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たきさん、こんにちは。
大変難しい問題ですね。
宗教や哲学をやったためにかえって嫌な自我を構築することは極めて多いです。
これはずっと疑問に思っていました。
欲望や願望に忠実で、自分の成功を強く欲している人の方がすっきりとしていい人格であることが多いです。
無我だとか、愛だとか、慈悲だとかしょっちゅう言っている人は、変な自我を形成していて偽善者であることがほとんどです。
私は宗教が団体になり教団になったときから強固な自我を形成していき堕落していくのではないかと思っています。
これに例外はないように思えます。
いま、原始仏教と部派仏教の違いを調べています。
仏陀とその直弟子の時代の原始仏教は輝いています。
部派仏教になってからサンガ中心となっていきます。
出家と在家の区別がはっきりとつけられていきます。
仏教はもともと寄進や布施は膨大に集まって来ました。
僧院中心となっていきます。
働かなくても食っていけると考えた出家希望者がどんどん増えていったように見えます。
そこで、大乗仏教が興ります。これは部派仏教へのアンチテーゼです。
法華経を読んでいくと、大乗仏教が何故興ったのかがわかってきます。
ただ、その大乗仏教も、中国で盛んになったのですが、これもまたレベルの低い人も含めて出家希望者が増え続け、布施よりも出家の方が多くなって寺の経営が破綻していって、百丈が仏陀の戒律を180度転換し、『一日作さざれば一日食らわず』としていきました。
ご質問の件ですが、ミリンダ王の問いが仏教の無我を端的に説明したものだと思われていますね。
理屈は分かりますが、それだけだとただの唯物論であり、人間はただ物質が集まっただけ、精神は脳の信号だけ、となります。
そしてその理屈だけでは反動としてかえって自我を強めることになるような気がしています。
顚倒した見方から180度転回した正見解への大転換が必要なのですが、仏陀在世中にはそれができた人が続出しました。
それが仏陀の力なのでしょう。
たぶん、同じことを言っても、言う人によって、その効果は全く違うと言うことかもしれません。
悟った気分になるのは簡単なのですが、それはただの自我であり、本当の大転換ができるかどうかが極めて重要だと思います。
この1ヶ月半くらい、仕事のことで、不動産がらみの難題が3つも発生し、どれもうちの顧問弁護士が『妙案がなくてすみません』とさじを投げるほど解決策が0%に近かったのですが、がむしゃらに文書や交渉を重ねて何とか解決まで50%や70%まで持っていくことができました。
まだまだそちらのほうに集中していかなくてはいけませんが、少し余裕ができたので、またぼちぼちブログを書いていきます。