仏教についてのひとりごと 53

これはたぶん誰に言ってもわかってもらえないと思いますが、私の中では確信に近づいています。

仏陀は、仏教などという宗教の開祖になろうとは思ってもいなかったし
形而上学的な教義を説いたこともなかったのです。
これは『私は過去の覚者たちが発見した古城に至る古道を発見しただけだ。その道は私が生まれていなくても厳然としてあったものだ。』
『わたしは、これを説くというものがない』
『教義によって戒律によって清浄になるとはわたしは説かない』
という言葉からも明白です。

『生じるものは必ず滅する』というだれが見ても明白なまのあたりの真理を指し示し
人間はすべて苦の集積に向かっている、このありのままの事実を指摘したのです。
そして、苦の消滅に向かう筏として四諦十二縁起(またはその原型)を説きました。
アートマンブラフマンも霊魂も否定も肯定もせず無記でした。
そのようなものを想定することはただの『想』にしかすぎず、涅槃へと赴かない、迷妄にしかすぎないからです。

『どのようなもの、物質であっても心であっても、つまり五蘊のどの要素も、わたしではなく、わたしのものでもない』というのが本当のメッセージです。

それを後世の、圧倒的に大多数の凡庸な魂たちが、諸法無我アートマンがない と解釈したために業の主体との矛盾が生じ、それを説明するために膨大な形而上学的教義が作り上げられていきました。
凡庸な魂たちは、自分たちが奉じる仏教が、ほかの宗教とくにバラモン教とは正反対の優れた教えだと優越感を持つために、バラモン教の否定を強調することになりました。
無我=アートマンなど無い  という教義もその流れです。
また、仏陀の指し示したまのあたりの真理そのままを洞察する代わりに、信仰という贋金を作りそれをどんどん重要視するようになりました。
仏陀は信仰など説かなかったのです。
しかし、凡庸な精神には、まのあたりの真理を洞察するより、何か架空のものを信仰するほうがずっと楽であり、大衆には浸透していきました。

ここにおいて、仏陀の真意はすべて失われたと思います。

 

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ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳(P431)

最初期の仏教は<信仰>(saddha)なるものを説かなかった。
何となれば、信ずべき教義もなかったし、信ずべき相手の人格もなかったからである。
『スッタニパータ』の中でも、遅い層になって、仏の説いた理法に対する「信仰」を説くようになった。

 

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「信仰は、ものごとが見えていない――『見える』ということばのすべての意味において―場合に生じるものである。
ものごとが見えた瞬間、信仰はなくなる。
もし私が『私は掌の中に宝石を隠しもっている』と言ったら、あなたはそれが見えない以上、私が言ったことが本当かどうか、私のことばを信じるかどうか、という問題が生じる。
しかし、私が掌を開き宝石を見せれば、あなたはそれを自分で見ることになり、信じるかどうかという問題は起こらない」

ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ

 

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はじめまして。
そうですね。あなたの書かれていることは、『仏教』の中核とされているところのものです。
仏教の根本真理は「無我・空・縁起」、縁起の法により無我、空が導き出される、ということですね。

<<議論する気はありませんのでアシカラズ>>ということですので
私も何も議論はしません。

ただ、私の切なる願いは『歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったのか?』というテーマを探求することです。
まずは、今まで築き上げられた仏教というものを外して、歴史上の仏陀が何を言ったのか、を調べています。
ある時点までは今までの仏教教理を全否定しなければいけないことにもなるかと思いますので
賛同者はひとりもいないでしょう。
また、こういう掲示板で否定されると感情的になる人も多く
あまりいいことではないかもしれませんね。

そろそろ自費出版の原稿のほうに軸足をおいて、他人との無駄な論争や言い争いは避けた方が賢明かもしれません。

 

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歴史上の仏陀の真意を探求するのがテーマですから
大乗仏典は探求する資料にはならないです。

無我をはじめとした形而上学的な教義作りに没頭し論争した上座部説一切有部などの部派仏教のアンチテーゼとして大乗仏教が興ったと見ています。
仏陀の真意が伝わったのは、第二結集までの根本分裂前の原始仏教でしかないです。
いま伝わっている上座部仏教仏陀の真意とは離れていると考えます。

 

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いやあ、よくわかりましたよ。
今の仏教は大乗仏教上座部仏教も、仏陀の真意とかけ離れているので
どこにも行き着かないばかりか、奉じている人の人格も破綻してますね。

micやsanの投稿見ている人で、この人たちの奉じている教えを学ぼうと願う人はいますかね(笑)
強い逆効果になってると思いますね。

本当の法華経信者なら、法華経に説かれているように周囲の環境を仏国土にして無量の富を引き寄せて、ひとたび法を説けば多くの人を惹きつけているはずですが、sanがそうなっていないのは法華経を本当に行じていないからです。
micも何とかの一つ覚えで、親鸞信者でありながら、戒定慧とか、出家しろとか、どしろーととか、大乗涅槃経とか、もう支離滅裂ですね。宗教的センスのカケラもない。
この人は親鸞の教えの本質が全くわかっていない。
1日中迷惑投稿し続けているということは、無職か年金生活者ですかね。
迷惑投稿ばかりする亡者のようになっているということは根本から間違っているということです。

 

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あなたは、10万以上にも及ぶ自分の投稿を読み返したらいいですよ。
自分が言うように「素直  謙虚   純粋無垢」なのか、どうか。

あなたのは机上の空論だし、それ以上に全くどの教えにもかすってない支離滅裂にガラクタを集めただけ。
だから、どこにも行き着かない。
そして、誰からも相手されずに、1日中、ネット掲示板の亡者になっている。

もっと、有意義に時間を使いなさい。
このままではもっと環境は悪くなりますよ。

 

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そうなんですよね。
ここは、歴史上の仏陀が本当は何を言おうとしたのか、を自由な立場から検証するスレですが
自由な立場でなく、何かの宗派や宗教団体に属して、その教義やドグマからしか見ることができない人が多いですね。

原始仏教と言えば、日本テーラワーダ協会に属していて、スマナサーラの本を読んでいる人、ですし、大乗仏教は、法華経といえば日蓮宗に属してるし、大乗涅槃経といえば真如苑に属している、というように、なんらかの団体に属し、そしてその教義からでしか経典を見ることができないのですから、自由な立場、客観的な立場からは程遠いですね。

ドグマから経典を読んだところでどこにも行き着かないし、行き着くとすれば強められたドグマだけです。

白隠は、若いころ、法華経を読んで『こんな物語やたとえ話しか書いていないものを読んで悟れるなら講談本を読んだ方がましだ』と言ってそれからは読みませんでした。
しかし、40歳を過ぎて悟った後、ふと読んでみた法華経で号泣したと言います。
この読み方こそが本当の読み方ですね。
仏陀の真意がわかったあとに読まなければ、最初にドグマがあればそのドグマを投影するだけです。
宗祖や教祖が説くドグマのフィルターを通して読んだところで、本質からは程遠いですし
ドグマの矛盾を客観的に指摘すると激怒してきます。
何の修行もできてないということです。