山下さん、はじめまして。
それは、難問中の難問です。
それにつき、詳しく解説すると多分1冊の本にしても足りないと思っています。
それをテーマにしたわたしの別のブログがあります。
これでは全く言い足りないですし、なかなか納得できないくらい不完全ですが。
仏教で参考になるとしたら、唯識論でしょうね。
唯識は、瑜伽行唯識学派といって、ヨーガの瞑想を実践した人たちが、意識の深層を解明していったものです。
わたしが言う『因果の法』を徹底して掘り下げていくと唯識になります。
しかし、残念ながら、今の唯識はただの煩瑣でかびくさい用語が積もっているだけの学問になっています。
どこも活き活きとしていない。
他の仏教なるものと同じく、ぐったりと死んだものになっています。
もし本当に唯識を究めたならば、自らの環境は意識のままになるはずです。
それがいくら唯識の本を大量に読んでも、かび臭い知識が増えるだけの人が多いと感じます。
唯識が言っていることは本当はすごいことなのです。
しかし、それを日常生活に活用できる人は稀です。
まずは、不完全ではありますが、よければ
これを読んでみてください。
山下さん、こんばんは。
トピ違いの話題では決してありません。
仏陀の真意でも、唯識でも、突き詰めていけば、肉体も環境もすべて想いによって生じたものです。
五蘊が集まるのは、無明の想いからです。
私たちは誰でも、想いによって自らの環境を形成しつつあります。
ですから、不可抗力に思えることがあっても、偶然ではないのです。
私を含めすべての人は、激流に押し流され無量から離れていっています。
無量から離れた想いによって、無量から離れた、不完全で、不調和な環境を形作っています。
仏陀は天眼智によって、生きとし生けるものはすべて、その想いによって自らの行先(環境)を形成していることを悟りました。
天眼智を持たない私は、映画や歴史ドラマを見るようにしています。
どの人生も例外なく、心によって展開していくものだということが少しずつ分かってきます。
そして、善人悪人関係なく、すべての人は、肉体や感覚を持ったために欠乏感のほうへ押し流されています。
ゆえに、仏陀は、理法を念じることを怠るなと言ったのです。
中洲を作ってそこにいなければ激流に押し流されて、いつ『不可抗力』と見える出来事に遭遇するかもわかりません。