージによるものが大部分です。仏陀の時代は、白骨観といって本当に墓地などで目の前の死体を観察していたようです。今の日本でそんなことはできませんし、できたとしても私はしません(笑)その代わり、イメージによって、肉体というものは劣化し老い、朽ち果てるものだというイメージをして、肉体への過剰な愛着を少しずつ剥がしていきます。

受(感覚)が苦というのも、イメージによります。無思考型の瞑想では思考も感覚もなくなりますから束縛されることもないですが、瞑想からさめると感覚は戻り一点に固定されていることがわかるでしょう。その感覚による束縛を束縛すなわち苦だなという理解に進みます。

心は無常というのは、とりとめもなく湧き上がる思考がどれも意識的でなく湧き上がっては消えるもの、無常だと理解します。ほとんどの人は、一日の間でほとんど意識的に想いを出さず、外境つまり環境に引き摺られて反応した想いしか出しません。そのようなふわふわした想いが泡のようなもので無常だと観察します。これはイメージというよりは心の観察といったほうがいい感じのものです。

法は非我というのは、記憶の束、観念の束、それは過去のいろいろな記憶ですが、それらこそ私そのもの、私が生きた証、大切な思い出として誰もが愛着しているのですが、それらの記憶の束も『無量である私ではない』としてクリーニングしていく作業です。懺悔に近いものです。いかに、肉体の五官の記憶というものが自分の精神を制限していったかを理解し、それらは『私ではない』と理解しようと努力します。

以上です。

 

 

<<ぷしゅけーさんの質問に答えての瞑想のお話。
ぼくもショーシャンクさんがどんなふうに瞑想なさっているのか興味がありました。
ぼくの疑問は、例えば、四念処なら、四念処を理解して本当にそう思っていない人が、どんなに教え通りにイメージして心に焼き付けたとしても、それはただの教科書の文言を自己暗示してるに過ぎないということはないのでしょうか?id:kougenn>>

 

もちろん、そうですね。圧倒的な実感を伴っていないと、徹底思考型の瞑想には何の意味もありません。頭の上っ面だけで観念することは、かえって現実社会から遊離した精神を生み出すだけです。

ここが最重要なところですが、どの瞑想法にしても、無量に達するための筏です。無量を感じない瞑想であれば、百害あって一利なし、です。筏はその人その人に合う筏でないと転覆します。ですから、質問されたから答えましたが、上記の四念処観は私独自の解釈であり、私だけの筏です。人は自分が圧倒的に『いい気分』になる筏を見つけるべきで、自分に合う筏は自分が見つけるしかありません。

精神世界やスピリチュアルを頭の上っ面だけでかじるのは非常な害毒になります。現実から遊離した人格となります。それなら、精神世界など一切忘れて、現実に取り組み仕事や金儲けに邁進したほうがよほどましです。

無量に向かわないのであれば、その方法はその人にとっては間違っています。

白隠は何度も何度も、虚無に陥ることを黒暗と呼んで最も怖れるべきものと警告してます。

『枯坐黙照をもって足れりとせば、まげて一生を錯まり、大いに仏道に違せん。仏道に違するのみに非ず、大いに世諦もまた廃せん。』

『いたずらに日々、盲亀の空谷に入るがごとし。これ、天竺の自然外道の所見なり。』

 

仏教に限らず、スピリチュアルは虚無思想に陥りやすいので、気をつけて自分を無量に向かわせる筏を見つけるべきですね。