幻想を剥がして肉体を見ると

  ひだ (124.24.195.46)  

ありがとうございます。
「生苦」が「生きる苦しみ」だとしたら、その中に「老苦」「病苦」は含まれてしまうじゃないか、と以前から思っていました。
ショーシャンクさまのこの説明でスッキリしました。
いま、少しずつ過去記事を読ませていただいていますが、私のような非学浅才な者には難しいと感じることも多くあります。
今回の記事のように、基本的なこともご教授いただける回がありますと非常に嬉しく(たとえばショーシャンク様の瞑想修行の具体的な内容など)ご披露いただけることもあるかも・・・などと密かに期待しています。
 
 
 
 

ひださん、ありがとうございます。

今の仏教は、仏陀の真意とはあまりにもかけ離れていて、基本的な仏教用語もすべて間違った解釈をされています。

 

生老病死の『生』は、『生きる苦しみ』ではなく『生まれる苦しみ』なのですが、これも人類には全く理解されないできました。

『生きる苦しみ』や生活苦であれば非常によく分かるけど、『生まれる苦しみ』など覚えてもないしわかるわけがない、というのはほとんどの人の感想でしょう。

 

しかし、十二縁起を瞑想していたり無量に触れることがあると、ひらめきのようにわかることがあります。

赤ちゃんがなぜ泣き叫んで生まれてくるのか、それは圧迫される苦痛や肌の痛みの感覚、そして今まで一体であったところから切り離されてしまった感覚、これにより泣き叫ぶのです。

これが実感としてわかってくると、仏陀が言った『生まれる苦しみ』がわかります。

 

四念処の『身』は、大便や小便などが出る身、そして腐っていく身、白骨となっていく身というのを観じる方法です。

仏陀の時代には本当に墓場で死体を見て瞑想していたようです。

 

しかし、わざわざ死体などを見なくても、十二縁起を瞑想したりして無量を感じるようになれば、徐々に身体への幻想が剥がれ落ちていきます。

私たちは、今まで、いかにして不浄な部分を少なくし隠しごまかしてきたかがはっきりとわかります。

香水や化粧品、衣装の数々、最新のトイレなど、人類の文化文明は不浄なものを全力で隠してきました。

しかし、幻想を剥がしてありのままに観ると、どのように若くて美しい人でも絶え間なく排泄物を出しているのです。

仏陀はそれを20代のときにありありと観て幻想が崩れ去ったのです。

 

 

苦諦とは

四諦は、苦・集・滅・道です。

 

【苦諦】  こは苦である。

【集諦】  こは苦の集起である。

【滅諦】  こは苦の滅である。

【道諦】  こは苦の滅に至る道である。

 

つまり、四諦とは、苦であるということ、苦の原因、苦の消滅、苦を消滅する方法について説かれた法であり、そのテーマは【苦】です。

四諦は苦について説かれたものです。

 

無明とは、四諦を知らないことです。

言い換えれば、苦を知らないということです。

苦であるということがわからないのを無明といいます。

苦というものがわからないために(無明)、行が生じ、識が生じ、名色⇒六入⇒触⇒受⇒愛⇒取⇒有⇒生⇒老死 となるのが、十二縁起です。

老死は、愁(soka)・悲(parideva)・苦(dukkha)・憂(domanassa)・悩(upayasa)とともに挙げられており(縁起経)、つまり、苦の集積ということです。

 

 

こは苦である、ということが本当にわかったなら、無明が滅するのです。

 

そういうとほとんどの人は、『苦なんかわかっている。苦しいか苦しくないか、など自分が一番わかっている。』と思うでしょう。

確かに、死ぬほど苦しみを抱えている人はいます。自殺する人はなくなりません。

それでは死ぬほど苦しんで自殺する人は、仏陀の言う苦がわかっているのでしょうか。

自殺するほど苦しんでいる人には理由があります。

病気の苦しみ、経営する会社が倒産しそう、学校でいじめがある、職場でパワハラがある、失恋した、などです。

しかし、そういう人の苦しみは、病気が治れば、経営する会社が儲かれば、いじめやパワハラがなくなれば、恋愛がうまくいけば、なくなるものです。

 

仏陀のいう【苦諦】は

 

sabbe        samkhara         dukkha   

すべての  形成されたものは  苦である

 

ということです。

 

四苦八苦は

 

生苦(Jāti dukkha)

老苦(jarāpi dukha)

病苦(byādhipi dukkha)

死苦(maraṇampi dukkha)

愛別離苦(appiyehi dukkha)

怨憎会苦(piyehi dukkha)

求不得苦(yampiccha dukkha)

五取蘊苦(pañcupādānakkhandhā dukkha)

 

このうち、ほとんどの解説で間違っているのが、生苦と五取蘊苦です。

 

かなり多くの仏教書や解説書が、生苦を『生きる苦しみ』『生活の苦しみ』と言っています。

これは本当は、『生まれる苦しみ』です。狭い産道を通って圧迫されながら母体と切り離されるときの苦しみ、誕生の時の苦しみを言います。

 

そして、四苦八苦の核心は、五取蘊苦です。

7つの苦が説かれた後、『要するに』『略説すれば』と言って説かれるのが『五取蘊苦』です。

苦を要説したものです。

 

pañcupādānakkhandhā dukkha を直訳すれば、

五つの執着する要素の苦しみ、ということです。

五つというのは、色・受・想・行・識 です。

執着する、というのは私の考えでは、2つの意味があります。

執着=渇愛=tanha によって、5つの要素が集まって仮合したという意味。

それと、五つの要素が集まることによって、『守るべき中心』という執着の核が出来たことを言います。

 

病の苦しみや老いることの苦しみなど様々な苦しみはあるが

『要するに』五蘊が集まって守るべき中心を形成したことが『苦』なのです。

 

ちなみに、五取蘊苦を五陰盛苦という人がいます。

五陰盛苦は、肉体の欲望が盛んになる苦しみ、などというとんでもない解説をする人が非常に多いのですが、全くのデタラメです。

五陰盛苦は、正確には五盛陰苦です。

五取蘊苦と五盛陰苦は、原語は同じpañcupādānakkhandhā dukkha なので

意味も同じです。

 

『要するに、五蘊が集まることが苦なのだ』という凄いことを言っています。

この言葉の力だけで、観の転換が起こる人には起こるでしょう。

それほど、深遠であり微妙である教説です。

仏陀の真意がねじ曲っていったのも仕方ないなと思わせるほど、私たちは顚倒しているのです。

 

肉体の欲望が盛んになる苦しみなどというデタラメが通説になっているのが、仏教用語には非常に多いです。嘆かわしいことです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

                      

人生を根底から変える法としての、四諦・十二縁起

仏陀が初転法輪のときに説かれ、その長い生涯をわたって説かれたのが四諦の法です。仏陀の教えの根幹です。

そして、仏陀が成道のときに繰り返し瞑想して苦を滅し無明を滅し解脱へと至ったのが十二縁起の法です。

 

四諦と十二縁起こそは、仏陀の悟りの根幹です。

そして、数多くの人たちを悟りへと導いた法です。

四諦と十二縁起こそは、顛倒し苦の集積へと向かっている人生を根底から変える法なのです。

 

基礎教養としてWikipediaで調べて分かった気になるのであれば、全く知らない方がいいくらいです。

仏陀の法は、仏陀が悟った時『私が悟ったこの法は、深遠で見がたく難解であり絶妙である。だから、私がこの理法を説いたとしても世の人は理解できないだろう。説いても疲労が残るだけだ。憂慮があるだけだ。』と思って、説くのをやめようとしたものです。

 

深遠で見がたく難解である理法を、表面だけの解釈でわかった気になるのは、百害あって一利ありません。

良い例が、不二一元アドヴァイタで、シャンカラは、多様性は紐を見て蛇と間違えるような錯覚としましたが、その真意を知らずに表面だけで解釈して『すべてはただ起こっているだけ』『自分がなすべきことなど何もない』として、意志や主体性を失わせて無気力な人間を量産してしまう似非アドヴァイタが生まれたように、本当に怖ろしいことになります。

 

仏教も、仏陀の真意が捻じ曲げられたために、全く役に立たないものか人間を悲観主義、あきらめに向かわせるようなものになり果てています。

 

今までの解釈などすべて捨てて、歴史上の仏陀は本当は何を言ったのか、仏陀の悟りの精髄であり多くの人を解脱へ自由へ無量へと導いた四諦・十二縁起の法とは何なのか、なぜそれが、人生を根底から変え、苦の集積へと向かう私たちの人生を180度転回させるものなのか、を探求していかなければなりません。

 

もし、四諦の法、十二縁起の法を解釈するとして、その解釈で瞑想すれば、その人を自由にしその人が無量に達することができるのであれば、その解釈は正しいのです。私の判断基準はすべてそこにあります。

逆に、その解釈では、人を自由に導けないのであれば、それは間違った解釈です。

 

十二縁起はなぜ難解か

四諦、十二縁起、四念処、七覚支、これらは仏教の基本で、特に、四諦と十二縁起は仏教の入門書にも必ず出てくるほどです。

象の足跡が他の動物の足跡を包含するくらいに大きいという喩えで、四諦は、他の理法を包含すると言われています。

十二縁起は、菩提樹下で仏陀が悟ったときに、繰り返し瞑想してすべての疑念を消し去ったという、極めて重要な、仏陀の悟りとは何かを解き明かす鍵でもあるのです。

しかし、人類は、四諦十二縁起について解き明かすことはせず、それを瞑想することもありませんでした。

特に、大乗仏教になってからは、四諦は声聞の修行法、十二縁起は縁覚の修行法というレッテルを貼られて捨てられてしまいました。

捨てた、と言ったのは、大乗仏教では、声聞縁覚の二乗は小乗とされ、ひどいときは、焼いた種が芽が出ないように声聞縁覚は仏になれないとまで罵倒されているからです。

そこまで貶されている声聞縁覚になりたい人はいるはずがなく、その修行法とされた四諦十二縁起は捨てられました。

 

ただ、四諦と十二縁起が解き明かされてこなかったのはその理由の他に、

四諦は文字の表面をなぞっただけの解説しかなかったからです。

四諦は、苦・集・滅・道 です。

巷の仏教の解説書では、

苦諦とは、人生は苦しみであるということ。

集諦とは、その苦しみの原因は執着であるということ。

滅諦とは、その執着を滅すれば苦しみはなくなるということ。

道諦とは、八正道で、苦しみを滅するための実践方法。

ということになっています。

はっきり言って、この解説では、何の役にも立ちません。どころか、かえって人生を無駄にしてしまいます。

このような表面的な解説をしている人は、本当に『人生はすべて苦である』のか、『執着と何か』『どこから意志で、どこから意欲で、どこから本能で、どこから執着なのか』、突き詰めて考えたこともないのです。

オリンピックで金メダル取ろうと必死になって過酷な練習している人は、執着なのか?

もし執着とするなら人類から執着を取り除いたら、医学部を目指す人もいなくなって医者という職業もなくなります。

仏教にしてもインド哲学にしても、表面的な解釈をしてしまうと、人生を台無しにしてしまいます。これはまた、後日、四諦に関して書くときに説明します。

 

さて、十二縁起は今まで解明されてきませんでした。

十二縁起は難解中の難解です。

 

無明⇒行⇒識⇒名色⇒六入⇒触⇒受⇒愛⇒取⇒有⇒生⇒老死

これが十二縁起です。

この中で

名色⇒六入⇒触⇒受⇒愛⇒取⇒有

は、比較的わかりやすいのです。

もちろん、この部分にも実に多くの解釈があります。

しかし、少なくとも、私には、この部分は流れとして非常にわかりやすいのです。

 

名色というのは、名=精神的要素 色=物質的要素 のことで

五蘊でいえば、名=受・想・行・識  色=色  です。

五蘊(物質的な要素と精神的な要素)が集まって形成されたもので

個体を表わします。

肉体(色)と、感受作用(受)、表象作用(想)、行(意志作用)、識(識別作用)が仮合して個体となったものです。

 

もし、名色を個体と解釈するならば、個体が出来る前、つまり五蘊が集まって形成される前に、識と行があることになります。

とすると、識は結生識(精子と卵子が結合したときに生じる意識)という解釈はあり得ますが(正解とは言っていません)、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の六識ではないはずです。個体が出来る前だからです。

行も、身口意の行為という解釈が一般的ですが、これも個体の出来る前に身口意があるわけはなく、成り立ちません。それで、無明⇒行 を前世の無明と行為と解釈することがあります。

無明⇒行 が前世。

識⇒名色⇒六入⇒触⇒受⇒愛⇒取⇒有 が今世。

生⇒老死 が来世。

というような解釈があり、これが最も簡単ですっきりわかるのですが、

しかし、私はそう解釈するべきではないと強く思います。

なぜなら、前世の無明や行為とするならば、今世のいま、滅することができないからです。

 

十二縁起は、仏陀が成道したときに繰り返し観じた理法です。

これによって、すべての疑念を消滅し、縁(苦の原因)の滅に至った最重要な理法です。

十二縁起は、それを観じて、苦の滅、縁の滅、無明の滅に至るものでなければなりません。

そのためには絶対にごまかしてはいけないのです。

それゆえに、十二縁起は、今まで完全に解明した人がいないほど難解なのです。 

相応部経典7

修行僧たちよ、これが教えに従うということである。

すなわち、身体(色)においておおいに厭うているべきである。

感受(受)においておおいに厭うているべきである。

知覚(想)においておおいに厭うているべきである。

形成力(行)においておおいに厭うているべきである。

認識(識)においておおいに厭うているべきである。

色受想行識を厭うことは、色受想行識をよく知ることである。色受想行識をよく知ることによって色受想行識から解放される。

 

修行僧たちよ、これが教えに従うということである。

すなわち、身体(色)において無常を観察しているべきである。

感受(受)において無常を観察しているべきである。

知覚(想)において無常を観察しているべきである。

形成力(行)において無常を観察しているべきである。

認識(識)において無常を観察しているべきである。

色受想行識において無常を観察することは、色受想行識をよく知ることである。色受想行識をよく知ることによって色受想行識から解放される。

 

修行僧たちよ、これが教えに従うということである。

すなわち、身体(色)において苦しみを観察しているべきである。

感受(受)において苦しみを観察しているべきである。

知覚(想)において苦しみを観察しているべきである。

形成力(行)において苦しみを観察しているべきである。

認識(識)において苦しみを観察しているべきである。

色受想行識において苦しみを観察することは、色受想行識をよく知ることである。色受想行識をよく知ることによって色受想行識から解放される。

 

修行僧たちよ、これが教えに従うということである。

すなわち、身体(色)において非我を観察しているべきである。

感受(受)において非我を観察しているべきである。

知覚(想)において非我を観察しているべきである。

形成力(行)において非我を観察しているべきである。

認識(識)において非我を観察しているべきである。

色受想行識において非我を観察することは、色受想行識をよく知ることである。色受想行識をよく知ることによって色受想行識から解放される。

 

古層の仏典から仏陀の筏を探すブログです

有尋有伺 (114.187.206.144)  

ショーシャンク様。お疲れ様です。
異なる意見の相違というものは、世間一般的には耳障りで煩わしく、それ故ほんの少しでも我を試みようともせずに、悪口だけをたくさん喋り、イマイチすっきりしない感じで去っている方々がほとんどの中、 ショーシャンク様は敢えてご自身からお尋ねになられる、その姿勢に心から尊敬致します。
 
ショーシャンク様からしてみれば、私の説を聞くということは、聞く前から結果的にショーシャンク様のご見解とは異なる、または否定する、耳障りで煩しくご気分を害されるだけである可能性も、読解力で、ニュアンスを読んで推察できるわけでして、 それでも新しい知見を得るために、聞こうとなされる、これは世間一般ではできることではない、それ故にリスペクトさせて頂いているのです。
 
流石懺悔慚愧に御通達されている方です!
 
正直そのご立派な姿勢でもって身体の死まで生き続けられる限り、仏教関係なく人として幸せに生きていけるのではないでしょうか。
 
さて、私の十二縁起についての理解についてお尋ね頂けたわけなのですが、了解致しました!
 
ただ、やはり十二縁起という仏教のなかなか根幹の理解を述べるとなりますと、引用等も少しは必要ですので、少し日数を頂けたらと思います。
とは申し上げましても、2週間、3週間という話ではなく、近日中、遅くなっても日曜日ぐらいにはお返ししたいなと思います。
 
それ故お時間を頂き大変恐縮ですが、今回のブログ記事についてこれから述べさせて頂きますので、それを読みながらでも、お待ち頂けたらと思います。
 
 
さて、コメント返しさせて頂く前に、私の仏教に対する前提をそろそろ先に申し上げておきたいと思います。
お話し会いではなく、議論に近づいてきたら、言葉の定義が必要です。水掛け論になってしまうからです。
とは言っても、非常に簡潔です、なぜなら経典でこれ以上簡略に話しようがないことを、そのまま採用しているだけだからです。
ゴータマ尊は四聖諦や十二縁起などの哲学っぽいことを語っているので、テーラワーダや仏教学者先生は何を言いたかったのかについて今まで2千年間議論されてきましたが、実は経典に書いてあるのです。
それは、中部22のこちらです 比丘たちよ、私は以前も今も、苦と苦の止滅のみを説いています。 (片山一良訳『パーリ仏典 第1期1 中部(マッジマニカーヤ)根本五十経篇』p369)
 
そう、心の苦しみと、心の苦しみの止滅「のみ」、「だけ」、「Only」を語っていたのです。
最も、ショーシャンク様の仰る通り、一箇所「だけ」を根拠にすると、偽経典とお想いになるかもしれません。 それ故違う経からも引用させて頂きます。私は大学では歴史学を専攻しておりましたが、複数に跨って同じ事が記されていたら、それは有力な根拠となりうることを、存じているからです。
※林の中、手のひらに落ちた葉と、林の葉、どっちの方が葉の量が多いかと比丘に聞き、もちろん林の方が多いと答えた後、  「まさにそのように、比丘たちよ、私によって証知されながらもあなたがたへ説かれなかったようなそのこと。それは、より多量なのです。 では比丘たちよ、なにゆえそのことは、私によって説かれなかったのでしょうか。 なぜなら比丘たちよ、そのことは、意義をともなわず、梵行の端緒とならず、厭離へ、離貪へ、滅尽へ、寂止へ、証知へ、正覚へ、涅槃へ導かないからです。 では比丘たちよ、何が私によって説かれたのでしょうか。 比丘たちよ、『これは苦である』と私によって説かれ、『これは苦の集(原因)である』と私によって説かれ、『これは苦の滅である』と私によって説かれ、『これは苦の滅へ導く道である』と私によって説かれました。 では比丘たちよ、なにゆえそのことは、私によって説かれたのでしょうか。 なぜなら比丘たちよ、そのことは意義をともない、そのことは梵行の端緒となり、そのことは厭離へ、離貪へ、滅尽へ、寂止へ、証知へ、正覚へ、涅槃へ導くからです。 「シーサパー林経」(『相応部』56-31) ※十無記について語った後、 マールキャプッタよ、なぜならこれ(十無記)は、意義を伴わず、初梵行(梵行の基礎)とならず、厭悪、離貪、滅尽、寂静、神通、正覚、涅槃のためにならないからです。
それゆえ、これは私によって解答されないのです。
ではマールキャプッタよ、何が、私によって解答されることなのでしょうか。
マールキャプッタよ、『これが苦である』ということが、私によって解答されることです。  
『これが苦の集(原因)である』ということが、私によって解答されることです。
『これが苦の滅である』ということが、私によって解答されることです。
『これが苦の滅へ至る道である』ということが、私によって解答されることです。
マールキャプッタよ、なぜならこれは、意義を伴い、初梵行(梵行の基礎)となり、厭悪、離貪、滅尽、寂静、神通、正覚、涅槃のためになるからです。
それゆえマールキャプッタよ、あなたがたは、私によって解答されないことは、解答されないと憶持しなさい。  
私によって解答されることは、解答されると憶持しなさい」 中部63「小マルキャ経」 つまり、ゴータマ尊は世間一般では思想家とか、哲学者などという認識で通っているのですが、そのような捉え方は生前の彼の意図からすれば誤謬であると「読み解く」ことができ、 今風に申し上げるならば、 哲学ではなく、ハウツー、学者先生ではなく、塾の講師なのです。
律・経は、哲学書ではなく、今風に言えば世界一役に立つハウツー本といえるのです。 さて、その前提を踏まえた上でコメントをお返しします。 ヤフー掲示板の時に投稿して、このブログの初めの方に格納している文でも言っていることですが、原始仏典でも、遅く成立した経典になればなるほど、変化、増大、付加、再編集が行われています。 すべての仏教経典を同列に考えると、同じ言葉であっても、言っていることが矛盾することはよくあります。
例えば、『一人で修行しなさい』という言葉があります。
しかし、『よき修行仲間と修行しなさい』という言葉もあります。
それもだんだん強調されてきて『よき仲間が出来ることが悟りへの道の大半なのだ』というような極端に仲間と修行することを勧める文言もあります。
最古層の仏典では『一人で修行すること』に重点が置かれています。
それがサンガが発展した後のより新しい仏典では、さかんに『仲間と修行すること』を強調し始めます。
このように、同じ原始仏典でも、矛盾に見えることが多くあります。
前にも書いているのですが、そのような場合は、私はより古層の仏典を重視します。
私は、歴史上の仏陀が本当は何を言ったのか、をテーマに探求していますので、仏陀の肉声に迫ることを優先しているのです。
最古層の仏典は、スッタニパータの第4章第5章と、相応部経典の詩句を伴った集、だと思います。
それから、他の相応部経典やダンマパダなどが続きます。 以前の『仏教についてのひとりごと 134』ではこう書いています。
※※※ 確かめた結果、増谷文雄もやはり次のようなことを書いています。
①小部経典の中の『スッタニパータ』『ダンマパダ』は原初的で、有力な資料とされる。一つにはそれらが偈(韻文)を中心に成っているからだ。韻文は古形を保存するのに適している。
②『スッタニパータ』『ダンマパダ』以外で考えると、  相応部経典⇒中部経典⇒長部経典⇒増支部経典 の順で出来たと考えられる。  漢訳の阿含経で言えば  雑阿含経⇒中阿含経⇒長阿含経⇒増一阿含経 の順番で、雑阿含経が一番古い。
③増一阿含経は、最も遅く出来た経典で、大衆部の所属と想定され大乗仏教の影響がみられる。
④遅く成立した経典になればなるほど、変化、増大、付加、再編集が行われていると想定される。
⑤故に、雑阿含経より中阿含経、中阿含経より長阿含経、長阿含経より増一阿含経の方が、変化や付加が多大になっている。
⑥しかし、古層である雑阿含経でも、成立時期はバラバラであり、変化、付加が大きいものもある。
※※※
仏陀の肉声に迫り、仏陀の真意を解き明かしたいと念願している私が、増支部経典などをあまり重要視していないのは上記のような理由があります。
 
なるほど、それは仰る通りです!
よくご研究なされています。
 
確かに、経典内では人によって同じテーマでも全く食い違ったことを説法していたり、特に遅くに成立した経典には細工をしている場合もあるのは事実です。
 
例えば相応部の無為相応は丸々偽経です。
偽経とは、ゴータマ尊や当時の弟子の名を詐称して語った、苦しみの滅に役に立たない「教義」です。
ゴータマ尊の教えは認識可能なものをベースに観察をするので、無為をベースに語ることはありません。
また、小部の「義尺」、「無礙解道」とかも丸々そうですね。 それ故確かに丸々盲信することは危険です。
同意します。
だからショーシャンク様は、確実に現代までそのまま伝わっていると客観的な要素から断定に近い形まで信頼できると推察できる、選りすぐりの経を拠り所にその経以外と異なる教えの経を省くことで、安全性を確保された上で吟味なされているわけです。
非常によく考えられた、恐らく最適解である賢明なご判断でしょう。
言うまでもない話ですが、阿羅漢果という結果を出すために、全経典を参照する必要はありません。
少しの知識で達した人の事例が様々な経に多数散見されるからです。
その多数の実体験があるところから、私も最初に申し上げた通り、 ショーシャンク様のご戦術で、到達できると思います。
同意します。
一切の文句をつけようもございません。
経典でもそのご戦術で保証しているとも読み取れます。
たぶん他の方に聞いても最適解だと仰ると思います。
完璧な御理論です。
 
それを踏まえた上で申し上げたいことがあります。
あなた様もお認めになる、彼岸道品に、 1141まのあたり即時に実現される 、時を要しない法 、すなわち煩悩なき 〈妄執の消滅 〉 、をわたくしに説示されました 。
と「時を要しない法」、具体的に言えば中部10「念処経」の、7年以内に不還果か阿羅漢果という成果を出せるとありますが、 あなたはなぜその方法で「すぐに」到達、それ故の修行の終わりという 「結果」をだせないのでしょうか?
仏陀の真意を解き明かしたいと念願しておられるのは、 熱心に懺悔慚愧の修行をなされてりることからも、 仏教学者のようにただ知識好奇心を満たしたいだけではなく、 苦しみの滅尽を願っておられるからでしょう。 長部23経パーヤーシ経に「螺貝の例え」というものがあり、 海のない山村かどこかで旅人が螺貝を吹いた時に、 初めてその音を聴いた人々が、音を鳴らそうと螺貝を叩いたり蹴ったりしたが、 「吹く」という概念がなかったため音を鳴らせなかったというように、 要するに、目的に沿った「適切な手段」を取らないと、結果は一生出ませんよということなのですが、 あなた様の手段は最適解です。 テーラワーダはホラ貝叩きで、思考によるsatiは笛を咥えることです。 笛を咥えているのですぐ音は鳴るはずなのです。それなのに十二縁起の解釈などで悩まれているのです。意味なんか誰かに聞かなくったって一瞬で察するはずなのです。おかしいのです。 あなた様のざっと読ませて貰った記事からだけでも私には理由が透けて見えます。 はっきり言います。 あなたは笛を咥えていますが、潜在意識レベルで「本気」で吹く気が無いからです。 古い教えだけならば、世の中にはたくさんあります。 あなた様はそのガラクタの中から、誰にも頼らずご自身の目利き力、強い意志で宝石を見出されました。 本当に凄いことです、テーラワーダや大乗のバイアスを取り払い、孤高で勇気を持って人生かけて立ち向かえる人は、あなたぐらいしか今の世にはいないのです。 不思議なのは、なぜ、そんなあなたが、 思考によるsatiをガラクタの山から貴方だけの力で到達した強い心を持ったあなたが、 教え、『道具』に、 「すがっている」のですか? 「屈している」のですか? 「屈伏している」のですか? 「首を垂れて這いつくばっている」のですか? 「あなたの『懺悔慚愧』は、教え通りでないか否かと顔色を伺いオドオドする、そんな情けない「恥いる」」なのですか? ゴータマは言ってます。「自己を島としろ」と。それはあんたの言う通り、意味は四念処をやれだ。それで合ってる。 ただ、四念処をやれって意味だけで、「自己を島にしろ」と言ったのか? すなわち、それが四念処なのである。   ── 四とは何か?   比丘たちよ、ここに比丘は、   身において身を観続け、熱心に、   正知を備え、念を備えて、世界における欲貪と憂いを除いて住みます。 「熱心に、」 きっと宝、思考によるsatiを見出した時のあんたは、ゴータマも一目置くほど『熱心』であっただろうよ。 貴方の思考によるsatiについてを熱く語る記事からは、自己を島とした、自信に満ち溢れた想いが私には深く感じられる。だから尊敬したのです。 自分の力で見つけ出した、確信した、身をもって『体感』した、誰にケチを付けられようとも揺るがない、熱心な、自己を島とされている自信に満ち溢れた記事ほど、 読み手にとっても気分が良いものはありません。その時のショーシャンク様は、生き生きと快活に私には見えます。 が、 三十七菩提分法のこの教えはここの経典と食い違ってるから間違ってるのかなぁ?ぼくはこう解釈してるんだけどこれで合ってんかなぁ とか この経典は増谷大先生がゴータマの肉声じゃないって言ってるから、他のマニカナでお話しした他の友達もそうって言ってるし、だからきっとたぶん恐らくそうなんやろ、みんなそうや言ってるんやし。だから変なニュアンスがつきそうで嫌ややから読まへん。無視する。 とか ぼくがずっと勉強してきて知ってる「無明」は苦しみの始まりで納得してたやろ、その通りのはずなんや、間違いないんや。 でも、有尋有伺とかいう奴が違うこと書いてある経持ってきとるで、 増支部かぁ、全く無視するって感じでも無いけど、なんか胡散臭いなぁ。 まぁ?俺はそうやったはずやと思うけど??まあ有尋有伺はそこそこなんか知ってそうやし?まあ他人の意見も聞いてみたいって、この曖昧で雑でいいかげんな勝手に出てきた感情が、聞いた方がええって言うしな?とりあえず聞いてみよか。 みたいな記事はただただ一言、糞。 古くて肉声だから何? お前は古くて肉声の証拠があったら、なんでも言うこと聞くんですか? 思考のsati見つけてそうだと確信した時、 肉声だから認めたんですか? 古いから認めたんですか? 増谷先生や石飛先生に聞いて釈迦の瞑想は古い経を読んでも思考のsatiじゃないですって言われたら、テーラワーダの螺貝叩きに戻すんですか? この世の中、誰も螺貝なんて吹いてないですよ?みーんな、真面目に叩いてますよ?あなただけ浮いてますよ? 螺貝叩きは5世紀の偉い長老が最初に「発見」された偉大なる修行法なんです‼‼‼‼ 今までそれで何となく皆んなやってきたんです‼‼‼‼‼‼‼‼‼ 歴代の長老もそうだったからきっとそれで合ってるはずなんです‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼ だからホラ貝は「叩き」ましょうよ? みんなが認めていない意見をこれこそが本物だって断言するのは、高慢という「恥」なんちゃうの? ほら、テーラワーダの偉い長老も、学者先生も、みーんなやってるし、みんな偉いからきっと合ってるんでしょ? それが自己を島にすることなんですか? 食い違った経典があるから何なのですか?偽経だから何なのですか? 貴方様は筏の例えの本質を見抜かれましたが、それは古いから正しいと信じたんですか? 筏の例えの経がもし偽経だと学者が指摘しその通りだったら、筏の例えは即誤謬の嘘なのですか? 螺貝の例え経も肉声かどうか知りませんが、 偽経だったら全部間違っているんですか? 他の古い経典に書いてないから、実は螺貝は叩いたら鳴るかもしれないんですか? 意図は目的に沿った適切な手段を取らないと、結果は一生出ませんよ、 ですが、他の古い経典に書いてないから、 実は「目的に沿った不適切な手段を取れば、あらゆる物事はことごとく成果は出る」が正しいかもしれないんですか? 本当に大事なのは、経典が本物か偽物か肉声なのか否なのかではなくて、 その内容があなたにとって役に立つか立たないかじゃないですか? そしてその判断をするのは、他人やこの経典に書いてあるからじゃなくて、 あなた自身じゃないんですか? 経典の内容に納得する本当の理由は、他の経典に書いてあるからじゃなくて、 その内容を主体的に能動的に自分で考えて、自分にとって、為になる、役に立つからでしょう? 道具は、『使う』ものです。道具は、『使役』するものです。道具に、『使われる』ものではありません。 道具を使うのは、自分にとって『役に立つから』道具を捨てたり仕舞ったりするのは、自分にとって『役に立たなくなったから』 修行法もそうです。修行法は、心の苦しみの滅尽のための『道具』です。修行法は、心の苦しみの滅尽のために『使役』するものです。 あなたは私が話の中心として挙げた「有尋有伺・無尋有伺・無尋無伺」については返信からはそれほど関心がなさそうでした。 どうしてか? ゴータマ尊の修行の実践方法は、『要するに』、思考によるsatiだから、有尋有伺・無尋有伺・無尋無伺とやらも、『要するに』思考によるsatiのことなんでしょう?と 本質の基礎を根本的に理解しているから、派生系のことを聞いても、聞くまでもなく理解するのです。 それは自分にとって「役に立つ」のか「役に立たない」のかを。 思考のsatiについて語るショーシャンク様は、道具を駆使することでご自身の特技であられる懺悔慚愧を自由気ままに使役し、無量の感覚という成果を出されており、自身に満ち溢れているように見えます。 三十七菩提分法について語るあんたは、道具に四念処様に、七覚支大陛下に、四正勤閣下に、四神足王に、五根・五力公に、八正道殿に、正しいとか間違っているとかという粗相を気にして、顔色を窺いオドオドし従属している、自分の頭で考えず、他人の意見ばかりに振り回されて、 サルのように無思考でいることを喜ぶ、テーラワーダと同類に見えます。 あなたの人生は、あなたが思うように、あなたが願うように、あなたの想いのままに生きていけるためにあるべきです。 誰もあなたを助けてはくれません。修行法はあなたを苦の滅尽に導いてくれません。 自分の力で、自分の人生の中で培ってきた判断力で、内容を自分にとってふさわしいのか、役に立つのか吟味して、自分の力で幸せをつかみ取るべきです。 経典の教えを「使って」、幸せをつかみ取るのです。経典の修行法を「使って」、成果をつかみ取るのです。 経典に従えば、涅槃に導かれるだなんて、 仮にそれで成果が出たとしても、そこに主体性はありません。 死ぬ直前にゴータマは、「怠ることなく努めなさい」といいましたが、 それはただただ、彼の教えだけを盲目的に信じて実践すればいいという意図だったのでしょうか? 結果さえ出せれば何でもいいという考え方は一理あります。 ただ、何かに執着して依存することで成立する渇愛を滅するために、 正しい滅尽の修行法論に「縋りつく」。 それでマジで執着を消せるとでも思うのでしょうか? いろいろ言ってきましたが、私はこれだけを言いたいのです。 ショーシャンク様は三十七菩提分法を考えられる前に、ひとつ根本的なことを思惟されるべきです。 ショーシャンク様は、思考によるsatiという、具体的実践方法の基礎を見つけ出されました。 しかしもう一つ思惟しなければならないことがあるのです。 それは、「この修行法の指示通りにさえ従えば、成果が出る」 ではなく、 「これらの修行法により、心の苦しみの要因である渇愛が滅尽するという成果が出る、『その原理、メカニズムはなんだろう?』」です。 それは経典にばっちり書いてあるのです。 しかも、思考によるsatiと違い、 長部、中部、相応部、増支部、小部のあちこちに、うんざりするほど書いてあるのです。 てきとうに日本語訳の経典をパラパラ開いたら、うんざりするほど書いてあるのです。 ただ、それは自分の力で向き合わない限り、思考のsati同様、書いてあるけれど、文章に目を通しているんだけれど、読み解くことができません。 まるで妄信して思考のsatiだと読めない読解力のない、テーラワーダのように。 私がいきなり批判したのは、あなたの修行法に対する、自立性のなさです。 あなたは最初は自身の培ってきた力で、原始仏教まで辿り着いたのでしょう? どうして原始仏教に取り組始めた今、自分の頭で内容の吟味をすることを捨てられたんですか? あなたはsatiについて自力で吟味して、その本質を見いだされました。 だから成果が出始めています。 一方あなたは修行法については、この手順通りにすればできると表面的なところばかりを追っていくだけで、なぜそれをやれば滅尽するのかという、そのメカニズムには目を向けようともしません。 最初からその切り口で話しかけても良かったのです。 その切り口を思いつかなかっただけかもしれませから。 でも、自己を島としない人にそれだけを言っても、 「でもそれはこの経典に書いてないから」 「でも○○先生が違うって言ってるから」 「でも古い経典じゃないから」 「でもそこにしか書いてないから」 といくらでも他人の意見に左右されて、真に向き合おうとしません。 「これらの修行法により、心の苦しみの要因である渇愛が滅尽するという成果が出る、 『その原理、メカニズムはなんだろう?』」という分析は、 思考のsati同様にもう一度自己を島にして立ち向かわないといけないやっかいな教えです。 なぜならどこにでも書いてあるのですけれど、 実際実践するとそこまで大したことが無いとわかるのですが、 あまりに一見生理的にきついと感じられる内容なので、ありのままに読み解ける人は、とても少ないのです。 私が初めて気づいた時、あまりにもシンプルかつ当たり前だと言えばそこまでなのですが、斬新的である意味どのような修行よりもストイック過ぎるこのメカニズムに、 心の底から驚き、感心し、思いついたその勇気に感動し、そして心の底からドン引きしました。 そりゃあ、言いふらすのを躊躇するわと。ある意味完全に不道徳かつTPO違反だからです。 最後に、最初にお話しした通り、近いうちに十二縁起について述べさせて頂こうと思います。しかしただただ、十二縁起を語るつもりはありません。 十二縁起がなぜ渇愛の滅尽につなげることができるのか?という、そのメカニズム、根幹をメインに経典に即してお話しします。 なぜか?十二縁起そのものについて議論しても、渇愛の滅尽という成果の成就に対して、なんの成果もでないからです。 そして思考のsati同様に、メカニズムを理解できたら、 もう、疑の完全な消滅はもう間近だからです。 いきなり文面で叱るようなことをして大変失礼致しました。 ショーシャンク様にとっては、いきなりのことでビックリなされて、戸惑われているかもしれませんが、 私は少し話したり文章を拝読させて頂いたら、大体のレベルがわかります。 ショーシャンク様は仏経の理論と実践法の根本について、既に実践法はマスターされているので、理論の根本についてだけお教えすれば、もう私が申しあげないといけないことはなくなってしまうぐらいの状態でしたので、敢えて強く申し上げたのです。 仏教は長年かけて達成するものではありません。 条件さえ満たせれば、その変化は間を置かない、本当に一瞬の出来事なのです。 だからそのタイミングであれば、さっさと行動するのです。 私は、別にショーシャンク様に自説を納得して頂きたいわけではありません。 他の誰かが言ってるからとか、経典に書かれているから否だからとか、そんな執着に縛られず、あなたが座右の銘のように大切になされている、自己を島のようにして、 ショーシャンク様にとって役に立つのか否なのか、ご自力で判断して頂きたいのです。 そうすれば、かなりの仏教理解を既になされているあなた様には、きっと結果がすぐ出られるでしょうから。 最後に前の記事について私が雑に書いた感想と、いくつかのあからさますぎる経を掲載させて頂きます。 なぜ直接言わないのか、ご自力で察して欲しいからです。 これらの中に、既にメカニズムは含まれています。 なのでまずそれを喝破されてから、三十七菩提分法とどう繋がっているのかを、吟味されてみたら、よろしいかもしれません。 それにしてもなぜ、いつもは丁寧な感じに述べさせて頂いているのに、今回の記事には粗さが目立つのか、 時には丁寧な文章よりも、かえって気持ちが伝わったりすることもあるからです。 まるで野球部のコーチの激励のように。 ※なお、もしこのコメントにお返事頂けるなら、次の十二縁起を書いたのちにまとめて、お返事します。 あくまでこの続きとして書くからです。 後、今後は前回までの普通のトーンで書きますし、 もし今回のコメントでご不快になられたならば、仰って頂けたらコメントは差し控えさせていただきます。本当にすみませんでした。 心の修行は知識で理解するのと同時に、フィーリングで感じて知るものでもありますから、 時には抽象的でよくわからないことを言わないといけない時があるんですね。 http://jbbs.shitaraba.net/study/12104/#5 ↑例えば見るだけで頭が痛くなるこれも、自己を島として向き合えば、ある程度脳内で言語化できて、結構役に立つとわかるのです。 まさか私がこれに近い何かを書くことになるとは夢にも思っていませんでしたが…。 四念処は、身、受、心、法につき、不浄、苦、無常、非我をそれぞれ観じる瞑想法ですが、つまるところは、非我を観じていくのです。不浄であり苦であり無常であるというありのままのリアリティを洞察して、それらへの執着、愛着、自己同化から離れ、厭離の心を生じさせ、身・受・心・法につきどれも私ではないということを徹底させるのです。 〈不浄であり苦であり無常であるというありのままのリアリティを洞察して〉 あなたは何気なく書いたんでしょうけど、なんで他人事な感じなんですか? もし渇愛が苦しみの原因で心の底から煩わしいと思っているならば、 ゴータマに言われるまでも無く、想起した渇愛の尋や想に対して向けるべき意識はありませんか? ありのままに観るだけで渇愛がなくなる教えだとしたら、言いふらすのに躊躇するもんなのですか? ゴータマはありのままに観る「だけ」を語っていたんですか? その前に、違う観察の仕方をやってから、やれって言ってないですか? 〈厭離の心を生じさせ〉 ただただありのままに観ていたら、厭離の心が生じるのですか? なにか条件を自力で満たして、〈生じさせ〉るものではないですか? それは他の経典を見るまでもなく、普通に考えて、言われてみたらその通りと判断できるぐらいシンプルじゃないですか? でもそれは簡単だけど、うかつに社会に言いふらすのは、TPO的にも道徳的にもかなり悩むような方法ではないですか? 相応部 ラーダ相応 悪魔経(死魔経とも) 大徳よ、魔羅(悪魔)、魔羅と仰せられますが、いったい何を魔羅と言われるのでしょうか? ラーダよ、色(肉体)があれば、そこには魔羅がある。 殺す者があり、また死する者があるであろう。 ラーダよ、だから、 『色を魔羅であると観じ、殺す者であると観じ、死する者であると観じ、 あるいは病なり、瘍(はれもの)なり、刺(とげ)なり、痛みなり、痛みのもとであると観ずるがよい。』 そのように観ずれば、それが 『正しい観察sammā passanti』 ※sammāは八正道ぐらいにしかほぼ使われない、仏教内では非常に「重い」言葉です。 というものである。 ※以下、受・想・行・識についても、同じ説明が繰り返される。 大徳よ、では、いったい、何のためにそのような 『正しい観察Sammā dassanaṃ』をするのでしょうか? ラーダよ、 『厭い離れるため』 に、正しい観察をするのである。 大徳よ、では、いったい、何のために厭い離れるのでしょうか? ラーダよ、 『貪りを離れるため』 に、厭い離れるのである。 大徳よ、では、いったい、何のために貪りを離れるのでしょうか? ラーダよ、『解脱するために』貪りを離れるのである。 大徳よ、では、いったい、何のために解脱するのでしょうか? ラーダよ、それは涅槃のために解脱するのである。 「テーラガーター(仏弟子の告白)」 405 わたしは出家してから二十五年になるが、そのあいだ、 指を一はじきするだけの時間でも、心の静けさを得られなかった。 406 心の統一専念を得られなくて、快楽の欲情に悩まされて、 両腕を突き出して泣きながら、私は住居から出て行った。 407 わたしは、小刀をもって来ようか? わたしは生きている必要があろうか? わたしのような人間は、修学を捨てて、どのようにして死ぬべきであろうか? 408 そこで、わたしは剃刀を手に執って、座席に就いた。 自分の脈管を断つために、剃刀を抜いた。 409 そのとき、わたしに、正しい道理にかなった思いが起った。 『患いであると思う念いが現れた。 世を厭う気持ちが定まった。』 410 次いで、私の心が解脱した。 見よ、──教えがみごとに真理に即応せることを! 三つの明知をすでに体得した。ブッダの教えはなしとげられた。 サッパダーサ長老 中部147小ラーフラ経 「ラーフラよ、そのように見た多聞の聖弟子は、〈眼〉について厭悪し、諸々の〈色〉について厭悪し、〈眼識〉について厭悪し、〈眼触〉について厭悪し、かの、およそ〈眼触〉によって生ずる〈受〉の類、〈想〉の類、〈諸行〉の類、〈識〉の類、それについて厭悪します。 〈耳〉〈声〉(鼻〉〈香〉〈舌〉〈味〉〈身〉〈触〉〈意〉〈法〉意識〉〈意触〉〈意触〉によって生ずる〈受〉の類、〈想〉の類、〈諸行〉の類、〈識〉の類、それについて厭悪します。 『厭悪して離貪し』、離貪のゆえに解脱します。 解脱したとき、『解脱した』という智が生じます。 『生は尽きた。梵行は完成した。なされるべきことはなされた。もはやこのような〔輪廻の〕状態へ〔至ることは〕ない』と了知するのです」 心に適った尊者ラーフラは、世尊の所説へ歓喜した。 『色を魔羅であると観じ、殺す者であると観じ、死する者であると観じ、 あるいは病なり、瘍(はれもの)なり、刺(とげ)なり、痛みなり、痛みのもとであると観ずるがよい。』 『色を魔羅であると観じ、殺す者であると観じ、死する者であると観じ、 あるいは病なり、瘍(はれもの)なり、刺(とげ)なり、痛みなり、痛みのもとであると観ずるがよい。』 『色を魔羅であると観じ、殺す者であると観じ、死する者であると観じ、 あるいは病なり、瘍(はれもの)なり、刺(とげ)なり、痛みなり、痛みのもとであると観ずるがよい。』

 

 

 

 

有尋有伺さん、こんにちは。

まず、私の考えていることを書きます。

私は、歴史上の仏陀(ゴータマ・シッダッタ)が本当は何を言いたかったのかを探求してきました。

仏陀は、自分が説いた教えは向こう岸に渡る筏だと言いました。

その筏とは何なのかを知ろうとしました。

私は、仏陀以外の人や教えを否定する者ではありません。

シャンカラなどのヒンズー教の覚者たちも荘子などの中国の思想も好きですし、イエス・キリストの映画はほとんど全部見ていますし聖書も読みますし、大祓の祝詞を唱えたりもします。

仏教や仏陀でないと駄目だとか思うことはありません。仏陀は仏教なるものの開祖になろうなどとは全く思っていませんでしたし、自分の教えを古城にいたる古道を見つけただけだと言っているようにそれまでのインドの精神フィールドをそのまま受容したものでした。仏教の独自性や優位性が強調され始めたのは弟子たちによってです。

この世界には、過去、現在、未来、無数の覚者が存在したと思いますし、仏陀だけが覚者ではありません。

しかし、私が見る限り、仏陀ほど一貫性がありブレない人はいません。成道の時から入滅の時まで、その言動に矛盾がありません。

そして、仏陀ほど、数多くの人を悟りに導いた人を私は知りません。

たぶん、世界最大の教師だと思っています。

ですから、私は、仏陀の真意、そして、仏陀が残してくれた筏を探求しているのです。

 

仏教には膨大な量の仏典があります。原始仏典から大乗仏典まで、多くの異なる教えで溢れています。

その中で、歴史上の仏陀が本当に言いたかったものは何か、本当に残してくれた筏は何かを探求しているのです。

さいわい、文献学の発展により、仏陀の肉声により近い仏典はどれかがはっきりしてきました。

ですから、後世にかけて膨大に創作された経典の中で、矛盾するような教えがあった場合は、より仏陀の肉声に近い古層の仏典を優先しようと思っていますし、これはこれからも変わりません。

 

もちろん、すべての言説は道具なのだ、どんな道具でも役に立つものは積極的に使うべきだという人もいるでしょう。

それはそれでいいと思います。

はっきり言って、その人の役に立つのであれば、仏陀の肉声でなくても、創作でも、あるいは、キリスト教の聖書でも、イスラム教のコーランでも、あるいは、近所の10歳の子供がなにげに言った一言でも、それを筏としたいというならその人の自由です。キリスト教で救われた人はいっぱいいると思いますし、その人その人に合った筏を見つければいいのです。

 

ただ、私は歴史上の仏陀が残してくれた筏を探しているのです。

仏陀を誰よりも尊敬していますから。

そして、歴史の堆積物の中に埋もれてきた仏陀の筏は、人類の至宝ではないかと思っているのです。

 

ですから、その趣旨を理解していただけてともに探そうという人は大歓迎です。

 

しかし、『自分は悟っている』『自分はわかっている』『自分は目覚めている』だから、自分の考えは正しいので他のやつに教えてやろう、という人は時間の無駄ですので来ないでいただきたいのです。このブログに書きましたが、私には師は要りません。仏陀の説いた法を島とするだけです。

 

ヤフー掲示板にも、『自分は悟っている』『自分はわかっている』『自分は目覚めている』だから、自分の考えは正しいので他のやつに教えてやろう、という人がいました。

マージャンと呼ばれている人、女マージャンと呼ばれていた赤い実という人、和弘という人、この人たちは、『自分は悟っている』『自分はわかっている』『自分は目覚めている』と思っていて、自分の考えを聞いて欲しくて、人を教えたくて仕方ないようでした。

あちらこちらの他人のスレッドによく投稿していました。

そしてみんなに嫌がられていました。

その人たちは自分が立てたスレッドがあるのですが、誰も来ないで閑散としているので、どこか閲覧数の多いスレッドにさかんに投稿していました。

ヤフー掲示板がなくなって、このブログに移行してからは、ブログの趣旨に合う人だけと話せるので本当に快適です。

 

このブログは、歴史上の仏陀が本当に言ったこと、本当に残してくれた筏は何かを探求するものです。

その趣旨を理解して、いっしょに学んでいこうという人に限り、このブログを見ていただきたいですし、コメントをしていただきたいと思っています。

 

 

 

 

>> 最後に、最初にお話しした通り、近いうちに十二縁起について述べさせて頂こうと思います。しかしただただ、十二縁起を語るつもりはありません。 十二縁起がなぜ渇愛の滅尽につなげることができるのか?という、そのメカニズム、根幹をメインに経典に即してお話しします。 なぜか?十二縁起そのものについて議論しても、渇愛の滅尽という成果の成就に対して、なんの成果もでないからです。

 

有尋有伺さんのこの言葉が非常に引っかかりました。

実は十二縁起というのは、難解中の難解であり、たぶん今までに完全に解き明かした人はいないように思えるのです。

それを、有尋有伺さんは、最初から、十二縁起は簡単なように言われていました。

いままで、そういう人を見てきた経験からすると、十二縁起を簡単だと思っている人は実際には十二縁起の深さ、難解さが理解できてなかっただけだったのです。

十二縁起の、無明⇒行 を前世の行為と解釈すれば簡単なのですが、それでは、今において、無明を滅して苦を消滅させることが出来ません。前世の行為や無明はすでに起きたことだからです。

いま、たちどころに滅するものでなければならないはずです。

 

ですから、十二縁起は難解中の難解なのです。

少し期待しましたが、結局、十二縁起を語るつもりはないとのこと。

 

そうですか、というしかありませんね。

 

十二縁起の根本

有尋有伺 (49.104.35.15)  

ショーシャンク様 さっそくお返事ありがとうございます!
私も中村元先生の涅槃経は持っていますので、 そこでも重要視なされていることは存じ上げています。
やはり直接対話させて頂けると、私の知見も培われていくのを感じ、本当に嬉しく思います。
同意も反論も、どちらのご回答でも成長に繋がり嬉しい所存です。
こういう風に真に有意義な対話ができる機会はそう多いことではありません。
本当にありがとうございます。
念のため申し上げますと、 ショーシャンク様からすぐにレスポンス頂けていますが ここ数日はたまたま合間にコメントできる時間を見つけたから コメントさせて頂いているだけで、 決してお返事を催促している意図は全くございません。
なのでどうか気が向いた時にでも、ご負担なくお返事頂けたら幸いです。
 
さて、この記事では 〈無明が起こる前から執着が潜在していては、無明を滅してもまた潜在した執着によって苦が起こることになります。 それでは、仏教の根幹が崩れることになると思います。〉 とご指摘頂き、この点だけ争点となっているわけなのですが、 実は増支部に無明の前もあるという経があるのです。
 
南伝大蔵経と春秋社に掲載されているのですが、 テーラワーダの人が訳されているものがネット上にありますので、そちらを引用させて頂きます。
増支部10集7双品61無明(PTS AN V.113- 南伝22下1-)
 
 
1 比丘たちよ、無明の最初は「これより前に無明はなかった、その後に無明が生じた」というふうに知られるべきではない。  
比丘たちよ、(私は)このように説く。
しかし、「これに縁って無明がある」というふうには知られるべきである、と。
 
比丘たちよ、また私は、無明に食(栄養)があり、食あらずということはないと説く。
 何を無明の食とするのか?  
(それは)五蓋であると説く。  
 
比丘たちよ、また私は、五蓋に食があり、食あらずということはないと説く。  
何を五蓋の食とするのか?  
三(身口意)悪行であると説く。  
 
比丘たちよ、また私は、三悪行に食があり、食あらずということはないと説く。  
何を三悪行の食とするのか?  
六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)の非防護であると説く。  
 
比丘たちよ、また私は、五根の非防護に食があり、食あらずということはないと説く。
 何を六根の非防護の食とするのか?  
不正念不正知であると説く。  
 
比丘たちよ、また私は、不正念不正知に食があり、食あらずということはないと説く。
 何を不正念不正知の食とするのか?  
非如理作意であると説く。  
 
比丘たちよ、また私は、非如理作意に食があり、食あらずということはないと説く。
 何を非如理作意の食とするのか?  
信なきことであると説く。  
 
比丘たちよ、また私は、信なきことに食があり、食あらずということはないと説く。
 何を信なきことの食とするのか?  
邪法を聞くことであると説く。  
 
比丘たちよ、また私は、邪法を聞くことに食があり、食あらずということはないと説く。  
何を邪法を聞くことの食とするのか?
悪人(正しくない指導者)に親しむことであると説く。
 
 
2 比丘たちよ、このように悪人に親しむことを成就すると邪法を聞くことを成就し、邪法を聞くことを成就するなら信なきことを成就し、信なきことを成就するなら非如理作意を成就し、非如理作意を成就するなら不正念不正知を成就し、不正念不正知を成就するなら六根の非防護を成就し、六根の非防護を成就するなら三悪行を成就し、三悪行を具せば五蓋を成就し、五蓋を成就するなら無明を成就する。  
 
このように、この無明に食があって[無明を]成就する。
 
 
3 比丘たちよ、たとえば山上に大いに雨が降り、雷が鳴るとき、水は低きに流れて展転して山岳渓谷に満ちる。
山岳渓谷に満ちて小さな池に満ちる。
小さな池に満ちて大きな池に満ちる。
大きな池に満ちて小さな河に満ちる。
小さな河に満ちて大河に満ちる。
大河に満ちて大海に満ちる。
このように、この大海に食があって[大海を]満たす。  
 
比丘たちよ、このように悪人に親しむことを成就するなら邪法を聞くことを成就し、間違った教えを聞くことを成就するなら不信を成就し、不信を成就するなら非如理作意を成就し、非如理作意を成就するなら不正念不正知を成就し、不正念不正知を成就するなら六根の非防護を成就し、六根の非防護を成就するなら三悪行を成就し、三悪行を成就するなら五蓋を成就し、五蓋を成就するなら無明を成就する。  
 
このように、この無明に食があって[無明を]成就する。
 
 
4 比丘たちよ、また私は、明解脱に食(栄養)があり、食あらずということはないと説く。  
何を明解脱の食とするのか?
(それは)七覚支であると説く。  
 
比丘たちよ、また私は、七覚支に食があり、食あらずということはないと説く。  
何を七覚支の食とするのか?  
四念処であると説く。  
 
比丘たちよ、また私は、四念処に食があり、食あらずということはないと説く。  
何を四念処の食とするのか?  
三(身口意)善行(妙行)であると説く。  
 
比丘たちよ、また私は、三善行に食があり、食あらずということはないと説く。  
何を三善行の食とするのか?  
六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)の防護であると説く。  
 
比丘たちよ、また私は、六根の防護に食があり、食あらずということはないと説く。  
何を六根の防護の食とするのか?  
正念正知であると説く。
 
比丘たちよ、また私は、正念正知に食があり、食あらずということはないと説く。  
何を正念正知の食とするのか?  
如理作意であると説く。  
 
比丘たちよ、また私は、如理作意に食があり、食あらずということはないと説く。  
何を如理作意の食とするのか?  
信あることと説く。  
 
比丘たちよ、また私は、信あることに食があり、食あらずということはないと説く。
 何を信の食とするのか?  
正法を聞くことであると説く。  
 
比丘たちよ、また私は、正法を聞くことに食があり、食あらずということはないと説く。  
何を正法を聞くことの食とするのか?  
善人(正しい指導者)に親しむことであると説く。
 
5 比丘たちよ、このように善人に親しむことを成就するなら正法を聞くことを成就し、正法を聞くことを成就するなら信あることを成就し、信あることを成就するなら如理作意を成就し、如理作意を成就するなら正念正知を成就し、正念正知を成就するなら六根の防護を具し、六根の防護を成就するなら三善行を成就し、三善行を成就するなら四念処を成就し、四念処を成就するなら七覚支を成就し、七覚支を成就するなら明解脱を成就する。  
 
このように、この明解脱に食があって[明解脱を]成就する。
 
6 比丘たちよ、たとえば山上に大いに雨が降り、雷が鳴るとき、水は低きに流れて展転して山岳渓谷に満ちる。
山岳渓谷に満ちて小さな池に満ちる。
小さな池に満ちて大きな池に満ちる。
大きな池に満ちて小さな河に満ちる。
小さな河に満ちて大河に満ちる。
大河に満ちて大海に満ちる。
このように、この大海に食があって[大海を]満たす。  
 
比丘たちよ、このように善人に親しむことを成就するなら正法を聞くことを成就し、正法を聞くことを成就するなら信あることを成就し、信あることを成就するなら如理作意を成就し、如理作意を成就するなら正念正知を成就し、正念正知を成就するなら六根の防護を成就し、六根の防護を成就するなら三善行を成就し、三善行を成就するなら四念処を成就し、四念処を成就するなら七覚支を成就し、七覚支を成就するなら明解脱を成就する。  このように、この明解脱に食があって[明解脱を]成就する。
 
 
 
 
この経典を簡潔にまとめると、 無明は 無明 ← 五蓋 ←(身・苦・意の)三悪行 ← 六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)の非防護 ← 不正念不正知 ← 非如理作意 ← 疑(信なきこと) ← 邪法を聞くこと ← 悪人(正しくない指導者)に親しむこ と の流れで生起することとなっており、 それはまるで山に降った雨がから海まで流れ着くまでの流れのように、 渇愛が増えることを続けていたら、エンドレスに渇愛は悪の作用(渇愛が増える行動)から食(渇愛の原動力となる心のエネルギー)がまるでガソリンスタンドで定期的に補充されたように、 常にレギュラー満タンな形で渇愛の流れが循環していく。
しかし、四聖諦や七覚支や四念処といった善の作用(渇愛を減る行動、必ずしも世間道徳とイコールではないです)から食がまるでガソリンスタンドでレギュラー満タンな形で循環し、 そして解脱することであらゆる欲の世界から解放される。
そんな感じですね、 なぜ行が生じるのかというのは、 渇愛が存続するには食という心のエネルギーが必要なので、 欲の衝動を出すことによって渇愛というガソリンを供給しないとと普通の人は無意識レベルで思い込まされているからなのです。
その食とはきれいとか、欲しいとか、美しいとかのような、 欲による感情なのです。
しかし常に身体の感官を防護していれば、ガソリンを補充できなくなるので、次第に渇愛が減り続け、消えていくわけなのです。
それが「戒」でございまして、 パーリ律は、誰でも実践できるよう、1番下のレベルに合わせておりますので、  集団活動の約束みたいな感じになっているのですが、 その食を防ぐための、誰もが実践すべき本格的な修行としては、 中部経典152経になるわけなのです。
 
つまり、パーリ律は任意でやれば良いものですが、 感官の防護は必須科目となるのです。 ※食は「4つの食」として仏教用語があります。

 

 

 

有尋有伺さん、こんばんは。

ヤフー掲示板の時に投稿して、このブログの初めの方に格納している文でも言っていることですが、原始仏典でも、遅く成立した経典になればなるほど、変化、増大、付加、再編集が行われています。

すべての仏教経典を同列に考えると、同じ言葉であっても、言っていることが矛盾することはよくあります。

例えば、『一人で修行しなさい』という言葉があります。しかし、『よき修行仲間と修行しなさい』という言葉もあります。それもだんだん強調されてきて『よき仲間が出来ることが悟りへの道の大半なのだ』というような極端に仲間と修行することを勧める文言もあります。

最古層の仏典では『一人で修行すること』に重点が置かれています。それがサンガが発展した後のより新しい仏典では、さかんに『仲間と修行すること』を強調し始めます。

このように、同じ原始仏典でも、矛盾に見えることが多くあります。

前にも書いているのですが、そのような場合は、私はより古層の仏典を重視します。

私は、歴史上の仏陀が本当は何を言ったのか、をテーマに探求していますので、仏陀の肉声に迫ることを優先しているのです。

 

最古層の仏典は、スッタニパータの第4章第5章と、相応部経典の詩句を伴った集、だと思います。

それから、他の相応部経典やダンマパダなどが続きます。

以前の『仏教についてのひとりごと 134』ではこう書いています。

 

※※※

確かめた結果、増谷文雄もやはり次のようなことを書いています。

①小部経典の中の『スッタニパータ』『ダンマパダ』は原初的で、有力な資料とされる。一つにはそれらが偈(韻文)を中心に成っているからだ。韻文は古形を保存するのに適している。

②『スッタニパータ』『ダンマパダ』以外で考えると、
 相応部経典⇒中部経典⇒長部経典⇒増支部経典 の順で出来たと考えられる。
 漢訳の阿含経で言えば
 雑阿含経⇒中阿含経⇒長阿含経⇒増一阿含経 の順番で、雑阿含経が一番古い。

③増一阿含経は、最も遅く出来た経典で、大衆部の所属と想定され大乗仏教の影響がみられる。

④遅く成立した経典になればなるほど、変化、増大、付加、再編集が行われていると想定される。

⑤故に、雑阿含経より中阿含経、中阿含経より長阿含経、長阿含経より増一阿含経の方が、変化や付加が多大になっている。

⑥しかし、古層である雑阿含経でも、成立時期はバラバラであり、変化、付加が大きいものもある。

※※※

 

仏陀の肉声に迫り、仏陀の真意を解き明かしたいと念願している私が、増支部経典などをあまり重要視していないのは上記のような理由があります。

 

 

それに、挙げられていた増支部経典は、『正しくない指導者に親しみ、邪法を聞く』ことで無明が増大する、という一般的な事実を説いているだけであり、仏陀が、苦の根本原因を探って突き詰めた十二縁起と関連づけられるものではないと考えます。

無明という言葉が使われているだけで、十二縁起とは全く関係のない言説ではないでしょうか。

要は、邪法を聞くと無明が増大する、七覚支を修行して悟りに達しなさい、と言ってるだけのように思えます。

 

もし、あなたが、『正しくない指導者に親しみ、邪法を聞く』ことを縁として無明が生じるということを、十二縁起と関連づけるとすれば、十二縁起とはあなたにとってどのような解釈のものなのでしょう。教えてください。

 

正しくない指導者に親しむ⇒邪法を聞く⇒不信⇒非如理作意⇒不正念不正知⇒六根の非防護⇒三悪行⇒五蓋⇒無明⇒行⇒識⇒名色⇒六入⇒触⇒受⇒愛⇒取⇒有⇒生⇒老死

と連鎖させることに、なにか意味があるのでしょうか。

 

前回にも書きましたが、十二縁起で苦の根本原因は無明と喝破されたのであり、それ故に無明を滅すれば苦を滅することができるというのが十二縁起の根本です。その前提が崩れると仏教の根本から崩れてしまいます。

 

どうも、私の十二縁起の解釈とは全く違うことを思っておられるようですので、あなたの十二縁起の解釈を詳しく教えていただけないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

縁の滅は無明の滅

有尋有伺 (49.104.35.15)  

どうやらショーシャンク様は 特にsatiと修行法についてご興味があるようですね!
それでしたらsatiについて更にお話しさせて頂きましょう!
実は憶念は、最初のコメントで記しました水泳方法の例えのように、 例えば中部140では、3段回で思考する内容を変更することとなっています つまり、最初はバタ足だけで泳いでいたのを、 慣れてきたらクロールやバタフライに変えるようなものです。
 
さて、現在のショーシャンク様にお聞きしたいのですが、 今はsatiで何についてどう憶念しているのですか? 出来る限り具体的に教えてくだされば幸いです。 お時間ある時にでもお返事下さい
 
補足① ショーシャンク様はどうも三十七菩提分法に強く拘りを持たれているようで それ故私の水泳方法と大学の例えで申し上げた択法についても三十七菩提分法の中から選ぶと解されたようですが、 私の力不足で適格に意図をお伝えできず申し訳なかったのですが、 私の意図としては、ゴータマ尊の修行法全部を指しています。
 
つまり三十七菩提分法に加えて、同じ涅槃経にある八解脱や八勝処、五蘊非我に六界に十八処など、 経典にある多くの修行法のことですね。
 
確かにゴータマ尊は死ぬ直前に代表として三十七菩提分法を挙げられましたが、 例えば五比丘や息子ラーフラは五蘊非我の「説法」で阿羅漢果に達しましたし、 スッタニパータの「二種の観察」経で「二種の観察」という修行法のこれまた説法で同様に達しておりますし、(更に二種の観察を実践しても達すことができるとゴータマ尊自身も同じ経で仰ってますし) 小部「テーラーガーター」410(中村元先生の訳があります)の サッパダーサ長老に関しましては、 20年間全く成果が出ずに嫌になって、なんと自殺しようと刀を取った瞬間達せられた というような事例も多々あることから、他の修行法も良いものはあるとは思います。 最終的には自己責任ですが、これらも採用されても面白いかもしれませんね。
 
特に、二種の観察はゴータマ尊も悟る直前にやってた修行法なので、たぶんほぼ必須に近くはなるとは思います。
中〜後半のある程度デフォルトで欲がない人向けです。
 
補足② 十二縁起の行で悩まれているようですので、 簡単にヒントをお渡しします、少しでもお役に立てれば幸いです。 さて、なぜ六処が出てくる前に眼・耳・鼻・舌・身・意識が生じるのか、経典が間違っているのか? そんなこと仰ってはいけません笑。 ちゃんと他の経典と照らし合わせればわかるのです。
まず、阿羅漢果は五蘊といいます。
阿羅漢果より下は、五取蘊といいます。
何が違うのかと申しますと、 五取蘊はデフォルトで渇愛がインストールされているのです。
つまり、無明が起こる前から、執着が潜在しているのです。
そして詳細は中部経典18蜜丸経で、九支縁起として解説がなされているので、お時間がある時にでもお読みになられたら良いかもしれませんね。
外でさっと暇つぶしに書き込んだので引用はないですが、 かえってこちらの方が端的で良いかもしれません。 今後ともよろしくお願いします。
 
 
 
 
 
有尋有伺さん、ありがとうございます。
 
>>今はsatiで何についてどう憶念しているのですか? 出来る限り具体的に教えてくだされば幸いです。
 

sati=念 に関しては、私は四念処を念じることが多いです。

特に、ウォーキングの時などに念じるのは四念処ですね。

私の四念処のやり方はこのブログに何度も書いていますので見ていただければいいのですが、身・受・心・法について、一つずつ、無常・苦・非我を観じます。

四念処の解説書には

身は不浄・受は苦・心は無常・法は無我 と観じるとなっています。

しかし、大念処経を見てもわかりますが、それだけでは完全ではなく、身の不浄観(身から大便・小便などが出る)から死体が腐っていくさまをイメージするのは確かに不浄がテーマですが白骨観になると無常、そして非我が強くイメージされると思います。

このように、身・受・心・法について、無常・苦・非我を観じます。

 

 

>>ショーシャンク様はどうも三十七菩提分法に強く拘りを持たれているようで

 

今までの仏教では、あまり重要視されることがなかった七覚支ですが、調べていくと非常に重要なものだとわかりました。

 

パーリ涅槃経においても、サーリプッタが仏陀の問いかけに答えて

『門扉が一つだけの城廓において、この都市に出入りするものはすべてこの門扉を通らなければならない』という喩えをして

『過去・現在・未来のすべての覚者は、四念処のうちに心を安立し、七覚支を如実に修行して、無上の正しい悟りを完成した』と言っています。

 

すべての悟った人は、四念処と七覚支を修行して無上の悟りに至ったということですから、非常に重要です。

ですから、仏陀の真意を知るためには、何をおいても、四念処と七覚支の的確な把握は必要なのです。

 

 

>>スッタニパータの「二種の観察」経で「二種の観察」という修行法のこれまた説法で同様に達しておりますし

 

スッタニパータの『二種の観察』が、三十七菩提分法や四諦十二縁起と全く別の修行法だとは私は思っていません。

むしろ、原型そのものでしょう。

スッタニパータは最古層の仏典ですから、教えの原型がそのまま残っています。

後世のもののように整えられてはいないのですが、それだけに仏陀の真意を知るには不可欠なものです。

スッタニパータの『二種の観察』は、『苦しみとその原因』と『苦しみの消滅』についての観察法です。

これはまさしく、四諦の原型です。そして、原因の項目をつなぎ合わせていけば、十二縁起の原型となります。

 

 

>>無明が起こる前から、執着が潜在しているのです。

 

『無明が起こる前から、執着が潜在している』とのことですが、苦の根本原因は無明です。

律蔵大品において、仏陀が『縁の滅を知ったのですべての疑念は消え去る』と言った『縁の滅』とは無明の滅です。

十二縁起の連鎖の一番最初は無明です。

無明が起こる前から執着が潜在していては、無明を滅してもまた潜在した執着によって苦が起こることになります。

それでは、仏教の根幹が崩れることになると思います。

 

 

 

 

 

 

有尋有伺さんへの返信

有尋有伺さん、こんばんは。

大変詳しいコメントありがとうございます。

とても深く掘り下げておられますね。

大変、参考になりました。

 

satiは、『憶念する』と『意識を向ける』の2つの意味があると言われていますね。

その通りだと思います。

そして、2つに思えても、元は『意識を対象に向け続ける』という意味というのは卓見でしょう。

四念処にしても、身⇒受⇒心⇒法 と考えた場合、

肉体があり、肉体の感覚があり、感覚に反応して思考がわき上がり、思考の蓄積によって観念が出来上がる という一連の流れがあります。

そして、受=感覚 に反応した思考は、快楽や嫌悪が接着剤となり次々と連想を生みいつの間にかストーリーに没頭しています。

ここには気づいていなければいけないのだと思います。

肉体そしてその感覚に紐づいた思考、自動的に反応して起こる思考ではなく、自分がこのような思考を起こすのだという主体的な念を出すこと。

これが、sati なのだと思えます。

その観点からもsatiを『意識を対象に向け続ける』と解釈するのは卓見だと思います。

 

『択法覚支』については、択法を三十七菩提分法の中の自分に合った法を選択するという意味に捉えられているのですね。

 

択法覚支は、

念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨

で、念の次に来ています。

私は七覚支の念覚支は、四念処だと思っています。

四念処は

身⇒受⇒心⇒法 です。

最後の『法』はよくある解説では諸法の法、すなわち外界の物質的存在としているものが多いです。

しかし、私は、

身⇒受⇒心⇒法 を

肉体があり、肉体の感覚があり、感覚に反応して思考がわき上がり、思考の蓄積によって観念が出来上がる

という一連の流れだと考えていますので

法は、観念・記憶と解釈しています。

ですから、念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨 というのは

身⇒受⇒心⇒法⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨 となり

よって、択法の法も観念のことだと解釈しています。

私の心にある観念のほとんどは、生まれて無数の感覚の経験をして思考がわき上がり蓄積されたもの、ほとんどが受に基づいたものです。

苦受は嫌悪の感情を、楽受は愛着の感情を伴っています。

しかし、ほんの少し、仏陀の言葉を読んだりして得た真理の観念も存在しています。

択法とは、自分の心の中にある観念を選択していくことだと思っています。

受に基づいた、嫌悪や愛着の感情を伴った観念を捨てていき、真理の観念を選択して残していくことだと考えています。

 

三十七菩提分法の中核は、七覚支です。

五根・五力は概説のようなものだと思っています。

信⇒精進⇒念⇒定⇒慧 ですから

仏法僧への信を入り口にして

三十七菩提分法の中身の、精進⇒念⇒定 を修行して

慧に至る

という道筋を示したものだと考えています。

三十七菩提分法を修行して初めて慧が生じます。

その慧こそが、八正道の正見=正見解 だと思っています。

慧=正見解 が生じて初めて八正道の実践ができ

慧=正見解 が生じるまでは、私たちは顛倒妄想している邪見解しかなく

八正道が実践できません。

 

七覚支は、念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨 ですが、言い換えると

四念処⇒択法⇒四正勤⇒喜⇒軽安⇒四神足⇒捨

と考えています。

三十七菩提分法のほとんどの項目が七覚支にあるというのが私の解釈です。

 

三十七菩提分法は七科ありますが、

五根・五力は、概説。

七覚支の中に四念処・四正勤・四神足が含まれますから

結局、

七覚支⇒八正道

が三十七菩提分法の中核だということになります。

 

四念処を徹底瞑想して初めて、顛倒妄想を180度転回して慧=正見解に至る。

その、慧=正見解 こそが、八正道の正見で

八正道とは、正見に基づいた思(思考)・語(言葉)・業(行為)・命(生活)であり日常生活の実践です。

精進(四正勤)からは高度なものになります。慧=正見解に基づいた、潜在意識の大掃除となります。

四正勤とは、自分の心の中にある善法(真理の観念)だけをピックアップして、悪法(受に紐づいた記憶・観念)を除去していくことです。

強烈な懺悔慚愧が生じなければ、潜在意識のdeleteはできません。

今までの仏教、禅にしても浄土教にしても、あるいは仏教以外のノンデュアリティなどにしても、初期仏教で重要視されていた懺悔慚愧が全くありません。

ですから、いくら悟ったつもりになっても、潜在意識に我塊は厳然としてあり、何の役にも立たない、かえって悟った自分という自我を強めるだけになっています。

その点、キリスト教や神道は、不完全ながらも懺悔や禊、祓などがありますから、素晴らしいと言えます。

 

 

 

増支部経典『簡潔経』は知りませんでした。

四無量心や四念処が出ていてとても重要な経典に思えます。

非常に勉強になります。

ありがとうございます。

全文をじっくり調べてからまた書き込みたいと思います。

 

 

有尋有伺さんのコメント

有尋有伺 (114.187.206.144)  

初めまして!
 
私もあなたと同様にゴータマ尊の修行法が徹底思考型だと喝破してその方法で修業し疑を完全に断ちまた初禅にまで達したことがある者です。
 
まず初めに言わせて下さい。 よくぞ論蔵(アビダルマ)から始まる無思考型の瞑想法というバイアスから離れ、癖が強く根気が強くないと読み解くことができないパーリ律経・阿含経に真摯に向き合われ、それこそゴータマ尊の死後2000年程の間誰もが見つけられなかった、ゴータマ尊が当時仰られた具体的な修行方法を見つけられました!!
私はそのことに心の底から尊敬します。
かなり苦労なされたことでしょう、本当に偉大な事です!  
 
つい先日たまたまブログを見つけていくらかの記事を拝読させて頂いて、心の底からビックリしました。  
まさか私が死ぬまでに徹底思考型であると確信してその確信を自己を島として日々精進されている世間に流されない強い信念を持たれている方と、ネット上とはいえお話しさせて頂ける機会があるだろうとは、もう今後はまず無いだろうと思っていました。  
 
ゴータマ尊はスッタニパータ「犀の経」にて「犀の角のようにただ独り歩め」と自分1人の力だけで達しなさいと仰られていますが、一方で、 四五 もしも汝が、〈賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者〉 を得たならば、あらゆる危難 にうち勝ち、こころ喜び、気 をおちつかせて、かれとともに歩め。 (中村 元. ブッダのことば-スッタニパータ (岩波文庫) (Kindle の位置No.377-384). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.) とも仰っているように今風に言い換えるならば、真に有意義な智慧について知っている修行者がいるならば、情報をシェアして、でも最終的には自己責任で精進しなさいとも経典にはあります。
なのでぜひ今後も定期的に拝読させて頂きたいと思いますので、情報をシェアさせて頂けたらこれ以上もない幸いです。  
 
ただ、シェアなので一方的に頂くだけでは申し訳ないですし、ショーシャンク様のブログを最新のものからある程度ざっと拝読させて頂きましたが、シェアの話をさせて頂いたものの、少なくともショーシャンク様はもうシェアされなくともご自力で預流・一来・不還・阿羅漢の果報を得ることはそう難しいことではないとは思うのです。  
 
しかし私見で大変恐縮なのですが、私の持っている情報で、ショーシャンク様にとってそれがより確実に、より迅速に近づく可能性があるかなと思う情報があり、それゆえぜひシェアさせて頂きたいなと思ったことがあるので、まず挨拶として少し気になったところをなるべく簡潔にパーリ仏典を根拠に記させて頂きたいと思います。  
 
正直に申し上げますと、シェアというものは、その性質上、受け取り手の気持ち次第でどうしても自論を押し付けてしまうという形になりがちという根本的な弱点があり、 それはショーシャンク様にかえって不快な思いをさせてしまうことになりますので、そのことだけが凄く気掛かりですので今回コメントさせて頂くかどうか凄く悩みました。
 
しかし、お話しさせて頂かないとショーシャンク様がどのように感じられるかはわかりかねますので、ご不快なお気持ちになってしまわれる可能性があることは重々承知の上かつ、差し出がましいのですが、僭越ながらコメントさせて頂きます。  
 
そういうわけですので、私のコメントがほんの少しだけでもお役に立てて頂けたならば非常に幸いです。  
 
それではどうかゴータマ尊が初めて説法をされた時の尊者コンダンニャのような寛容な御心持でどうかお読みください。  
 
 
まずショーシャンク様の仰られた、sati =念とは何かについては、2020/05/07の記事で記されている  sati =念 とは、『気づき』のことではなく、『記憶して保持すること』『憶念』のことだと。  
歴史上の仏陀が言ったのは、『真理の観念を選び取り記憶してしっかりと保持し、意識的に繰り返し念じること』これこそが sati でした。 とのことですが、まさにその通りです!
 
ゴータマ尊の具体的な修行方法は、 『思考を中心としたsati=念による修行法』だったのです。
 
しかし、少し補足させて頂きますと、基本はもちろん思考なのですが、 一方で例えば、パーリ小部『如是語経』四集110「歩行経」に、  「もしくは、歩いていようが、立っていようが、あるいは、また、坐しているも、臥しているも、彼が、家〔の生活〕に依存した悪しき思考(世俗の欲望に縛られた思考)を思い考えるなら――彼は、悪しき道を実践する者であり、〔人を〕迷わす諸々のものに耽溺する者である。そのような比丘は、最上の正覚を体得する可能なき者である。  
しかしながら、彼が、歩いていようが、立っていようが、あるいは、また、坐しているも、臥しているも、思考〔の働き〕を静めて、思考の寂止に喜びあるなら、彼は、そのような比丘は、最上の正覚を体得する可能ある者である」と。
正田 大観. 小部経典 第一巻 (パーリ語原文付)~正田大観 翻訳集 ブッダの福音~ (Kindle の位置No.6861-6866). Evolving. Kindle 版. などと〈思考〔の働き〕を静めて、思考の寂止に喜びあるなら〉とあるように、無思考であることも大切だとする教えも実は存在するのです。  
 
つまり、ゴータマ尊は時には「思考で修習しなさい」とも指導しますし、ある時には「無思考で修習しなさい」とも説いておられます。
 
このように、ゴータマ尊の修行法は、ケースバイケースで必要な時に、それに適した修行法に切り替えて修行をしなければならないという一面もあるのです。
 
   また、少し難しいのは、①修行者の現時点での達成度合いによって、その段階により適した修行法に切り替えて修行をしなければ効果が得にくいという一面もあるのです。  
そして、それらを見極める能力の修習が、七覚支の2番目、択法覚支であるとも言えるのです。  
それはちょうど、小学校のプールの授業のようなものです。  
 
①プールの授業では、25mの彼岸までを泳ぎ切れることを目標に水泳法を指導しますが、まず水に浮く練習をしてから、バタ足から泳ぎ方を学び、上達したらクロールや背泳ぎ・バタフライなどの高等水泳テクニックを学びます。  
クロール・背泳ぎ・バタフライの高等テクを修習すれば、泳ぎ切るのに非常に有利になりますが、だからといっていきなりそれらから始めようとしたら、絶対にできないわけではないでしょうが、25mの彼岸まで泳ぎ切るという目標に達するまでの効率は悪いでしょう。  
 
ただ、人は元からの資質次第で凡人から天才までいますので、もし秀才・天才であるならば、最初から高等テクをやってもいいわけです。
   
この例えで重要な点は、彼岸まで泳ぎ切れる(苦の原因である渇愛を滅尽する)か否かだけが焦点なので、自力で渡り切りさえすれば、どんな手段を取っても結果さえ得られればそれでいいのです。
 
そのように、ゴータマ尊の対機説法は、経によって 凡人向け・天才向け(パーリ小部『自説経』1章10「バーヒヤ経」など)、 理性的なタイプ向け(サーリプッタ)と感性方タイプ向け(ゴータマ尊、モッガラーナ)、ただ阿羅漢果を得るだけの効率的かつ簡潔な教えと、後進の弟子たちの指導者になるための徹底的な教え など、王道の必須科目から、マニアックすぎる任意で実践する選択科目まであるので、必須科目は履修しつつ、時には自分に適した修行法を選ぶというのが基本の形となるのです。  
 
話をまとめますと、  思考だけでなく無思考も時には必要、修行法も仰る通り七科三十七菩提分法が基本ですが、  人によってケースバイケースなので義務教育的に全部やろうとするのでは無く、大学のように自分に必要な単位を修得するというスタイルで取り組むのがゴータマ尊の生前の意図に即した学び方(択法覚支)だということです。
(なお、四神足は第四禅定の状態で行うのが基本の修行法かつ、指導者向けの修行法なので、第四禅定まで達すまでは気にしない方が良いです。 パーリ中部140経などご参照ください)
 
それらを踏まえられると、必修科目「四念処」と思考での修行法との関係が理解できます。  
 
ショーシャンク様のブログをブログ内検索させて頂くと、パーリ増支部に所属する、思考の修行法についての絶対に必須な経についてはどうやら記されていないと見受けられることから、 もしかするとまだご存じではないかもしれないと思いましたので、ショーシャンク様のこの説の説得力がより増すようにショーシャンク様の仏陀の教えの研究に少しでも貢献させて頂けるように、少し補足させて頂きたいと思います。    
 
この増支部をご参照頂くと、ゴータマ尊はただ単に思考をしなさいと仰られたのではなく、 渇愛の滅尽に最も効率的でかつ効果的な思考テクニックである、 「有尋有伺定・無尋有伺定・無尋無伺定」を駆使しなさいとも説法をされていたことがお分かりになり、それは先述した『如是語経』四集110「歩行経」の解釈の補足ともなると気付かれると思います。  
 
挨拶としては既に過剰な文章量になっておりますが、よろしければもう少しだけお付き合いいただけると幸いです。  
 
さて、四念処は言うまでもなくゴータマ尊の修行法の中核で、もうこれだけやっていれば阿羅漢果の果報を得られるという優れた修行法ですが、 その一方で、有名なパーリ長部22「大念処経」やパーリ中部118「出入息経」などを読んでみても、具体的なことがいまいちピンとこず、だからよくわからなく、それゆえテーラワーダは後世に「清浄道論」のようなズれた瞑想法を考案し、今に至っているわけなのです。  
 
しかしそれは択法覚支の概念を適切に理解していないからそうなってしまったと言えるのです。  
 
実は四念処自体が先ほどの大学の例えのようなもので、根幹の教えこそ共通していますが、具体的な修行法としては、その時のご自身の身の状況次第で異なるやり方となるのです。  
 
つまり、歩いている時の四念処、立っている時の四念処、寝ている時の四念処、座っている時の四念処の具体的なやり方は、全部異なるのです。  
 
そしてそれらのやり方は、網羅的に羅列することもできなくはないのですが、そのような捉え方よりは、自動車のハンドル裁きのように、根本のやり方だけ教習所通りに意識して、その場の道路状況に応じて培った感覚で回すような捉え方が良いのです。
 
そして、その教習所の根本的なやり方が、思考型のsatiであり、思考型のsatiと四念処との関係が唯一はっきりと記されている経が、パーリ増支部8集第7地震品63「簡潔経」なのです。  
 
全文は長いので、一部引用します。
(全文はこちらです、https://w.atwiki.jp/waikei2008/pages/14.html また、南伝大蔵経・春秋社の増支部経典でも記されています。)
ある時、一人の比丘 が 世尊 の 許へ 訪れ、礼拝して、一方 の 側 に 座りました。 座ってから、彼 は 世尊 に 言いました。
「 世尊よ、願わくば 私のために、簡潔に 法 を 説いて下さいますように。 世尊から 法 を 聴いたならば、私は 独りで離れて静居をして、 不放逸で、熱心に、專精にして住したいと思います」
「 しかし、一類の愚人たち は、そのようにして 私に 教えを 請うのだが、 法を 説かれると、── 私に 追随しよう と 思惟する のだよ」
「 世尊よ、どうか私のために、簡潔に 法 を 説いて下さいますように。 私は、世尊の所説 の 義 を 悟り、そして、世尊の所説 を、私は 相続 したい と 思います」
「 ── 比丘よ、然らば 汝は、このように学びなさい。 比丘よ、汝、内側に 心を向けて 住し、妙住 せしめて、 すでに生じた 悪不善法が、心を 捉えて 住するようなことが 無いように したならば、 比丘よ、次に 汝は、このように 学びなさい ── 1.慈心解脱 私は、慈心解脱 を 修習して多習し、開発をして、基礎となし、髄成し、積習して、よく造作しよう、と。 比丘よ、汝は、このように 学びなさい 。
比丘よ、汝、このように 三昧を 修習して 多習する ならば、 比丘よ、次に汝は、この 三昧を 有尋有伺 にして 修習 しなさい。
無尋有伺 にして 修習 しなさい。 無尋無伺 にして 修習 しなさい。 有喜 にして 修習 しなさい。 無喜 にして 修習 しなさい。
悦 と 供に 修習 しなさい。 捨 と 供に 修習 しなさい。
比丘よ、汝、このように 三昧を 修習して 善く 修習する ならば、 比丘よ、次に汝は、このように 学びなさい ──  ※以下、悲心解脱・喜心解脱・捨心解脱と入れ替えただけの同文が続きます。 (中略)
5.身念処 私は、身において 身を観じ、熱心に、正念、正知 にして 住し、世間 の 貪・憂 を 調伏しよう、と。 比丘よ、汝は、このように 学びなさい 。
比丘よ、汝、このように 三昧を 修習して 多習する ならば、 比丘よ、次に汝は、この 三昧を 有尋有伺 にして 修習 しなさい。
無尋有伺 にして 修習 しなさい。 無尋無伺 にして 修習 しなさい。 有喜 にして 修習 しなさい。 無喜 にして 修習 しなさい。 悦 と 供に 修習 しなさい。 捨 と 供に 修習 しなさい。 比丘よ、汝、このように 三昧を 修習して 善く 修習する ならば、 比丘よ、次に汝は、このように 学びなさい ──  ※以下、受念処・心念処・法念処と入れ替えただけの同文が続きます。 (中略) 比丘よ、汝、このように 三昧を 修習して 善く 修習する ならば、 比丘よ、汝は、行くにも 安穏に 行き、住まう にも 安穏に 住まい、 坐す にも 安穏に 坐し、身を臥す にも 安穏に 臥す であろう。 」 (後略)  
 
この経を一言でまとめますと、 慈悲喜捨(四無量心)と身受心法(四念処)は、三昧(samādhi、定とも訳される、以下定と記します)という修行法で修習するのですが、その定の具体的なやり方は、有尋有伺・無尋有伺・無尋無伺なのですよと記されているのです。
 
有尋有伺・無尋有伺・無尋無伺はそれぞれ訳し方次第では 大まかな考察のある、細かな考察のある (有尋有伺) 大まかな考察のない、細かな考察のみ  (無尋有伺) 大まかな考察のない、細かな考察のない (無尋無伺) とも記される仏教用語なのですが、経典内ではそのほとんどが第一禅定や第二禅定の説明時に出ており、それゆえ注釈では禅定の状態の時の状態を表す用語として解釈されているで、 この経もテーラワーダ的には 第一禅定~第四禅定の状態に達してください、この経ではたまたま変わった言い回しをしているだけですよ と解釈して放置されています。
 
しかし、パーリ中部44経には、「大まかな考察、細かな考察」は身口意の「語行」のことという解説がなされています。
 
「 それでは、尊尼よ、何が 身の行 でしょうか。何が 語の行 でしょうか。何が 心の行 でしょうか。 」
「 友、ヴィサーカよ、出入息 が 身の行 です。 大まかな考察 ( 尋 ) 、細かな考察 ( 伺 ) が 語の行 です。 想と受 が 心の行 です。 」
「 それでは、尊尼よ、なぜ、出入息 が 身の行 でしょうか。なぜ、大まかな考察、細かな考察 が 語の行 でしょうか。想と受 が 心の行 でしょうか。 」
「 友、ヴィサーカよ、出入息 は 身 に 属するもの であり、これらの 法は 身 に 結ばれて います。 それゆえ、出入息 が 身の行 です。 友、ヴィサーカよ、先に大まかに考え、細かに考え、後に語を発します。 それゆえ、大まかな考察、細かな考察 が 語の行 です。 想と受は心に属するものであり、これらの法は心に結ばれています。 それゆえ、想と受 が 心の行 です。 」 ( パーリ中部44「小有明経」片山一良訳『パーリ仏典 第一期2 中部(マッジマニカーヤ)根本五十経編Ⅱ』 P346 ~ P347 )  
 
つまり、このことから先ほどの「簡潔経」の説明を補うと、 四無量心と四念処は、定という修行法で修習するのですが、その定の具体的なやり方は、有尋有伺・無尋有伺・無尋無伺という「語行」の尋・伺の有無の切り替えによる瞑想「テクニック」なのですよ ということがわかり、 経典からでも四念処は思考型のsatiで行うという明確な根拠が読み取れるのです。
 
そしてようやく本題である、「有尋有伺定・無尋有伺定・無尋無伺定」とは何かということに触れるのですが、 そもそも尋・伺とは何かと申し上げますと、簡潔に説明してある記事があります。
 
仏典の中で、「大まかな考察」や「細かな考察」と訳される事の多い、 「尋」と「伺」は、思考 や 言葉(語行) と 深く関わる 語句 なのです。
 
辞書 で 調べてみると、 ● 尋 [ vi-takka ] … 思い、思いはかり、思いめぐらし、思いはからい、思案、考想、尋、尋思、思索。 ● 伺 [ vi-cara ] … 考察、伺察、細密な考察。 ( 「 パーリ仏教辞典 」 村上真完・及川真介 / 春秋社 ) 漢訳としては、「尋求」や「伺察」がよく使われます。
 
【尋求】探し求める、追求する。
【伺察】ひそかに観察すること。 例えば、私たちが「考え事」をしている時に、少し注意をすれば、 「言葉」を使ってあれこれ一生懸命「独り言」をつぶやいている自分(心の働き)と、 その「独り言」を聞いて確認しているもう一人の自分がいることに気付くでしょう。 そして、その「独り言」に時々頷いたり、たまに、ダメ出しを出したりしているのですが… ── つまり、それが「尋」と「伺」の心の働きなのです。 引用ここまで https://w.atwiki.jp/waikei2008/pages/23.html ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― この説明を補足しますと、 人間の思考は、脳内で能動的にブツブツと考えることがあると思うのですが、これが尋です。
また、特に何も考えていないのに、ピンと良いアイデアが浮かぶことがあると思いますが、それが伺です。  
つまり、人間は普段はあまり意識することはありませんが、寝る前に暗記物を覚えてから寝ると、よく記憶に残るというように、 無意識が知らない間に勝手に熟考することで、腑に落ちて理解するということがあります。  
その人間の性質を有効活用したものが、3つの語行による定なのです。
そして有尋有伺定・無尋無伺定の経典内での具体的な例は、中部19経「二種考経」にあり、無尋有伺定の具体例は、増支部6集第3無上品28経にあります。
 その解説を書き始めますと、どうしても網羅的になってしまいますので、ここでは解説しているサイトのリンクを貼らせて頂いてひとまず締めさせて頂こうと思います。 ●中部19経「二種考経」の解説 https://w.atwiki.jp/waikei2008/pages/13.html ●増支部6集第3無上品28経(無題) https://w.atwiki.jp/waikei2008/pages/15.html  最後に、「簡潔経」の先述した説明だけですと、四念処は「念」なのに、具体的な実践方法は「定」という、ちょっとよくわからないことになってしまいます。  
 
 結論から申し上げますと、八正道の「正念sammā-sati」と「念sati」、「正定sammā-samādhi」と定「samādhi」のそれぞれの定義は異なります。  
 
つまり八正道のsammāの有る無しで、違う用語として解釈しなければならないのです。
そして「念」と「定」は、一言で言えば、「念≒定」であり、また「念」と思考(「思惟」)も「念≒思惟」とほぼ同じものなのです。  
「定」に関しては、同じく中部44に定義があります。
「 それでは、尊尼よ、定とは何でしょうか。 もろもろの定の相とはどのような法でしょうか。 もろもろのとはどのような法でしょうか。 定の修習とは何でしょうか。 」
「 友、ヴィサーカよ、心の統一、これが定です。  四の念処、これが定の相です。  四の正勤、これが定の資具です。  それらの法の親近、修習、復習、これがここにおける定の修習です。」
( パーリ中部44「小有明経」片山一良訳『パーリ仏典 第一期2 中部(マッジマニカーヤ)根本五十経編Ⅱ』 P346 ) 〈心の統一cittassa ekaggatā〉、
これが原始仏教における定の定義なのですが、 ここで重要なのは、「心の統一」の捉え方です。  テーラワーダは、経典に出る定の多くが四禅定なので、心の統一『状態』として全て解釈しているのですが、 …これは読解力の問題なのですが、世間一般の常識から考えて、〈心の統一〉とだけ言われたら、もう一つの解釈を採れるのです。 心の統一『方法、メソッド、テクニック』です。 ※長部33結集経にある、有尋有伺定・無尋有伺定・無尋無伺定と、空相定、無想定(無想心定)、無願定の6つのみです。  
一方で、「念sati」としては残念ながら仏教用語としての明確な定義はありません。  
しかし、四念処の前後に行う修行法、「念と正知(正念正知とも)sati‐sampajaññāya」としては定義があるのでそこから、間接的に見いだすことはできます。 ③友らよ、また何が、修習され、復習され、念と正知に資する禅定の修習でしょうか。 友らよ、ここに比丘には、    もろもろの受が、知られるものとして生起し、知られるものとして持続し、知られるものとして消滅します。  もろもろの想が、知られるものとして生起し、知られるものとして持続し、知られるものとして消滅します。  もろもろの尋が、知られるものとして生起し、知られるものとして持続し、知られるものとして消滅します。  
友らよ、これが、修習され、復習され、念と正知に資する禅定の修習です。 ( パーリ長部33「結集経」片山一良訳『パーリ仏典 第2期6 長部ディーガニカーヤ)パーティカ編Ⅱ』 P51 )  
 
この定義から、実は四念処経の身髄観に出てくる「正知」は、実は羅列的に述べられている日常の所作そのものでなく、 所作を行う時に勝手に生じる受・想・尋に意識を向けなさいということであったと判明します。
 
つまり、意識を向ける(sati)から、受・想・尋の生滅を正しく知るのです。  それゆえ「念sati」とは、ショーシャンク様の仰る通り「憶念」するという意味はもちろんあるのですが、やはり大元の原意は「意識を対象に向ける・向け続ける」ことであることがわかります。  
 
つまり、satiとは、「意識を向ける」ことと、「憶念すること」という、2つの意味があるのです。
 
ところで、意識を向ける、という人間の行動ですが、 もし考えに意識を向けたら、それは「思考」と一般的に呼ばれます。 もし瞑想に意識を向けたら、それは「心の統一」とか「定」とか「瞑想」と一般的に呼ばれます。
 
要するに、意識の向ける対象次第で、「念」は「思惟」とも「定」とも変化するので、それゆえ最初に結論として「念≒定」「「念≒思惟」と申し上げたのです。 …。
 
できる限り簡潔にまとめようと一部の解説は他のサイトに任せたりもしたのですが、結果的に長文となってしまい、申し訳ございません。  
 
今後とも定期的に拝読させて頂こうと思いますので、これからも私を始め、多くの読者の方々に、知賢をシェアさせて頂けると幸いです。
 ショーシャンク様の今後のご健闘をお祈りいたしまして、ひとまず筆を下ろさせて頂こうと思います。
ありがとうございました。
 
 
 
有尋有伺さん、はじめまして。
とても深く研究されておられるようですね。
私はこれから、歴史上の仏陀が本当に言いたかったことが明かされる時代がくると思っています。
文献学が発達し、仏陀の肉声に最も近い経典がどれかが明らかになりつつある今こそ、その時でしょう。
仏陀が本当に説いた理法は人類の至宝だと思っています。
その宝を今まで人類は地中深く埋めてしまったとも思っています。
同じように思っておられる方がおられるのはとてもうれしいことです。
今日は時間がありませんので、明日にでもコメントを詳しく読んで、あらためてレスいたします。
よろしくお願いいたします。
 
 
 
有尋有伺 (114.187.206.144)  
ショーシャンク様 どうやらさっそくお返事を頂いていたようで、ありがとうございます!
スパム扱いされるかもと思っておりましたので、嬉しい次第です。
 
ゴータマ尊の理論(法、ダンマとも)やその解説について本当かどうかを吟味するのも小思惟です。
 
なのでぜひ鵜呑みにせずに、あなたの修行に「役に立つか立たないか『だけ』」を拠り所にして、吟味してみてください。
 
それを「四苦否定」といい、一番最初にマスターすべき仏道の前提条件でもあります。 (長部1、スッタニパータ「マーガンディヤ経」外)
 
さて、少しリンク先の情報で誤謬(事実と明らかに異なる解釈)があったのを思い出したので、それだけコメントさせて頂きます。
 
①中部19経「二種考経」の解説 https://w.atwiki.jp/waikei2008/pages/13.html このリンク先の 〈釈尊は、これらの瞑想法(有尋有伺定と無尋有伺定)を、合わせて「観・ヴィパッサナー」と呼んだのだ。〉 これは誤謬です。この執筆者(和井恵氏)も別の場所で誤謬とご自身で認めています。 観はそのような捉え方ではありません。
 
②増支部6集第3無上品28経(無題) https://w.atwiki.jp/waikei2008/pages/15.html …これは言うまでもなくお分かりになるとは思うのですが、 〈この経典は、「有尋有伺定」と「有尋無伺定」を説明するために訳出しました。〉 の「有尋無伺定」はもちろん「無尋有伺定」の誤タイプです。
 
文脈でまずお分かりになるとは思うのですが、念のため申し上げます。
 
…これぐらいの短文がご挨拶としてちょうど良い具合ですね。
 
今後とも宜しくお願い致します。

百丈野狐の公案のカラクリを見破った

前に、百丈野狐という禅の公案について、私の解釈を書きました。

私は、禅の門外漢ですが、坐禅ではなく、仏陀の四念処などの瞑想をしていると、全く謎々のような禅の公案や大乗仏典などの真意が不思議と手に取るようにわかってきます。むしろ、坐禅をして印可を受けていると言っている人の解説などは俯瞰してないのでたどたどしく全く的外れな感じがします。

ところで、以前にこのブログで書いた百丈野狐の公案の私の解釈はそれで仏陀の真意に沿っていると今でも自負していますが、ここにきていきなり、あの公案の裏に隠された秘密というかカラクリがパッとひらめきました。

禅の公案など全く日頃考えもしないのに、突然何の関連もなくひらめいた感じです。

 

弟子である黄檗がなぜ師匠である百丈を平手打ちしたのか?

そして、ビンタされた師の百丈が、手をたたいて大笑いして弟子の黄檗を褒めたのか?

無門はなぜ「不昧不落 千錯萬錯」、つまり不昧も不落も大間違いだと言ったのか?

 

もちろん、前回の解釈でもその理由の解釈を書きました。

それはそれで間違いではないのですが、この公案には大きなカラクリがありました。

たぶん、今までのどの禅書でも、無門関の解説書でも、このカラクリに言及しているものはないと思います。私が知らないだけで、あるかもしれませんが。

もう一度、前回の百丈野狐の公案の私の解釈を載せます。

この公案に隠されたカラクリを考えてみてください。

 

 

 

 

百丈野狐
    
百丈和尚、凡參次、有一老人常隨衆聽法。衆人退、老人亦退。忽一日不退。

師遂問、面前立者復是何人。老人云、諾。某甲非人也。於過去迦葉佛時曾住此山。因學人問、大修行底人還落因果也無。某甲對云、不落因果。五百生墮野狐身。今請、和尚代一轉語貴脱野狐。遂問、大修行底人、還落因果也無。

師云、不昧因果。老人於言下大悟。

作禮云、某甲、已脱野狐身住在山後。敢告和尚。乞、依亡僧事例。師、令維那白槌告衆、食後送亡僧。大衆言議、一衆皆安、涅槃堂又無人病。何故如是。食後只見師領衆至山後嵒下、以杖挑出一死野狐、乃依火葬。

師、至晩上堂、擧前因縁。黄蘗便問、古人錯祗對一轉語、墮五百生野狐身、轉轉不錯合作箇甚麼。師云、近前來與伊道。黄蘗遂近前、與師一掌。師拍手笑云、將謂、胡鬚赤。更有赤鬚胡。


無門曰、不落因果、爲甚墮野狐。不昧因果、爲甚脱野狐。若向者裏著得一隻眼、便知得前百丈贏得風流五百生。
   
    頌曰
  不落不昧 兩采一賽
  不昧不落 千錯萬錯

 

 

 

(読み下し文)

百丈和尚、凡そ参の次で、一老人有って常に衆に随って法を聴く。衆人退けば老人も亦た退く。忽ち一日退かず。

師遂に問う「面前に立つ者は復た是れ何人ぞ」老人云く、「諾、某甲は非人なり。過去、迦葉仏の時に於いて曾つて此の山に住す。因みに学人問う、大修行底の人還って因果に落ちるや。某甲対えて云く「因果に落ちず」。五百生野狐身に堕す。
今請う、和尚一転語を代わって貴えに野狐を脱せしめよ」と。遂に問う「大修行底の人、還って因果に落つるや」。

師云く「因果を昧さず」。
老人言下に大悟し、作礼して云く「某甲、已に野狐身を脱して山後に住在す。敢て和尚に告ぐ、乞うらくは、亡僧の事例に依れ」。
師、維那をして白槌して衆に告げしむ、「食後に亡僧を送らん」と。大衆言議すらく「一衆皆な安し、涅槃堂に又た人の病む無し。何が故ぞ是くの如くなる」と。
食後に只だ師の衆を領して山後の嵒下に至って、杖を以て一死野狐を挑出し、乃ち火葬に依らしむるを見る。師、晩に至って上堂、前の因縁を挙す。
黄蘗便ち問う、「古人錯って一転語を祗対し、五百生野狐身に堕す。転々錯らざれば合に箇の甚麼か作るべき」。師云く「近前来、伊が与めに道わん」。黄蘗遂に近前して、師に一掌を与う。師、手を拍って笑って云く、「将に謂えり胡鬚赤と。更に赤鬚胡有り」
   
無門曰く「不落因果、甚と為てか野狐に堕す。不昧因果、甚と為てか野狐を脱す。若し者裏に向って一隻眼を著得せば、便ち前百丈の風流五百生を贏ち得たることを知り得ん」。
   
頌に曰く
不落と不昧と、両采一賽。
不昧と不落と、千錯万錯。

 

 

わたしたち、迷いの衆生は、『落因果』つまり因果に落ちていて、果であるこの現象界であがいています。色の世界です。

その人たちにとって、この現象界は、鋼鉄のように強固なものです。

因果の世界にがんじがらめになっていて、『因果だからこうなるしかなかった』というような、環境や現象に支配されている、主体のない生き方です。

 

『不落因果』、因果に落ちない、というのは空の境地です。

十牛図で言えば、第八図 人牛倶忘 です。まんまるの円、空っぽです。

そこは現象世界も全くない、広々とした空間です。真空そのままです。

 

『不昧因果』、因果をくらまさない、というのは、十牛図で言えば、第九図と第十図です。真空妙有と真空妙用です。

無量心の現れと働きです。

果であるこの現象に主体的に働きかけることです。

自らを因として創造していくことです。

 

因果にとらわれ、因果の果である現象を堅固なものだと錯覚し、環境に支配されている生き方が、『因果に落ちる』迷いの衆生。

 

因果を超越したと思い込み、果である現象を無視して、悟りすまして、空の境地に浸ってるのが、『因果に落ちず』。

 

無量の境地にいながら、因果の果である現象を無視せず、誤魔化さず、現象に主体的に働きかけるのが『因果をくらまさず』。

 

この老人は、現象、現実から遊離した『空の悟り』を本当の悟りと思い込んでいて学人にもそんな生悟りを教えてしまった。

そのために500回も野狐に生まれ変わった。

自らが創造の主体であることがわからなかった。

しかし、百丈の『不昧因果』によって、自らの悟りが空一辺倒の生悟りにしか過ぎなく何の役にも立たないものであるとわかり、自らの主体を本当に悟り、野狐の身から脱した。

だから老人は『死んだ僧を弔う様式で葬儀をしてください』と頼んだのです。

百丈もその弔い方にふさわしいと判断してそうしたのです。

 

黄檗は、それを百も承知で、師の百丈に対して『あの老人が答えを誤らなかったらどうなっていたんですか?』と聞きます。

百丈は『近くに来い。教えてやろう。』と言います。

黄檗は百丈に近づいて、師である百丈の顔を平手打ちします。黄檗が主体を示したということです。主体の働きを示したのです。

 

  頌曰
  不落不昧 兩采一賽
  不昧不落 千錯萬錯

 

『不落』と『不昧』とは、コースの中の2つの料理、一つのサイコロの違う面であり、同じ類いのもの、似たようなものだ。

『不昧』も『不落』も、どちらも大間違いだ。

弟子の黄檗が師の百丈に平手打ちしたその働きからすると、千錯萬錯だ。

 

 

 

相応部経典6

このブログの『相応部経典』は、春秋社の『原始仏典Ⅱ』相応部経典1巻~6巻を1巻から順次重要な箇所をピックアップしていくつもりでしたが、なぜか2巻が見当たりません。山荘も探しましたがなかったので、とりあえず、2巻を飛ばして3巻からピックアップしていきます。

ちなみに、春秋社『原始仏典Ⅱ』相応部経典1巻~6巻の構成は

1巻 詩句をともなった集

2巻 因縁についての集

3巻 存在の構成要素についての集

4巻 六処篇

5巻6巻 大篇

となっています。

 

 

家の主人よ。あなたの身体は病んでおり、病におかされ、病にかかっている。

実にこのような身体を持ちながら、一瞬であれ病んでいないと公言するのは愚者以外の何ものであろうか。

それゆえ、このように学ぶべきである。

私の身体は病気であっても、私の心は病気でなくあろう、と。

                          

 

家の主人よ、身体が病んでも、心が病まないとは、どういうことか。

優れた弟子たちは、聖者たちを見、聖者の教えを知り、聖者の教えに導かれる。

かれは、身体(色)を我であると見ず、我は身体を所有していると見ず、我の中に身体を見ず、身体の中に我を見ずして、「わたしは身体である、身体は私のものである」と執らわれない。

 

かれは、感受(受)を我であると見ず、我は感受を所有していると見ず、我の中に感受を見ず、感受の中に我を見ずして、「わたしは感受である、感受は私のものである」と執らわれない。

 

かれは、知覚(想)を我であると見ず、我は知覚を所有していると見ず、我の中に知覚を見ず、知覚の中に我を見ずして、「わたしは知覚である、知覚は私のものである」と執らわれない。

 

かれは、形成力(行)を我であると見ず、我は形成力を所有していると見ず、我の中に形成力を見ず、形成力の中に我を見ずして、「わたしは形成力である、形成力は私のものである」と執らわれない。

 

かれは、認識(識)を我であると見ず、我は認識を所有していると見ず、我の中に認識を見ず、認識の中に我を見ずして、「わたしは認識である、認識は私のものである」と執らわれない。

                           (ナクラの父)

 

 

 

『存在の構成要素についての集成』には非常に重要な教説が数多くあります。

次の文は仏陀の理法の根幹部分だと思います。

 

 

身体(色)は無常である。

何であれ、無常であるものは苦しみである。

何であれ、苦しみであるものは非我である(自己ではない)。

何であれ、非我であるものは

「これは私のものではない、私はこれではない、これは私の我(自己)ではない」と

このようにこれをありのままに正しい智慧によって見るべきである。

 

受(感受)・想(知覚)・行(形成力)・識(認識)は無常である。

何であれ、無常であるものは苦しみである。

何であれ、苦しみであるものは非我である(自己ではない)。

何であれ、非我であるものは

「これは私のものではない、私はこれではない、これは私の我(自己)ではない」と

このようにこれをありのままに正しい智慧によって見るべきである。

 

このように見て、教えを聞く優れた弟子は、色(身体)・受(感受)・想(知覚)・行(形成力)・識(認識)についても厭う。

厭うと染まらない。

染まらないので解脱する。

解脱すると解脱したと知る。

「生まれは尽きた。清らかな修行は完成した。なされるべきことはなされた。」「この状態のほかはない」と知るのである。

 

 

ここで、五蘊(色・受・想・行・識)につき、無常で、苦で、非我であると正しい智慧で見るべきといっています。

そうすれば、自己同化が破れ、自己限定が破れ、解脱する、ということです。

これが、四念処の原理です。

四念処は、身・受・心・法について無常・苦・非我を徹底的に観ずることです。

そして、解脱の完成こそ、「この状態のほかはない」ということなのです。

 

 

身体は無常である。

作られたものである。

縁って起こったものである。

滅尽する性質のものである。

衰滅する性質のものである。消失する性質のものである。

消滅する性質のものである。

それが消滅する消滅するといわれる。

 

これは、アーナンダの「消滅、消滅と言われますが、どのようなものが消滅すると消滅と言われるのですか?」という質問に対する仏陀の答えです。

 

 

 

欲望への渇愛、生存への渇愛、虚無への渇愛である。

修行者たちよ、これが痛みの根源といわれる。

                   (痛みの根源)

 

欲愛、有愛、無有愛 が痛みの根源だと言っています。

この本の訳では、欲愛が欲望への渇愛、有愛が生存への渇愛、無有愛が虚無への渇愛、としていますが、

私は

欲愛=欲界の渇愛 つまり、食欲、性欲などの肉体的な欲望

有愛=色界の渇愛 つまり、形あるものへの所有欲

無有愛=無色界の渇愛 つまり、形のないものへの欲=名誉欲、承認欲求

だと考えています。

 

無有愛を虚無への渇愛とするのはどうしてもおかしいと思うからです。

 

 

修行者たちよ、壊れるものと壊れないものについて話そう。

身体(色)は壊れるものである。

その消滅、寂滅、滅が壊れないものである。

受・想・行・識は壊れるものである。

その消滅、寂滅、滅が壊れないものである。

                  (壊れるもの)

 

 

 

 

 

パーリ涅槃経1

いま、春秋社の『相応部経典』を第一集から、大事だと思われるところを書き抜いていっていますが、それと並行して、パーリ涅槃経も重要な箇所を書き抜いていきます。

仏陀の最期の言動を記録した『大般涅槃経』には、原始仏典(パーリ仏典)と大乗仏典があります。パーリ語で書かれた大般涅槃経という意味で大乗仏典の大般涅槃経と区別するためにパーリ涅槃経と呼びます。

パーリ涅槃経の訳本は多く出ていますが、ここでは岩波文庫の『ブッダ最後の旅』から抜き出します。

 

仏陀の教えが凝縮しているという意味で、パーリ涅槃経は非常に重要です。

スッタニパータは最古層の仏典であって仏陀の教えの原型が残されていますが、体系的に語られたり整えられたりしていない分、本当の理解が難しいものになっています。

その点、パーリ涅槃経は、仏陀の教えの最も重要なところが全く無駄なく語られていて、まさしく仏陀の教えを凝縮しているものとなっています。

 

 

 

修行僧たちが、未来の世に、信があり、慚じる心があり、愧じ、博学であり、努力し励み、心の念いが安定していて、知惠を持ったものであるならば、その間は、修行僧たちに繁栄が期待され、衰亡はないであろう。

 

相応部経典でも頻繁に出てきていますが、パーリ涅槃経でも、やはり慚愧が出ています。

慚愧の心が初期の仏教では非常に重要だったということです。

 

 

過去の長い時にわたって正しく悟った人々がいたが、それらすべての尊師は、五つの蓋いを捨て去って、人を弱くする心の煩悩を明らかに知って、四つのことを心に思い浮かべる修行(四念処)のうちに心をしっかりと安立し、七つの悟りのことがら(七覚支)を如実に修行して、無上の正しいさとりを完成しました。

 

未来の長い時にわたって正しく悟る人々がいるであろうが、それらすべての尊師は、五つの蓋いを捨て去って、人を弱くする心の煩悩を明らかに知って、四つのことを心に思い浮かべる修行(四念処)のうちに心をしっかりと安立し、七つの悟りのことがら(七覚支)を如実に修行して、無上の正しいさとりを完成するでしょう。

 

現在においてもまた正しく悟った人である尊師は、五つの蓋いを捨て去って、人を弱くする心の煩悩を明らかに知って、四つのことを心に思い浮かべる修行(四念処)のうちに心をしっかりと安立し、七つの悟りのことがら(七覚支)を如実に修行して、無上の正しいさとりを完成しておられます。

 

これは重要な文です。

過去、現在、未来のすべての覚者は、四念処と七覚支を修行して、無上の正しい悟りを完成する、とあります。

三十七菩提分法の中で、四念処と七覚支だけ挙げられていることは非常に興味深いです。

 

七覚支の最初の『念』は四念処を指しますから、つまり、すべての覚者は七覚支を修行して悟ったということです。

 

 

 

資産家よ、戒めをたもち、品性ある人は、なおざりにしないことによって、財産が大いに豊かになる。

これが、戒めをたもっていることによって、品性ある人の受ける第一のすぐれた利点である。

 

戒めをたもつことの利点として、財産が大いに豊かになるというのは、今までの仏教のイメージからするとあり得ない言説に思えます。

この文を見ると、仏陀は財産を豊かにすることを否定はしなかったことがわかります。

どころか、想いが因であり現象が果と説いたのですから、善き想いは善き現象をもたらすと考えていたのです。

 

 

 

 

無量を感じること

高原 (126.42.33.248)    

ショーシャンクさん、こんにちは。 お勧めにあった阿含経全三刊を買ってきました。今までは阿含経はネットで見ることができたんですが、ネットは部分的にしか読めなかったので、これだけの分厚い阿含経を読めるのはとても楽しみです。少しずつ読んでいますが、易しく教えを説いてくれるとても良い経だと思す。ゆっくり読みます。 最初の方から十二縁起が説かれていて、実際に仏陀から直に話を聞いているような感覚になって、そこで思ったことは、たぶん、他にも、ぼくと同じ疑問を持った人はいると思うのですが、これはなかなか言えない失礼を承知で質問しますが、 「では、受(感覚)とは何であろうか。それには6つの感覚がある。目の接触によりて生ずる感覚、耳の接触によりて生ずる感覚、鼻の接触によりて生ずる感覚、舌の接触によりて生ずる感覚、身の接触によりて生ずる感覚、ならびに意の接触によりて生ずる感覚がそれである。比丘たちよ、これを受というのである」とある「耳の接触によりて生ずる感覚」の中に、クラシック音楽は入らないのでしょうか?

 

 

 

高原さん、こんにちは。

耳で聴くクラシック音楽も、直弟子が聞いた仏陀の声も、感覚すなわち受の働きによって認識されます。受です。

 

十二縁起とは、仏陀が、苦の縁って起こる原因を洞察したものです。

無量の大海であった私たちの精神が、中心を持ち限定され苦の集積へと押し流されていく過程を洞察するものです。

六入という感覚器官が形成され(六入)、その感覚器官が対象物に触れ(触)、五官の感覚の経験が生じます(受)。

受には苦受と楽受があります。苦でも楽でもないものもあります。

苦受とは苦痛。楽受とは快感です。

人間は、苦受を嫌悪し排斥します。楽受を愛着し長く味わうことを望みます(愛)

好悪のフィルターが生じたのです。

 

四念処観にも受は出てきます。

四念処観とは、身・受・心・法の4つを無常であり苦であり私ではないと観察することです。

 

私たちの精神が、無量でなく、卑小であり続けているのは、中心を持ったからです。

中心によって限定され、無量を感じられなくなったのです。

欠乏感が強く生じてしまったのです。

 

十二縁起の瞑想や四念処の瞑想は、その中心を洞察してdeleteしていって無量へと到達するためのものです。

 

それでは、クラシック音楽はどうでしょうか。あるいは、大乗仏典のような芸術作品はどうでしょうか。

これらは、無量を感じ取った人たちが創作したものです。

 

クラシック音楽をどんなに聴いても、中心を消滅して無量に達することなどできません。

大乗仏典もそうです。禅の公案もそうです。

それはただ、受の経験、感覚の経験の一つになって、自我を構成し強めるだけです。

 

 

ところが、例えば、十二縁起の瞑想などによって中心を離れ無量を感じることができるようになれば、魂の底から、クラシック音楽や大乗仏典や禅の公案がわかるようになるでしょう。それらに無限を感じることができるようになります。

 

逆はあり得ません。

クラシック音楽をよく聴く人が悟りに至るわけではありません。メロディなど何度も聴いていれば頭で慣れてきて『ああ、きれいなメロディでいいんじゃない?』という感じには誰でもなります。

だからクラシックを聴くからと言って悟りに近いわけでは全くなく、

しかし、本当に無量に到達した人なら例外なくクラシック音楽に奥に流れる無量を心底感じ取ることができるでしょう。悟ったと自称している人で、クラシック音楽も理解できないのであれば、それはニセモノです。

 

 

相応部経典5

根源によるのではない、正しからざる思索を捨てよ。

戒律を捨てて退くことなく、師(仏陀)と理法と集い(サンガ)とに関して、根源からしっかりと憶いつづけよ。

そうすれば、そなたは、喜びに達し、喜びを楽しみ、歓喜に富む者となり、苦しみを終滅するであろうことは疑いない。

                    (林に関する集成)

 

 

仏法僧に関し、根源からしっかりと憶いつづけよ、とあります。

仏陀の教えの根本は、理法を心に保持し繰り返し念じ続けるということです。

最初期の仏教では、sati=念 は気づきのことではなく、記憶のことです。

記憶、つまりしっかりと心に保持すること、です。

 

そして、仏教は喜びを否定しない。

四無量心も慈悲喜捨で、喜がありますし、七覚支にも、喜が出てきます。

 

 

 

心に気をつけている人は、常に幸せである。気をつけている人は楽しく栄える。

気をつけている人にとっては明日はさらに優れている。

しかし、怨みからは解脱してない。

昼も夜もすっかり心に不傷害を楽しんでいる人は、生きとし生けるものを慈しむ。

かれは何ものをも怨むことがない。

                      (ヤッカについての集成)

 

この文は非常に重要だと思います。

心に気をつけているだけでは、怨みから解脱していない、というのです。

それは、心=想念に気づいているだけでは、我塊=記憶の束 がdeleteされないでそのまま残っているからです。

記憶の束、感情の束をdeleteしていって、智慧を生じ慈無量心に達したときに、怨みから解脱できるのでしょう。

 

 

 

森の中、樹木の根元、空屋の中にいようとも、修行者は、『全きさとりを開いた人』を憶念せよ。

そなたに恐怖は起こらないであろう。

もしも、世の中で最も偉い人、牡牛のような人であるブッダを念ずることが出来なければ、法を念ぜよ。

それは善く説かれ、目的に導くものである。

もしも善く説かれ、目的に導く法を念ずることが出来なければ、集いを念ぜよ。

それは、無上の福田である。

このように、ブッダと法と集いとを念ずるならば、修行者たちよ、恐怖も戦慄も身の毛のよだつことも起こらないであろう。

                    (サッカに関する集成)

 

 

この、仏陀が言っている言葉を見ても、やはり最古層の仏典では、sati=念というのは、憶念のことです。

記憶して保持し繰り返し思うことを指しています。