中部経典『念処経』も
長部経典『大念処経』も、
四念処について説かれています。
内容はほとんど同じです。
四念処の、身⇒受⇒心⇒法 で、
身の随観では、
出息・入息の部
威儀の部
正知の部
厭逆観察の部
要素観察の部
九墓地の部
が説かれ
受は、受の随観の1つ
心も、心の随観の1つ
が説かれ
法の随観は
五蓋の法
五取蘊の法
十二処の部
七覚支の法
四諦の法
が説かれています。
四念処の随観は2種類あると思います。
身随観のうち、出息・入息の部、威儀の部、正知の部と
受随観、心随観は、マインドフルネス瞑想でsatiを『気づき』とするそのものでしょう。
しかし、身随観のうち、厭逆観察の部、要素観察の部、九墓地の部は、自分の心臓や腎臓を観じたり、地水火風の要素に分けて観じたり、死体が腐っていく様を観じたりするのですから、イメージによる観法です。
法随観は、自分の心の中の観念を総点検することだと思っていますが、不善法である
五蓋の法、五取蘊の法、十二処の部はともかく、善法である七覚支の法と四諦の法はsatiを憶念という意味で捉えないと難しいと思います。
補注に、
satima は、『身を把握する念をそなえ』ということ。なぜなら、『念によって所縁を把握し、慧によって観つづけ、念を欠く随観というものはないからである。』
なお『念(sati)とは、憶念を特相とし、不亡失を作用とし、守護を現状とする。』
とあります。