見性について

 高原 (126.66.155.7)    
ショーシャンクさん、こんばんわ。
見性について書かせていただきます。
見性(けんしょう)とは辞書で調べると「自己に本来備わっている本性を見極めること」とありますが、この説明は間違っていると思います。
もっと壮絶で尊厳なもと思います。
 
①(見性体験)とは神秘体験です。「得も言われぬ歓喜」と言われていますが、紹介されてるガーディナー大佐の場合、彼は様々な悪癖から逃れられず、特に淫欲淫楽に浸る生活をしていて「この罪悪に対する一切の欲望と性癖とは、あたかも乳幼児になったかのごとく、除かれてしまった。この誘惑は今日まで戻らずじまいである」と、この見性体験はわずか1時間の体験だった。彼は結婚する予定を辞めて僧になって伝導会を設立し、生涯、尊敬される宗教家として80歳の人生を終えている。
この体験の後、今まで読めなかった聖書もすらすら理解出来るようになった。
 
②(体験と期間)見性体験とは、その「得も言われぬ歓喜」が自分の内部に起こり始め、ずっと続きます。ガーディナー大佐のように1時間や2時間の短い場合もあれば、あるいは数週間、数か月、半年、一年にも及ぶ、個人差があります。
その間中、歓喜は起こり続け、特筆されるところは自分の心の中に冷たい火が燃え続け、その火によって自らが浄化されていくのが、はっきりと自覚出来ます。
見性体験をしている間、自分の心の中はあらゆる欲望、執着、妬み、怒りなどの感情が消えてゆき、本当に赤ん坊のように清廉になってゆきます。
見性体験を「爆発体験した」と言う人もいますが、玉城康四郎先生も何度も爆発体験をされて「終わってみれば元の木阿弥だった」とおっしゃっているので、爆発体験は見性体験とはまた違うのかも知れません。 ③(きっかけ条件)何が契機で始まるのかは、憶測で書いてはおられるが、確かな「これ」というものがないようです。
だからこそ神秘体験であり解明さてもいません。
半年も見性体験が続いていても、何らかの拍子に元に戻ってしまう時がきます。夢から覚めた感じです。そこから、わずかずつリバウンドが来ます。
しかし、完全に以前の欲望にまみれた自分には戻りません。そこで元に戻ってしまったら見性は失敗ということです。
見性への願望が見せた幻だったのか、勘違いか、あるいはダウンロードの途中で容量オーバーで強制終了されたのかも知れません。
 
④(結論)見性は「悟り」とは違います。
さる禅の老子が「一度は見性した方がいい。その後の修行の進み方が違う」とおっしゃったそうです。
見性とは途中だということです。
しかし、欲望や執着、その他の様々な悪しき性癖を著しく減らした人とは、実に軽々として清廉です。仏陀は「そのままでいい」などとは一度もおっしゃいませんでした。
「変わらなければならない」と「変わる」ということを何度も言われています。
以前、ぼくはそんなに人間は変われるものではないと「人格」をあまり信じてておらず、表面がいいだけではないかと思っていましたが、今はとても「人格」が大切だと思います。
人格とは人としての完成の形です。「変わる」ということは、まずその自分の「人格」が変わることだと思います。
心の中は、まず人としての優れた人格として現れるべきです。
そのためには、見性はとても有効であり、見性は科学的に研究されてはいますが解明はされてません。しかし、見性は確かに、あります。

 

 

高原さん、こんにちは。

意識が広がった体験や見性のようなもの、あるいは神秘体験とまで言っていいような体験など、持っている人はいるでしょうね。

その中には、自分で思い込んだだけというものもかなりの割合であるように思います。

体験は本人だけがするものなので、それが本物であるかどうかはなかなか外からではわかりにくいとは思います。

今回の高原さんのコメントの中で、最も興味深かったのは、『今まで読めなかった聖書をすらすら理解できるようになった』ということと、『軽々として清廉』のところです。

人格の大転換は、極めて強烈な体験、それまでの思考パターンが一気に壊れてしまうほどの衝撃がないとなかなか難しいと思いますが、いきなり聖典の深い意味がはっきりと理解できるようになったとか、人類最上の音楽が魂の底から理解できるようになった、ということが伴った場合は、それだけで本物の体験だと思います。

もし、それが起こらなかったら、それはニセモノです。

大いなる意識に触れたときには、聖典や音楽は手に取るように『わかる』からです。

人格が変わるには、それまで構築してきた思考パターンが一気に壊れる必要があり、パウロや臨済の人格の大転回並みの強い衝撃がいるでしょう。

これは、むしろ、仏陀の理法を繰り返し洞察することによって自我の成り立ちを理解していき思考パターンを変えていくほうが楽でしょう。

しかし、いずれにせよ、人格は変わっていくものだと思います。

有名な聖者でタバコを吸い、とても短気でよく怒る人がいたらしいですが、それはニセモノでしょうね。

インドでは、塩人形の喩えというのがあって、塩でできた人形を海の中に入れればだんだん溶けていって大海そのものになるように、本当に大海の中に浸っているのであれば、その人格は徐々に溶けていくものだと思いますから。

 

あと、『軽々として清廉』になるのも本物っぽいですね。

仏陀も『軽安』という言葉をよく使っています。

不善法を捨断していけば、身も心も軽くなって安定する⇒自然と真理に集中する(定)

と言っています。

 

悟っても何も変わらないという人がよくいますが、そういう人は、悟ったと自分で思い込んでいるだけでしょう。

何も変わらなければ悟る必要なんてないのですから。