feel goodに従うとは

ターボー      

最古層の仏典『スッタニパータ』で【空】が説かれているのは 【つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を〈死の王〉は見ることがない。】の箇所くらいです。いかに仏陀は【空】を説かなかったか、です。 さて、それでは、仏陀がスッタニパータで説いた【世界を空なりと観ぜよ】の【空】とはどういう意味でしょうか。 それを解明するには、『ダンマパダ』の 【世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。】の言葉が参考になります。
ショーシャンクさんこんばんは。 私が思うのは、根本が違うと思うのです。 仏陀は、空を死の王と言っているのです。 禅では、それを見性と言っているのです。 どの公案においても、公案三昧になり、公案と一体になることなしに、見性する事は出来ないと言うのです。 明らかに、死の王を見る事を持て囃しているわけです。 しかし、見性した事が分かるのは、自我に目覚めた後です。 自分と世界が対立した後でないと、見性した事が分からないのです。 実は私は臨済宗系の日本で一番大きな禅道場に通った事があるのです。そこで初関として、夏目漱石の門でも有名な、 「父母未生以前の本来の面目如何」という公案を貰いました。 これに透過すると、見性ということになるわけですが、私は独参を受けないで5回程通って辞めてしまいました。 独参を受ければ、通る自信はあったのですが、どうしても抵抗感がありました。 その時は何故だか分かりませんでしたが、ショーシャンクさんが言うfeel butだったのです。 しかし、今冷静に考えると、それはこの公案と一体となるという手法だったように思います。 ヤフー掲示板で話していた、印可2個持ちの禅者Wさんと全く同じことを言われました。 「接心に参加すれば上手くいけば一回の接心参加で見性出来るよ」 実際には、今の禅道場の見性の基準とは、老師ごとに違っていて、老師の裁量次第なのです。 別に大悟でなくても、無我を垣間見ただけでも老師によっては通すんですが、そこでこれまたWさんと同じことを聞きました。 そう言った緩い見性基準であっても、人によっては7年も8年も透過出来ない人がいるというのです。 これはあまりにおかしいと思っていて、私はこの7年も8年も透過出来ない人の中には、この公案と一体になるという手法が合わない人がいるんではないかと思っているのです。 中村元さんのインタビューで、興味深い事を言っていました。 宇宙との繋がり方が、銘々各々違うと。 ただ普通の人は、中々それに気づけないと思うんです。 私も自分を信じきれずに、随分長い間寄り道してしまいました。 自分の反省からも、自分の心の奥の真の声に耳を澄まして、自分の心に忠実に行動すべきだと思います。 ただこの心の奥の真の声に耳を澄ますというのも、難しいですから、ショーシャンクさんの言う、feel goodかfeel butかと言う感性を大切にして行動する事は、とても大事だと思います。
 
 
たーぼーさん、こんばんは。
禅は魅力的ですね。臨済、普化、長沙、白隠など好きな禅僧はいっぱいいますし、好きな禅問答や公案もいっぱいあります。
ただ、歴史の名が残っている禅僧は素晴らしい境地に至っているから名が残っているのであって、禅のシステムで一般の衆生が本当に悟れるのか、という疑問はずっとありました。
むしろ、座禅に打ち込んで、人格がかえって悪くなったり精神的におかしくなる例も聞いたりするのでそれがどうしてかがわかりませんでした。
 
生まれてからの記憶の束が無量から離れていて苦であったと洞察することがどうしても必要なのではないかと最近実感しました。これは、伝統的な仏教ではほとんど伝わっていないメソッドです。仏教にも懺悔の文字はありますが、要は懺悔文を読むだけというように形式的なものになっています。神道キリスト教のほうに残っていますね。
 
さて、feel good  か feel bad  で、自らのfeel goodに従うこと、ですが、これの最も重要なことは、他の人間の目を優先してしまって自分のfeel goodを犠牲にしてしまうことを止める勇気です。
これは人間特に日本人には非常に難しいことです。
日本人には『他人様の目』『世間様の目』が絶対神に近い役割をしているからです。
 
『世間様の目』よって自分のfeel goodを犠牲にしないこと、これは本当に重要ですね。