エモリマサヒロさん、はじめまして。
いえいえ、私は僧侶でもなければ学者でもなく、つまりプロの宗教家ではなく素人ですから、先生ではありません。
しかし、僧侶でないですから宗派のしがらみからは自由ですし、学者でないですから学説に拘泥しません。自由、気ままな分、書きたいことが書けるのは本当に有難いです。
『無我』説の悪いところは、特に後世、唯物論に傾いてしまったことです。
仏教と言うのは死んだら何もないことを説く教えだと思っている人が非常に多いですね。困ったことに僧侶や学者まで輪廻や死後の世界まで否定します。
仏陀の理法は人類の至宝なのにそれが伝わっているようにはどうしても思えないのです。
既成仏教の寺の数はコンビニより多いと言いますし、仏教系の新興宗教の勧誘は熱心に行われているのに、その中に仏陀の理法はどれだけ残っているのだろうと思うと寂しい限りです。
そうですね。
仏陀は『仏教なるもの』を説いているという気持ちはなく、仏教教団を主催しているという自覚もなかったと思います。
仏陀は、自分はもろもろの覚者たちが歩んだ古城に至る古道を見つけただけだと言っています。
仏陀とその直弟子の時代の原始仏教では、仏陀は目覚めた人のひとりだったと思いますし、目覚めれば自分と同じだと考えていたのでしょう。
しかし、部派仏教になってからは、仏陀はゴータマ・シッダッタひとり、出家者は阿羅漢にはなれても仏にはなれないという考えになっていきます。まして、在家者は悟ったり阿羅漢になることは無理で、ひたすら出家者のお布施をして功徳を積み善き天に生まれることを願う役割となっていきます。
仏陀在世の時は、本にも書きましたように、在家者も悟っていたのです。
わかっていただける方がおられてとてもうれしいです。
四諦十二縁起という仏陀の理法の根本を後世の人々が捨ててしまったのは、まずは、大乗仏教が、小乗仏教は仏となる種を焼いたようなものだとしたことや、四諦を声聞の修行、十二縁起を縁覚の修行としてしまったことでしょう。
わざわざ劣った修行をしたい人はいないでしょうから、四諦十二縁起の法をかえりみる人は誰もいなくなりました。
ただ、いま、法華経の解読に挑んでいますが、原始仏典を知って部派仏教の歴史を知り大乗仏教の興隆時代を知ってから法華経を読むととんでもない秘密に気づきます。
原始仏教から部派仏教に変遷しそのアンチテーゼとして大乗仏教が興った、そのすべてが生々しく描かれています。
そして間違いなく、法華経は仏陀の真意の復興運動として書かれたと思います。法華経だけでなく大乗仏典はすべてそのように思った人々で書かれていったのでしょう。
今までの仏教解説では靴の上から痒い所をかくようなもどかしさがありましたが、実は凄いことが説かれているということを確信しつつあります。
俗な仕事の難題が山積みで全く原稿はかけていませんが、仕事が一段落したらどうしても書きたいところです。
今までの仏教解説であれば、常不軽菩薩はすべての人に仏性を見てその仏性をひたすら拝んだと言います。本当にそうでしょうか。それならばなぜ、四衆の人だけに語り掛けたのでしょうか。すべての人なら、バラモン教や無神論者でも誰でも礼拝したはずです。
大通智勝如来はなぜ十小劫坐ったけど悟れなかったのでしょうか。それにはちゃんとした理由があったのです。
なぜ大地を割って無数の菩薩たちが湧出したのでしょうか。なぜ、大地の下にいたのか、です。
なぜ安楽行品では、おかまや肉屋や芸人などを遠ざけよという、およそすべてを救う大乗仏教の理念には似つかわしくないことが書かれているのでしょうか。
提婆達多はなぜ悪人に書かれていないのでしょうか。悪人どころか法華経を仏陀に説いた師匠だと書かれています。
提婆達多品は悪人成仏を説いたというのは間違いだと言えます。
その他にも、とにかく疑問に思うことだらけでした。
しかし、学者の解説でわかった気にならず、『わからない』を逃げずにとことん突きつめていったらわかってきました。
ただ、書き始めると内容が膨大になり、俗世の仕事の難題も山積みであることから、死ぬまでに本にはできないかもしれないと思うようになりましたが、完成できなくても焦らずぼちぼちしていきます。