仏教についてのひとりごと 89

たーぼーさん、おはようございます。
権力者に近づかない潔癖さというのは素晴らしいと思います。
破門も師匠の判断なのでいいのですが、問題はその後です。
破門した弟子が座っていた場所ということで床を取り壊し、その床下を地面を2mも掘って捨てます。
ここまでするのはさすがに異常です。
破壊しているのは仏法の道場ですよ。
これは、道元の中に怒り、憎しみがあったのです。
道元は自らの権力者に阿らない潔癖で純粋な人格という自己イメージが弟子の行動によって傷つけられたので異常な怒りを持ったのです。
この行動を見ると、道元は自己イメージから脱却できていない、自由でないと感じています。

私がすべての禅者のなかで最も高い境地にあると思っているのは、普化です。
禅の世界でスーパースターは臨済と趙州だと思われています。
道元も、「臨済と徳山が両雄というが、徳山は臨済に及ぶべくもない」と言ったくらい、臨済は他を絶していますが、それ以上に自由な境地にあったのは普化です。
普化などに比べると、道元はがんじがらめに縛られまくっている印象です。

あと、pipitさんから教えていただいたパーリ語原典のサイトですが
このスレの過去の投稿にあると思います。
pipitさんの許可が得られれば、再掲します。

 

 

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pipitさん、おはようございます。
引用ありがとうございます。
この文章によると、四念処観を修していくことにより四諦智慧に到達する感じですね。
あくまでも修行方法、瞑想法としては四念処観で、四念処観によって四諦を一気に洞察できる智慧に達するということだろうと思います。
確かに、四諦にしても十二縁起にしても修行方法瞑想方法という面と同時に智慧そのものという面があるように思えます。
智慧が開けてくると四諦が実感として迫ってくる感じはよくわかります。
特に苦諦は、理論や観念ではなくて実感が伴わないとその真意は絶対にわからないものだと思います。

 

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たーぼーさん、おはようございます。
<<孔子は如何でしょうか?>>
うーん、私には孔子のよさがよくわからないのです。世界の四大聖人の一人とされていますが、なぜそれほど評価が高いのかが不思議です。
私は荘子がとても好きで、荘子では孔子はとらわれの多い俗人というような徹底した道化役になっていることも影響しているのかもしれません。『維摩経』で維摩居士舎利弗など釈迦の高弟たちをコテンパンにやっつけるといった感じで、『荘子』では老子荘子孔子をやっつけます。

論語』を読んでも、自分には抜群の才能が有って知識も誰にも負けないのに世間に認めてもらえないというちょっと拗ねた感じしか受けないのです。
例えば『巧言令色鮮し仁』という言葉でも、才能のある自分はおべっかが使えないので誰にも重用されずお世辞ばかりうまくて薄っぺらな奴が出世している、というようなことを弟子に愚痴ってるようにしか思えないのです。

また、孔子を祖とする儒教は、それを重要視した国の近代化を阻害した要因だと思います。
日本では江戸時代に施政者が国を治めるために儒教を奨励しましたが
なにせそれまでに培ってきた禅や法華経神道の影響力が抜群に強く、それらを凌駕する影響は持ちえませんでした。それが明治維新以降の近代化には幸いしたと思います。
中国や韓国(朝鮮)では儒教が社会制度の基盤にもなっていたので、職業差別がはなはだしく
儒教聖典に精通した文民、官僚だけを重要視しましたので、近代化が大きく遅れてしまいました。

 

 

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たーぼーさん、こんばんは。
私もpipitさんが教えてくださったビク・ボディの十二縁起の解説見てみました。
この解説は、今まで読んだ中で一番いいですね。
十二縁起の中で、ものすごく悩んだのが、【行】【識】【有】【生】です。
特に【行】は最大の難関でした。
十二縁起を詳しく説明している経典は、相応部経典『分別』です。
原始仏典に書いてある以上、その内容を無視するわけにいかないのです。
その相応部経典には、【行】は、身口意の行為、とあります。
しかし、【名色】という個体が出来る前に、身の行為、口の行為ができるわけないということでどうしても納得できませんでした。
その身口意の行為とは過去世の行為という解説もあるのですが
【無明】も【行】も過去世と言う解釈に逃げていては、今世で縁を消滅させることが出来ず、仏陀の本意ではないと思いました。

私に今の【行】の解釈は、ビク・ボディに近い感じです。
しかし、ビク・ボディは、相応部経典『分別』の解釈は無視できているのでしょうか。
私はそこで相当悩みましたが。

 

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pipitさん、こんばんは。

相応部経典『分別』貼っていただいてありがとうございます。
私は、『分別』の中の【行】と【識】の経文のために、解釈がかなり難航しました。

pipitさんの言われたビク・ボディの解説を読みますと
私の結論と似ています。
ビク・ボディは、【行】を意志的な形成力と解釈しています。
『分別』の身口意の行為という解釈を離れていいのであれば
かなりスムースです。
【行】を前世のカルマと捉えるのも有力な説なのですが
私は『形成しようとする意志』と捉えます。
ビク・ボディのいう意志的な形成力と同じか違うかはわかりませんが。

 

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私は精神世界の本を手当たり次第買っていた時がありましたが
麻原の本だけは一冊も持っていません。
やはり波動に嫌なものを感じたのでしょう。
そういうことは大切なことかもしれませんね。

 

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十二縁起の難解なところは、
無明⇒行⇒識⇒名色⇒六入⇒触⇒受⇒愛⇒取⇒有⇒生⇒老死
のうち
名色が4番目にあり、そのずっと後の11番目に生があることです。
名色とは、仏陀より前のバラモン教では、名称と形態という意味で、個体を表わしました。
仏教では、名色とは五蘊(色受想行識)の集まりのことで、やはり個体、人間存在を表わします。
名が受想行識の精神作用、色が色を表わすとされました。

生=生まれること のずっと前に個体が出来上がっていることになります。
個体ができ、六入という感覚器官ができる前に識があるのもおかしな話で
相応部経典『分別』では、識は眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の六識と言っていますので
感覚器官ができる前に六識があるはずもなく、事実と矛盾するのです。
また、名色=個体 ができる前に、行=身行・語行・意行の3つの行為 があることになっていますが、これもおかしな話です。

ですから
無明⇒行 は過去生のカルマ
識⇒名色⇒六入⇒触⇒受⇒愛⇒取⇒有 までが現世
生⇒老死 が来世
というような解釈が有力となっていきました。

この解釈ですと、輪廻転生が大前提であり、
輪廻転生を否定する仏教者は十二縁起をどのように解釈するのか、聞きたいところです。