提婆達多の謎②

提婆達多の提案になぜ多くの賛同者があったのでしょうか。

 

それは、仏教教団の初期と比べ、怠慢な出家者が急激に増えていったからです。

 

仏陀が成道したのは35歳頃で、最初の20年間(だいたい成道〜55歳頃まで)は、教団は比較的小規模で、初期の弟子たちは多くが「阿羅漢」の境地に達した高弟でした。

出家者の多くが強い修行意欲と悟りへの志を持っていました。仏陀の直接指導が受けられたため、厳しい修行と規律が守られていました。

経典に登場する多くの有名な弟子(舎利弗、目連、阿難など)はこの時期に出家しています。

しかし、20年が経ったあたりから新しく入ってくる出家者のレベルが落ち始めます。

何故でしょうか。

それは仏陀の名声を聞いて出家する人が膨大になり、管理が行き届かなくなったこと、そして、仏陀のサンガに精舎やあらゆる財物などの莫大なお布施が集まって来たこと、です。

出家者のほとんどは精舎という建物の中で暮らしており、初期のように野外で寝る人も少なくなりました。

 

仏陀の教えが広がるにつれ、王族や富豪、商人などの在家信者(優婆塞・優婆夷)が増え、彼らが布施として食事の提供を申し出るようになりました。特に有力者たちは、仏陀や高弟を自宅に招き、供養(お布施)することを名誉なことと考えていました。舎衛国の給孤独長者や頻婆娑羅王やマガダ国の王妃マリカ夫人や給孤独長者などの人々は、自らの邸宅や精舎で頻繁に仏陀と弟子たちに食事を布施していました。

律蔵では、比丘が美味しい食事を求めて特定の家に偏って訪れるようになった、食事の内容や回数に不満を言う僧が出てきた、他の比丘よりも多くの食事招待を得るために、在家信者に媚びたり、競争心を抱いたりする者が現れた、と書かれています。

 

仏陀が「比丘たちは今や怠りがちで、修行を疎かにしている。食に執着し、衣に執着し、林に住まず、安楽を追い求めている。」(四分律)と嘆いている場面があります。

 

提婆達多は、仏陀より30才年下と言われています。

提婆達多が教団を出ていったのは仏陀の晩年に近いときだと言われていますから、提婆達多が30代後半くらいでしょうか。

提婆達多は、年老いた仏陀にとって代わって自分が主宰者になりたかったと言われていますが、それは教団側の解釈かもしれません。教団を割って出ていった者をどの教団も裏切者扱い、最大級の悪人扱いするものだからです。

 

私は、数多くの賛同者が提婆達多にいたことに注目します。提婆達多は厳格な5つの戒律を求めました。

心地よい精舎から離れ森の中で野外生活をしなければならないのは大変なことです。

食事も毎日の托鉢だけによる場合、食事を得られない日もあるでしょう。特に托鉢は戒律で午前中だけに限られていて、午前中に食が得られない場合、その日は食べることはできないのです。

着るものもお布施された服ではなく糞掃衣だけです。

このような厳しい提案に多くの賛同者がいたというのは、まずは教団に怠慢な出家者が増えたことに不満を持っていた人が多かったということでしょうし、また、提婆達多が真剣な修行者だと認めていたからこそついていこうとしたのでしょう。

 

 

(③に続きます)