『久遠』という詩

 
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はてなブログでは、トマトマタン、という名前で、ほんの少し投稿しましたが、しまとり です。 以前、ショーシャンクさんから、詩の感想を訊かれたようなのですが、たぶん、わからないことはそのままにしがちな悪い癖で、お答えしていなかったように思います。   【久遠】 目を閉じれば 空(そら)にとけていき 私といえば 草になっている ああ はるかな昔から 私は 山となり 川となり 海となって 輝く …………この詩は、気分としては、大地や自然に溶けていくような気持ちの良い詩で、悟られた方らしく感じるかもしれませんが、たぶん、そうではないと感じます。 これらの世界は、むしろまやかしであり、悟られた方には、その世界を言い表す言葉は何もなくなり、善であるとか、悪であるとか言う思考やそれらを好悪する感情もなくなるような………。 ただ、こうであった、という現象世界があり、その内に、本当のものがあると知られる。 私が悟ることは、ないと思いますが、感想としては、このように感じました。

 

 

しまとりさん、おはようございます。

その通りだと思います。

この『久遠』という詩を書いた人は全く悟ってはいません。

なぜ断言できるかというと、この詩は私が20歳の時に書いた詩だからです。

そのときは、本などを読みあさり、瞑想などもして、『一なるもの』に目覚めたと感じてその詩を書きました。

しかし、それはただ想念でそう思っただけのものであり、何の役にも立たない、ということを示したくてこの詩を取り上げてみたことがあります。

 

巷にあふれている、ワンネスだの、ノンデュアリティだの、『自分は悟った』という人や『自分はいつも目覚めている』という人など、結局、私が20歳の時に感じた『一なるもの』という感覚を後生大事にしているだけだということがはっきりわかります。禅の見性や印可というのも同じ程度だと感じています。

その後の人生に何の役にも立たないばかりか、そのために変な自我を形成してしまい、そんなことを全く気にかけずにお金を稼ぐために一所懸命生きている人たちに比べてかえって人格も低劣になるケースは非常に多いです。

それは何故かをずっと考察してきました。

その結果、わかったことは、どのようなワンネスの体験であっても、人間はその体験そのものを自我に取り入れその構成要素として前にも増して雁字搦めになって身動きとれない状況になるということでした。

 

 

 

【久遠】

 

目を閉じれば

空(そら)にとけていき

わたしといえば

草になっている

 

ああ

はるかな昔から

私は

山となり

川となり

海となって

輝く