このブログの『戒律について』にコメントをいただきました。
コメント、ありがとうございます。
『仏陀の真意』には、こう書きました。
最初期の仏教においては、戒律はたったひとつだけでした。
少なくとも、仏陀の弟子が1250人を超えるまでは、具足戒はひとつでした。
舎利弗と目連が250人を引き連れてやってきて弟子入りしたときも、仏陀に『尊いお方よ、私たちは幸あるお方のもとで出家して、具足戒を得たいと存じます。』というと、仏陀は
『来なさい。比丘たちよ。真理は善く説かれた。梵行を修して、正しく苦を滅ぼしなさい。』と言いました。
これが、具足戒となったと最古の仏伝には書かれています。
すなわち、最初期の仏教には、『梵行を修して、正しく苦を滅ぼしなさい』というたったひとつの戒律だけでした。
梵行とは、パーリ語でbrahmacariya と書きます。
直訳すると、ブラフマンの行ないということです。
後世には、性交渉を離れるという意味にだけなりましたが、もともとは、ブラフマンのごとき完全な行ない、最高の行ない、という意味であったのです。性交渉を離れることだけで苦を滅ぼせるわけはありません。
最初期に仏陀が新しい弟子たちに『梵行を修して、正しく苦を滅ぼしなさい』という戒律を一つだけ与えたのは、梵行にすべてが込められているからです。
brahmavihāra(梵住)もbrahmacariya(梵行)も、無量なる境地、そして無量なる境地に基づく完全な行ないの意味であったのです。
最初期のサンガは、意識レベルの高い人たちばかりでしたが、弟子の数が膨大に増えてくると、当然意識レベルや生活態度がなっていない人も出てきました。
そこで、仏陀は、サンガと言う集団生活する際の規律として、問題が起こった都度、新しく戒律を作っていきます。
これを、随犯随制といいます。つまり、戒律と言うのは、弟子が増えていった頃から、誰かが問題や不祥事を起こす都度、作っていたもので、学校による校則のようなものです。校則を守れば東大に入れるということがないように、戒律を守ったから悟れるということではなく、戒律は何ら本質的なものではありませんでした。集団生活において、熱心に精進している人たちの迷惑にならないように規律を決めていったということです。
しかし、後世においては、戒律が非常に重要視されていきます。その反動として、戒律を守れない者の救済というような思想も出てきます。末法無戒という思想も出てきます。戒律をめぐって様々な考えが出てきます。
しかし、仏陀が具足戒として初期の人たちに授けたのは『梵行を修して、正しく苦を滅ぼしなさい』という戒律だけです。
むしろ、提婆達多は、厳格な戒律を求めました。
食事は托鉢によるものだけだったのに、長者や富裕層の支持者が増え、その邸宅に招かれて食事を取ることも多くなってきました。
それを最初期のような厳格な戒律に戻したいというのが提婆達多で、そのために教団を割って出ていきました。
しかしながら私は、本当の戒律とは、『梵行を修して、正しく苦を滅ぼしなさい』つまり『無量なる境地に基づく完全な行ないを修して、正しく苦を滅ぼしなさい』ということを常に心に保持することなのだと考えています。
この本に書きましたように、戒律はサンガという集団生活における生活規則だったということです。
最も有名な戒律のひとつに、托鉢と食事は午前中に限るというものがあります。
午前中に托鉢で何ももらえなかったとしても、午後から托鉢することは許されません。
その日一日食べないということになります。
また、正午を過ぎると食べてはいけません。
中国や日本の僧侶で、この戒律を遵守した人がいたでしょうか。
一人もいません。
これを見ても、戒律とは本質的なものではなく、本質的な戒律とは『梵行を修して、正しく苦を滅ぼしなさい』ということを心に保持すると言うことだと思います。