自費出版の原稿を書くための備忘録として、いろいろな原始仏典の大まかな内容を書き留めておこうと思います。
まずは、中部経典から。
中部経典は、全部で152経あります。
最初の50経を根本五十経といいます。
その最初、『根本法門経』から。
根本法門経の他と違う面白さは、結末が逆なのです。
『かれら比丘は、世尊が説かれたことに歓喜しなかった』とあります。
珍しい終わり方です。
ここで説かれたことを理解できなかったので歓喜しなかったようです。
法華経方便品の5千人退出はこれから来たのかもしれません。
ここで説かれた理法を誰も理解できなかったくらい、この経は難しいとも言えます。
中部経典の最初のこの経があるので面食らう人も多いでしょう。
しかし、この経典を最初にもってきた人は仏陀の法の根本がわかった人だと言えます。
善人の法に導かれることのない凡夫は、
地を地と思い、地を地と思って地を考え、地において考え、地から考え、〈わたしの地である〉と考え、地を歓びます。それはなぜか。かれには知悉されていないからである。
以下、『地』のワードが、水、火、風のワードで語られます。
そして、
生けるものを生けるものと思い、生けるものを生けるものと思って生けるものにおいて考え、生けるものにおいて考え、生けるものから考え、〈わたしの生けるものである〉と考え、生けるものを歓びます。それはなぜか。かれには知悉されていないからである。
生けるものの主を生けるものの主と思い、生けるものの主を生けるものの主と思って生けるものの主において考え、生けるものの主において考え、生けるものの主から考え、〈わたしの生けるものの主である〉と考え、生けるものの主を歓びます。それはなぜか。かれには知悉されていないからである。
梵天を梵天と思い、梵天を梵天と思って梵天を考え、梵天において考え、梵天から考え、〈わたしの梵天である〉と考え、梵天を歓びます。それはなぜか。かれには知悉されていないからである。
このような言葉が繰り返し語られます。
『生けるものの主』や『梵天』というワードのところが、天、諸天、征服者、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処、見られたもの、聞かれたもの、知覚されたもの、知られたもの、単一、多様、全体、涅槃、というワードで同じように語られます。
対して、阿羅漢は、
地を地とよく知り、地を地とよく知って地を考えず、地において考えず、地から考えず、〈わたしの地である〉と考えず、地を歓びません。それはなぜか。かれには知悉されているからである。
と説きます。
また、
地を地とよく知り、地を地とよく知って地を考えず、地において考えず、地から考えず、〈わたしの地である〉と考えず、地を歓びません。それはなぜか。貪・瞋・痴の滅尽により貪・瞋・痴から離れているからである。
と説きます。
また、如来も
それはなぜか。かれには知悉されているからである。
と説きます。
そして
それはなぜか。〈歓びは苦の根本である〉〈生存より生まれがある〉〈生けるものには老死がある〉とこのように知ったからです。
と説きます。
さて、この、何を言おうとしているか非常にわかりづらい経典をどう解釈すればいいのでしょうか。
それは、様々な事象のすべてにおいて、『わたし、わたしのもの、わたしの本体』と考えないこと、これを説いているのだと思います。
どういうものも、わたしの原因だったり、『わたし』として自己同化するべきものではないということでしょう。
また、ここではっきりと言っているのは、『生けるものの主』というような創造神や主宰神を立ててはいけないと言うことです。
『わたしの神』『わたしの仏』を立てるのを否定しています。
私が、浄土教は歴史上の仏陀由来ではない考えだという典拠はこういうところにあります。