有尋有伺 (114.187.206.144)
初めまして!
私もあなたと同様にゴータマ尊の修行法が徹底思考型だと喝破してその方法で修業し疑を完全に断ちまた初禅にまで達したことがある者です。
まず初めに言わせて下さい。 よくぞ論蔵(アビダルマ)から始まる無思考型の瞑想法というバイアスから離れ、癖が強く根気が強くないと読み解くことができないパーリ律経・阿含経に真摯に向き合われ、それこそゴータマ尊の死後2000年程の間誰もが見つけられなかった、ゴータマ尊が当時仰られた具体的な修行方法を見つけられました!!
私はそのことに心の底から尊敬します。
かなり苦労なされたことでしょう、本当に偉大な事です!
つい先日たまたまブログを見つけていくらかの記事を拝読させて頂いて、心の底からビックリしました。
まさか私が死ぬまでに徹底思考型であると確信してその確信を自己を島として日々精進されている世間に流されない強い信念を持たれている方と、ネット上とはいえお話しさせて頂ける機会があるだろうとは、もう今後はまず無いだろうと思っていました。
ゴータマ尊はスッタニパータ「犀の経」にて「犀の角のようにただ独り歩め」と自分1人の力だけで達しなさいと仰られていますが、一方で、 四五 もしも汝が、〈賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者〉 を得たならば、あらゆる危難 にうち勝ち、こころ喜び、気 をおちつかせて、かれとともに歩め。 (中村 元. ブッダのことば-スッタニパータ (岩波文庫) (Kindle の位置No.377-384). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.) とも仰っているように今風に言い換えるならば、真に有意義な智慧について知っている修行者がいるならば、情報をシェアして、でも最終的には自己責任で精進しなさいとも経典にはあります。
なのでぜひ今後も定期的に拝読させて頂きたいと思いますので、情報をシェアさせて頂けたらこれ以上もない幸いです。
ただ、シェアなので一方的に頂くだけでは申し訳ないですし、ショーシャンク様のブログを最新のものからある程度ざっと拝読させて頂きましたが、シェアの話をさせて頂いたものの、少なくともショーシャンク様はもうシェアされなくともご自力で預流・一来・不還・阿羅漢の果報を得ることはそう難しいことではないとは思うのです。
しかし私見で大変恐縮なのですが、私の持っている情報で、ショーシャンク様にとってそれがより確実に、より迅速に近づく可能性があるかなと思う情報があり、それゆえぜひシェアさせて頂きたいなと思ったことがあるので、まず挨拶として少し気になったところをなるべく簡潔にパーリ仏典を根拠に記させて頂きたいと思います。
正直に申し上げますと、シェアというものは、その性質上、受け取り手の気持ち次第でどうしても自論を押し付けてしまうという形になりがちという根本的な弱点があり、 それはショーシャンク様にかえって不快な思いをさせてしまうことになりますので、そのことだけが凄く気掛かりですので今回コメントさせて頂くかどうか凄く悩みました。
しかし、お話しさせて頂かないとショーシャンク様がどのように感じられるかはわかりかねますので、ご不快なお気持ちになってしまわれる可能性があることは重々承知の上かつ、差し出がましいのですが、僭越ながらコメントさせて頂きます。
そういうわけですので、私のコメントがほんの少しだけでもお役に立てて頂けたならば非常に幸いです。
それではどうかゴータマ尊が初めて説法をされた時の尊者コンダンニャのような寛容な御心持でどうかお読みください。
まずショーシャンク様の仰られた、sati =念とは何かについては、2020/05/07の記事で記されている sati =念 とは、『気づき』のことではなく、『記憶して保持すること』『憶念』のことだと。
歴史上の仏陀が言ったのは、『真理の観念を選び取り記憶してしっかりと保持し、意識的に繰り返し念じること』これこそが sati でした。 とのことですが、まさにその通りです!
ゴータマ尊の具体的な修行方法は、 『思考を中心としたsati=念による修行法』だったのです。
しかし、少し補足させて頂きますと、基本はもちろん思考なのですが、 一方で例えば、パーリ小部『如是語経』四集110「歩行経」に、 「もしくは、歩いていようが、立っていようが、あるいは、また、坐しているも、臥しているも、彼が、家〔の生活〕に依存した悪しき思考(世俗の欲望に縛られた思考)を思い考えるなら――彼は、悪しき道を実践する者であり、〔人を〕迷わす諸々のものに耽溺する者である。そのような比丘は、最上の正覚を体得する可能なき者である。
しかしながら、彼が、歩いていようが、立っていようが、あるいは、また、坐しているも、臥しているも、思考〔の働き〕を静めて、思考の寂止に喜びあるなら、彼は、そのような比丘は、最上の正覚を体得する可能ある者である」と。
正田 大観. 小部経典 第一巻 (パーリ語原文付)~正田大観 翻訳集 ブッダの福音~ (Kindle の位置No.6861-6866). Evolving. Kindle 版. などと〈思考〔の働き〕を静めて、思考の寂止に喜びあるなら〉とあるように、無思考であることも大切だとする教えも実は存在するのです。
つまり、ゴータマ尊は時には「思考で修習しなさい」とも指導しますし、ある時には「無思考で修習しなさい」とも説いておられます。
このように、ゴータマ尊の修行法は、ケースバイケースで必要な時に、それに適した修行法に切り替えて修行をしなければならないという一面もあるのです。
また、少し難しいのは、①修行者の現時点での達成度合いによって、その段階により適した修行法に切り替えて修行をしなければ効果が得にくいという一面もあるのです。
そして、それらを見極める能力の修習が、七覚支の2番目、択法覚支であるとも言えるのです。
それはちょうど、小学校のプールの授業のようなものです。
①プールの授業では、25mの彼岸までを泳ぎ切れることを目標に水泳法を指導しますが、まず水に浮く練習をしてから、バタ足から泳ぎ方を学び、上達したらクロールや背泳ぎ・バタフライなどの高等水泳テクニックを学びます。
クロール・背泳ぎ・バタフライの高等テクを修習すれば、泳ぎ切るのに非常に有利になりますが、だからといっていきなりそれらから始めようとしたら、絶対にできないわけではないでしょうが、25mの彼岸まで泳ぎ切るという目標に達するまでの効率は悪いでしょう。
ただ、人は元からの資質次第で凡人から天才までいますので、もし秀才・天才であるならば、最初から高等テクをやってもいいわけです。
この例えで重要な点は、彼岸まで泳ぎ切れる(苦の原因である渇愛を滅尽する)か否かだけが焦点なので、自力で渡り切りさえすれば、どんな手段を取っても結果さえ得られればそれでいいのです。
そのように、ゴータマ尊の対機説法は、経によって 凡人向け・天才向け(パーリ小部『自説経』1章10「バーヒヤ経」など)、 理性的なタイプ向け(サーリプッタ)と感性方タイプ向け(ゴータマ尊、モッガラーナ)、ただ阿羅漢果を得るだけの効率的かつ簡潔な教えと、後進の弟子たちの指導者になるための徹底的な教え など、王道の必須科目から、マニアックすぎる任意で実践する選択科目まであるので、必須科目は履修しつつ、時には自分に適した修行法を選ぶというのが基本の形となるのです。
話をまとめますと、 思考だけでなく無思考も時には必要、修行法も仰る通り七科三十七菩提分法が基本ですが、 人によってケースバイケースなので義務教育的に全部やろうとするのでは無く、大学のように自分に必要な単位を修得するというスタイルで取り組むのがゴータマ尊の生前の意図に即した学び方(択法覚支)だということです。
(なお、四神足は第四禅定の状態で行うのが基本の修行法かつ、指導者向けの修行法なので、第四禅定まで達すまでは気にしない方が良いです。 パーリ中部140経などご参照ください)
それらを踏まえられると、必修科目「四念処」と思考での修行法との関係が理解できます。
ショーシャンク様のブログをブログ内検索させて頂くと、パーリ増支部に所属する、思考の修行法についての絶対に必須な経についてはどうやら記されていないと見受けられることから、 もしかするとまだご存じではないかもしれないと思いましたので、ショーシャンク様のこの説の説得力がより増すようにショーシャンク様の仏陀の教えの研究に少しでも貢献させて頂けるように、少し補足させて頂きたいと思います。
この増支部をご参照頂くと、ゴータマ尊はただ単に思考をしなさいと仰られたのではなく、 渇愛の滅尽に最も効率的でかつ効果的な思考テクニックである、 「有尋有伺定・無尋有伺定・無尋無伺定」を駆使しなさいとも説法をされていたことがお分かりになり、それは先述した『如是語経』四集110「歩行経」の解釈の補足ともなると気付かれると思います。
挨拶としては既に過剰な文章量になっておりますが、よろしければもう少しだけお付き合いいただけると幸いです。
さて、四念処は言うまでもなくゴータマ尊の修行法の中核で、もうこれだけやっていれば阿羅漢果の果報を得られるという優れた修行法ですが、 その一方で、有名なパーリ長部22「大念処経」やパーリ中部118「出入息経」などを読んでみても、具体的なことがいまいちピンとこず、だからよくわからなく、それゆえテーラワーダは後世に「清浄道論」のようなズれた瞑想法を考案し、今に至っているわけなのです。
しかしそれは択法覚支の概念を適切に理解していないからそうなってしまったと言えるのです。
実は四念処自体が先ほどの大学の例えのようなもので、根幹の教えこそ共通していますが、具体的な修行法としては、その時のご自身の身の状況次第で異なるやり方となるのです。
つまり、歩いている時の四念処、立っている時の四念処、寝ている時の四念処、座っている時の四念処の具体的なやり方は、全部異なるのです。
そしてそれらのやり方は、網羅的に羅列することもできなくはないのですが、そのような捉え方よりは、自動車のハンドル裁きのように、根本のやり方だけ教習所通りに意識して、その場の道路状況に応じて培った感覚で回すような捉え方が良いのです。
そして、その教習所の根本的なやり方が、思考型のsatiであり、思考型のsatiと四念処との関係が唯一はっきりと記されている経が、パーリ増支部8集第7地震品63「簡潔経」なのです。
全文は長いので、一部引用します。
ある時、一人の比丘 が 世尊 の 許へ 訪れ、礼拝して、一方 の 側 に 座りました。 座ってから、彼 は 世尊 に 言いました。
「 世尊よ、願わくば 私のために、簡潔に 法 を 説いて下さいますように。 世尊から 法 を 聴いたならば、私は 独りで離れて静居をして、 不放逸で、熱心に、專精にして住したいと思います」
「 しかし、一類の愚人たち は、そのようにして 私に 教えを 請うのだが、 法を 説かれると、── 私に 追随しよう と 思惟する のだよ」
「 世尊よ、どうか私のために、簡潔に 法 を 説いて下さいますように。 私は、世尊の所説 の 義 を 悟り、そして、世尊の所説 を、私は 相続 したい と 思います」
「 ── 比丘よ、然らば 汝は、このように学びなさい。 比丘よ、汝、内側に 心を向けて 住し、妙住 せしめて、 すでに生じた 悪不善法が、心を 捉えて 住するようなことが 無いように したならば、 比丘よ、次に 汝は、このように 学びなさい ── 1.慈心解脱 私は、慈心解脱 を 修習して多習し、開発をして、基礎となし、髄成し、積習して、よく造作しよう、と。 比丘よ、汝は、このように 学びなさい 。
比丘よ、汝、このように 三昧を 修習して 多習する ならば、 比丘よ、次に汝は、この 三昧を 有尋有伺 にして 修習 しなさい。
無尋有伺 にして 修習 しなさい。 無尋無伺 にして 修習 しなさい。 有喜 にして 修習 しなさい。 無喜 にして 修習 しなさい。
悦 と 供に 修習 しなさい。 捨 と 供に 修習 しなさい。
比丘よ、汝、このように 三昧を 修習して 善く 修習する ならば、 比丘よ、次に汝は、このように 学びなさい ── ※以下、悲心解脱・喜心解脱・捨心解脱と入れ替えただけの同文が続きます。 (中略)
5.身念処 私は、身において 身を観じ、熱心に、正念、正知 にして 住し、世間 の 貪・憂 を 調伏しよう、と。 比丘よ、汝は、このように 学びなさい 。
比丘よ、汝、このように 三昧を 修習して 多習する ならば、 比丘よ、次に汝は、この 三昧を 有尋有伺 にして 修習 しなさい。
無尋有伺 にして 修習 しなさい。 無尋無伺 にして 修習 しなさい。 有喜 にして 修習 しなさい。 無喜 にして 修習 しなさい。 悦 と 供に 修習 しなさい。 捨 と 供に 修習 しなさい。 比丘よ、汝、このように 三昧を 修習して 善く 修習する ならば、 比丘よ、次に汝は、このように 学びなさい ── ※以下、受念処・心念処・法念処と入れ替えただけの同文が続きます。 (中略) 比丘よ、汝、このように 三昧を 修習して 善く 修習する ならば、 比丘よ、汝は、行くにも 安穏に 行き、住まう にも 安穏に 住まい、 坐す にも 安穏に 坐し、身を臥す にも 安穏に 臥す であろう。 」 (後略)
この経を一言でまとめますと、 慈悲喜捨(四無量心)と身受心法(四念処)は、三昧(samādhi、定とも訳される、以下定と記します)という修行法で修習するのですが、その定の具体的なやり方は、有尋有伺・無尋有伺・無尋無伺なのですよと記されているのです。
有尋有伺・無尋有伺・無尋無伺はそれぞれ訳し方次第では 大まかな考察のある、細かな考察のある (有尋有伺) 大まかな考察のない、細かな考察のみ (無尋有伺) 大まかな考察のない、細かな考察のない (無尋無伺) とも記される仏教用語なのですが、経典内ではそのほとんどが第一禅定や第二禅定の説明時に出ており、それゆえ注釈では禅定の状態の時の状態を表す用語として解釈されているで、 この経もテーラワーダ的には 第一禅定~第四禅定の状態に達してください、この経ではたまたま変わった言い回しをしているだけですよ と解釈して放置されています。
しかし、パーリ中部44経には、「大まかな考察、細かな考察」は身口意の「語行」のことという解説がなされています。
「 それでは、尊尼よ、何が 身の行 でしょうか。何が 語の行 でしょうか。何が 心の行 でしょうか。 」
「 友、ヴィサーカよ、出入息 が 身の行 です。 大まかな考察 ( 尋 ) 、細かな考察 ( 伺 ) が 語の行 です。 想と受 が 心の行 です。 」
「 それでは、尊尼よ、なぜ、出入息 が 身の行 でしょうか。なぜ、大まかな考察、細かな考察 が 語の行 でしょうか。想と受 が 心の行 でしょうか。 」
「 友、ヴィサーカよ、出入息 は 身 に 属するもの であり、これらの 法は 身 に 結ばれて います。 それゆえ、出入息 が 身の行 です。 友、ヴィサーカよ、先に大まかに考え、細かに考え、後に語を発します。 それゆえ、大まかな考察、細かな考察 が 語の行 です。 想と受は心に属するものであり、これらの法は心に結ばれています。 それゆえ、想と受 が 心の行 です。 」 ( パーリ中部44「小有明経」片山一良訳『パーリ仏典 第一期2 中部(マッジマニカーヤ)根本五十経編Ⅱ』 P346 ~ P347 )
つまり、このことから先ほどの「簡潔経」の説明を補うと、 四無量心と四念処は、定という修行法で修習するのですが、その定の具体的なやり方は、有尋有伺・無尋有伺・無尋無伺という「語行」の尋・伺の有無の切り替えによる瞑想「テクニック」なのですよ ということがわかり、 経典からでも四念処は思考型のsatiで行うという明確な根拠が読み取れるのです。
そしてようやく本題である、「有尋有伺定・無尋有伺定・無尋無伺定」とは何かということに触れるのですが、 そもそも尋・伺とは何かと申し上げますと、簡潔に説明してある記事があります。
仏典の中で、「大まかな考察」や「細かな考察」と訳される事の多い、 「尋」と「伺」は、思考 や 言葉(語行) と 深く関わる 語句 なのです。
辞書 で 調べてみると、 ● 尋 [ vi-takka ] … 思い、思いはかり、思いめぐらし、思いはからい、思案、考想、尋、尋思、思索。 ● 伺 [ vi-cara ] … 考察、伺察、細密な考察。 ( 「 パーリ仏教辞典 」 村上真完・及川真介 / 春秋社 ) 漢訳としては、「尋求」や「伺察」がよく使われます。
【尋求】探し求める、追求する。
【伺察】ひそかに観察すること。 例えば、私たちが「考え事」をしている時に、少し注意をすれば、 「言葉」を使ってあれこれ一生懸命「独り言」をつぶやいている自分(心の働き)と、 その「独り言」を聞いて確認しているもう一人の自分がいることに気付くでしょう。 そして、その「独り言」に時々頷いたり、たまに、ダメ出しを出したりしているのですが… ── つまり、それが「尋」と「伺」の心の働きなのです。 引用ここまで https://w.atwiki.jp/waikei2008/pages/23.html ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― この説明を補足しますと、 人間の思考は、脳内で能動的にブツブツと考えることがあると思うのですが、これが尋です。
また、特に何も考えていないのに、ピンと良いアイデアが浮かぶことがあると思いますが、それが伺です。
つまり、人間は普段はあまり意識することはありませんが、寝る前に暗記物を覚えてから寝ると、よく記憶に残るというように、 無意識が知らない間に勝手に熟考することで、腑に落ちて理解するということがあります。
その人間の性質を有効活用したものが、3つの語行による定なのです。
そして有尋有伺定・無尋無伺定の経典内での具体的な例は、中部19経「二種考経」にあり、無尋有伺定の具体例は、増支部6集第3無上品28経にあります。
結論から申し上げますと、八正道の「正念sammā-sati」と「念sati」、「正定sammā-samādhi」と定「samādhi」のそれぞれの定義は異なります。
つまり八正道のsammāの有る無しで、違う用語として解釈しなければならないのです。
そして「念」と「定」は、一言で言えば、「念≒定」であり、また「念」と思考(「思惟」)も「念≒思惟」とほぼ同じものなのです。
「定」に関しては、同じく中部44に定義があります。
「 それでは、尊尼よ、定とは何でしょうか。 もろもろの定の相とはどのような法でしょうか。 もろもろのとはどのような法でしょうか。 定の修習とは何でしょうか。 」
「 友、ヴィサーカよ、心の統一、これが定です。 四の念処、これが定の相です。 四の正勤、これが定の資具です。 それらの法の親近、修習、復習、これがここにおける定の修習です。」
( パーリ中部44「小有明経」片山一良訳『パーリ仏典 第一期2 中部(マッジマニカーヤ)根本五十経編Ⅱ』 P346 ) 〈心の統一cittassa ekaggatā〉、
これが原始仏教における定の定義なのですが、 ここで重要なのは、「心の統一」の捉え方です。 テーラワーダは、経典に出る定の多くが四禅定なので、心の統一『状態』として全て解釈しているのですが、 …これは読解力の問題なのですが、世間一般の常識から考えて、〈心の統一〉とだけ言われたら、もう一つの解釈を採れるのです。 心の統一『方法、メソッド、テクニック』です。 ※長部33結集経にある、有尋有伺定・無尋有伺定・無尋無伺定と、空相定、無想定(無想心定)、無願定の6つのみです。
一方で、「念sati」としては残念ながら仏教用語としての明確な定義はありません。
しかし、四念処の前後に行う修行法、「念と正知(正念正知とも)sati‐sampajaññāya」としては定義があるのでそこから、間接的に見いだすことはできます。 ③友らよ、また何が、修習され、復習され、念と正知に資する禅定の修習でしょうか。 友らよ、ここに比丘には、 もろもろの受が、知られるものとして生起し、知られるものとして持続し、知られるものとして消滅します。 もろもろの想が、知られるものとして生起し、知られるものとして持続し、知られるものとして消滅します。 もろもろの尋が、知られるものとして生起し、知られるものとして持続し、知られるものとして消滅します。
友らよ、これが、修習され、復習され、念と正知に資する禅定の修習です。 ( パーリ長部33「結集経」片山一良訳『パーリ仏典 第2期6 長部ディーガニカーヤ)パーティカ編Ⅱ』 P51 )
この定義から、実は四念処経の身髄観に出てくる「正知」は、実は羅列的に述べられている日常の所作そのものでなく、 所作を行う時に勝手に生じる受・想・尋に意識を向けなさいということであったと判明します。
つまり、意識を向ける(sati)から、受・想・尋の生滅を正しく知るのです。 それゆえ「念sati」とは、ショーシャンク様の仰る通り「憶念」するという意味はもちろんあるのですが、やはり大元の原意は「意識を対象に向ける・向け続ける」ことであることがわかります。
つまり、satiとは、「意識を向ける」ことと、「憶念すること」という、2つの意味があるのです。
ところで、意識を向ける、という人間の行動ですが、 もし考えに意識を向けたら、それは「思考」と一般的に呼ばれます。 もし瞑想に意識を向けたら、それは「心の統一」とか「定」とか「瞑想」と一般的に呼ばれます。
要するに、意識の向ける対象次第で、「念」は「思惟」とも「定」とも変化するので、それゆえ最初に結論として「念≒定」「「念≒思惟」と申し上げたのです。 …。
できる限り簡潔にまとめようと一部の解説は他のサイトに任せたりもしたのですが、結果的に長文となってしまい、申し訳ございません。
今後とも定期的に拝読させて頂こうと思いますので、これからも私を始め、多くの読者の方々に、知賢をシェアさせて頂けると幸いです。
ショーシャンク様の今後のご健闘をお祈りいたしまして、ひとまず筆を下ろさせて頂こうと思います。
ありがとうございました。
有尋有伺さん、はじめまして。
とても深く研究されておられるようですね。
私はこれから、歴史上の仏陀が本当に言いたかったことが明かされる時代がくると思っています。
文献学が発達し、仏陀の肉声に最も近い経典がどれかが明らかになりつつある今こそ、その時でしょう。
仏陀が本当に説いた理法は人類の至宝だと思っています。
その宝を今まで人類は地中深く埋めてしまったとも思っています。
同じように思っておられる方がおられるのはとてもうれしいことです。
今日は時間がありませんので、明日にでもコメントを詳しく読んで、あらためてレスいたします。
よろしくお願いいたします。
有尋有伺 (114.187.206.144)
ショーシャンク様 どうやらさっそくお返事を頂いていたようで、ありがとうございます!
スパム扱いされるかもと思っておりましたので、嬉しい次第です。
ゴータマ尊の理論(法、ダンマとも)やその解説について本当かどうかを吟味するのも小思惟です。
なのでぜひ鵜呑みにせずに、あなたの修行に「役に立つか立たないか『だけ』」を拠り所にして、吟味してみてください。
それを「四苦否定」といい、一番最初にマスターすべき仏道の前提条件でもあります。 (長部1、スッタニパータ「マーガンディヤ経」外)
さて、少しリンク先の情報で誤謬(事実と明らかに異なる解釈)があったのを思い出したので、それだけコメントさせて頂きます。
文脈でまずお分かりになるとは思うのですが、念のため申し上げます。
…これぐらいの短文がご挨拶としてちょうど良い具合ですね。
今後とも宜しくお願い致します。