『では大乗の修行によって悟った者がどれほどいるか、というと疑問ですね。宮元啓一氏が「大乗仏教の徒で、自他ともに仏となった、涅槃に入ったと認める人が、長い歴史のなかではたして登場したであろうか。答えは、まったく否なのである」と喝破している通りなのです。』(佐々木閑・宮崎哲弥 『ごまかさない仏教』より)
この言葉について、もう少し深く考察してみます。
仏陀の時代、つまり仏陀在世のときは、悟った人、解脱した人、涅槃に至った人が続出しています。
上記の宮崎哲弥氏や宮元啓一氏の言葉のように、大乗仏教で悟った人が一人もいないとまでは私は考えていません。臨済や白隠など、高い悟りに達した人は少数ではありますが、いたと思います。
しかし、原始仏典を見てみると、確かに、涅槃に達した人が続出しているのです。
この差は何なのか?
これは私の中で大きなテーマではありました。
それについて、考察したいと思います。
法華経の信解品に長者窮子の譬えがあります。
長者の息子で、幼い時に家出し、他国に住して五十歳になった人の物語です。
その息子は長い間、貧窮のどん底にあって、自らが大長者の息子であることをすっかり忘れています。
諸国を放浪していたその人は、たまたま父の邸宅に至ります。
しかし、それが自分の父親の家であるとは思いもしません。
それが宮殿のような大邸宅なので、国王か国王と等しい人の御殿だと思い込みます。
大長者である父親は、邸宅の中からその放浪者を見て、自分の息子であるとわかります。
そこで、使者をつかわし、息子を呼びに行かせます。
息子である窮子は、御殿から出てきた使いのものを見て、国王が自分を逮捕しようとしていると思い込み、恐れおののき気絶します。
長者は、自分の息子が自身を元から貧窮の放浪者だと思い込んでおりことを知り、今度は貧相な使いの者をして『賃金を相場の倍やるから糞を掃う仕事をしないか』と言わせます。
そして、除糞の仕事から徐々に御殿生活に慣れさせていきます。
除糞の仕事を20年させて慣れてきたところで、倉庫や金庫を管理させる仕事まで引き立てます。
そして死に際して、この窮子と自分の親族たちに、『この子は私の本当の息子だ。私の無量の財物はすべてこの子のものだ。』と打ち明けます。
この譬えは、人間存在をよく表しています。
そして、ここに先の謎を解明するヒントがあります。
長者窮子は、最初から、自分は長者の息子だと悟ればいいだけです。
何も20年も除糞の仕事をする必要はありません。
これが大乗仏教の主流の考えになっていきました。
人間はもともと仏なのだ、もともと悟っているのだ、だからそれに気づけばいいだけ。
例えば道元の只管打坐などは、坐禅の修行をして悟るのではありません。
仏として坐るのです。
先の譬えでは、長者として坐るのです。
ところが問題は、その人の心の奥深くまで、自分は貧窮の放浪者だと固く思い込んでいることにあります。
この長年の思い込みを除去するのは並大抵ではありません。
長者として坐っていると思っていても、心の奥深い窮子の思い込みは何一つ変わらないのです。
仏陀の理法は、自分がいかにして貧窮の放浪者となったかを洞察するものです。
十二縁起はそういう理法です。
そこがわかってはじめて、自分は無量の長者であったことが明らかになるのだと考えます。
しかし、残念ながら、今の仏教は、無量へと至る筏を捨ててしまったのです。