中部経典の第57は、『犬行者経』です。
犬行者とはまた聞き慣れない言葉ですが、犬の動作そのままを行ない、地に落ちている食べ物を食べるという『犬の行』をする者のことらしいです。
いかにもインドならではです。
そんなことをして何の意味があるのかわかりませんが、とにかく、その犬行者と牛の動作をする牛行者の2人が、釈尊に、『この行をしていけば死後または来世の行方はどうでしょうか』と聞きます。
まずは、牛行者プンナが、犬行者セーニヤの運命を聞きます。
釈尊は2度答えを拒否して、プンナは3度聞き、そこで釈尊は答えます。
『この行によって、神のいずれかになるだろう』と考えるのは邪見であり、行く先は、地獄か畜生の胎か、です。
つぎに、犬行者セーニヤが、牛行者プンナの運命を聞きます。
釈尊は2度答えを拒否して、セーニヤは3度聞き、そこで釈尊は答えます。
『この行によって、神のいずれかになるだろう』と考えるのは邪見であり、行く先は、地獄か畜生の胎か、です。
これを聞き、犬行者セーニヤも牛行者プンナも涙を流します。
そこで、釈尊は、四の業について説きます。
1、黒の果のある黒の業があります
2、白の果のある白の業があります
3、黒白の果のある黒白の業があります
4、非黒非白の果のある非黒非白の業があり、業の滅尽に導きます
1の【黒の業】とは、害意のある身の行・語の行・意の行のこと。
【黒の果】とは、害意のある世界に生まれかわり、害意のある接触があり、害意のある苦しい感受を受けます。「行なう行為によって生まれかわる。生けるものたちは業の相続者である」
2の【白の業】とは、害意のない身の行・語の行・意の行のこと。
【白の果】とは、害意のない世界に生まれかわり、害意のない接触があり、害意のないもっぱら楽しい感受を受けます。「行なう行為によって生まれかわる。生けるものたちは業の相続者である」
3の【黒白の業】とは、害意があったありなかったり混合している身の行・語の行・意の行のこと。
【黒白の果】とは、害意があったありなかったり混合している世界に生まれかわり、害意があったありなかったり混合している接触があり、害意があったありなかったり混合している感受を受けます。「行なう行為によって生まれかわる。生けるものたちは業の相続者である」
4の【非黒非白の業】とは、黒の果のある黒の業を遮断するための意思(cetana道の思)、白の果のある白の業を遮断するための意思、黒白の果のある黒白の業を遮断するための意思のこと。
この経典でわかるのは、【白の業】とは、良きところに生まれかわる原因だが、釈尊の説いているところは、悪いところにも良いところにも生まれかわらない法だということです。
それは、業を捨断するための意思、つまり道の思だということです。