相応部経典45.1『無明』にこうあります。
比丘たちよ、
無明がまずあって、もろもろの悪不善の法が生じ
さらに無慚無愧がこれに従うのである。
比丘たちよ、
無明に従う無智者において邪見は生じる。
邪見によって邪思が生じる。
邪思によって邪語が生じる。
邪語によって邪業が生じる。
邪業によって邪命が生じる。
邪命によって邪精進が生じる。
邪精進によって邪念が生じる。
邪念によって邪定が生じるのである。
比丘たちよ、
明がまずあって、もろもろの善法が生じ、さらに慚と愧とがこれに従うのである。
比丘たちよ、
明に従う智者において正見は生じる。
正見によって正思が生じる。
正思によって正語が生じる。
正語によって正業が生じる。
正業によって正命が生じる。
正命によって正精進が生じる。
正精進によって正念が生じる。
正念によって正定が生じるのである。
つまり、正見=正見解 こそは、明=無明の反対=慧 であるということです。
そして、正見=慧 に至る過程で、慚と愧を経るのです。
無明というのは、四諦を知らないこと、具体的には形成されたものは無常であり苦であり非我であることがわからないことです。
明=慧 というのは、形成されたものが私ではなく、無量心こそが本来の境地だと分かることです。
八正道とは人間の頭で考えた倫理道徳の8つの項目ではありません。
究極の境地=智慧 に基づいた思考、言葉、行為ということです。
明には慚愧が従い、
この明と慚愧によって、初めて八正道の正見=正見解が生じます。
顚倒夢想した見解が、180度転回したものが正見=正見解です。
八正道とは、その正見=正見解を基にした、
思(一瞬一瞬わき上がる想い)
語(口から出る言葉)
業(身体の行為)
命(生活)
精進(四正勤=悪なる法(観念)を断じて善なる法(観念)を生じさせること)
念(四正勤の善なる法(観念)を意識的に繰り返し念じること)
定(善なる法(観念)と一体になること=一境性)
ということです。