中部経典の第56は、『ウパーリ経』です。
これは大変興味深い経典です。最重要なことも説かれています。
興味深いのは、ジャイナ教の教祖マハーヴィーラ、つまりニガンタ・ナータプッタと釈尊との対決の話だからです。
最重要なのは、業の中で、心の想い、つまり意業が身体や口の業よりはるかに重要だという釈尊の真意が明らかになっているからです。
言い伝えによると、マハーヴィーラはこの釈尊との対決で口から血を吐き、そのあとほどなくして死んだとされます。
マハーヴィーラと釈尊が同時代人だったということは確かなようです。
マハーヴィーラは、身・口・意の行為のうち、身の行為が最も重要で、口や心の行為はそれに比べると取るに足りないと思っていたようです。
ゆえに、ジャイナ教は、苦行や裸行などの身体的な修行を重んじます。
釈尊は、身・口・意の行為のうち、意(心)の行為(想い)が最も重要で、身体や口の行為はそれに比べると取るに足りないと思っていました。
マハーヴィーラの信者であるウパーリが、これについて釈尊を論破しようと出かけます。
つまり、身の行為が最も重要で、口や心の行為はそれに比べると取るに足りないということを主張するためです。
釈尊は、そのようなウパーリにたいし、身・口・意の行為のうち、意(心)の行為(想い)が最も重要で、身体や口の行為はそれに比べると取るに足りないものであることを次のような例を次々と挙げて論破していきます。
『ニガンタ(ジャイナ教徒)が病気になり、苦しみ、重病人となり、冷水を拒み、湯を用い、かれは冷水を得ないまま死ぬとします。マハーヴィーラはこのものがどこに生まれかわると説いていますか?』
『マノーサッタ〈意に執着しているものたち〉という神々のところに生まれかわります。かれが意に束縛されているからです。』
解説すれば、ジャイナ教徒は、冷水を用いてはいけないという規則があり、冷水がほしいと考えながら死んだ場合、意に束縛された世界に行くと説かれていることの矛盾を突いています。
『もし、マハーヴィーラが、水に触れ進んだり引いたりしているうちに小さな生き物を殺すに至るとします。それはどういう果報となりますか?』
『意思のないものを大きく非難されるべきではありません。』
『意思をもってすればどうですか?』
『大きな非難されるべきものになります。』
『このナーランダーという町は栄え富み人々で賑わっています。ここで、ある人が、剣をかざして、『このナーランダーにいる生き物を一瞬のうちに肉塊にしてみせる』と言ったらどう思いますか?』
『それはできません』
『神通があり心が自在な沙門かバラモンが来て、『私はこのナーランダーを一つの意の怒りによって灰にして見せよう』と言ったらどうですか。』
『それはできます』
『ダンダキーの森、カーリンガーの森、マッジャの森、マータンガの森という森だけがなぜ森になっているのですか?』
『仙人たちの怒りによって、ダンダキーの森、カーリンガーの森、マッジャの森、マータンガの森という森だけが森になっています。』
はっきり言って、どれもこれも、例えとして、私たちには非常にわかりにくいものばかりです。
ただ、マハーヴィーラが説いていることをもってしても、冷水を飲まないということを守っていても、心で冷水にとらわれていたら、意に束縛された世界に生まれると説かれていて、身の行為より心の行為の方がその果報に影響しています。
害そうとする意思を持たずにうっかり殺生したときは非難は軽く、害そうとした意思をもって殺生したときの非難は重いとマハーヴィーラが説いていることも、矛盾です。
これらによって完全に論破されたウパーリは、釈尊の弟子となります。
ウパーリは資産家でしたので、それを聞いたマハーヴィーラは、ショックで口から血を出したということです。