三明が導いたもの

菩提王子経の三明の箇所を簡単に訳していたサイトがありましたので転記します。

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「確かに、私は、比類のない苦行を修めた。
食を止めて、私の体は骨と皮ばかりになった。
呼吸を止めて、私の頭は砕け散りそうになった。」

「しかし、そうして、悪業を落とした結果、
私は、苦しみは、目的でないことが分かった。
つまり、苦しみは、手段であることに気づいた。」

「当時、私には、五人の修行仲間が居たが、
右道を離れて、中道に入った、わたしを見て、
私が落ちてしまったと、彼らは離れてしまった。」

 

「王子よ、果たして、わたしは落ちたのか。
楽に落ちたのではない、苦を越えたのである。
それからは、苦を越える、中道を修めて行った。」

「王子よ、中央の道とは、出離の道であり、
一切の苦を、諦らめていく、四つの禅がある。
それでは、この四つの禅とは、如何なるものか。」

「第一の禅とは、思いが有り、考えが有り、
欲を捨てて生じる、歓喜を体験する禅である。
その時、全身は、無欲の歓喜で満たされている。」

「第二の禅とは、思いが無く、考えが無く、
想を捨てて生じる、歓喜を体験する禅である。
その時、全身は、無想の喜楽で満たされている。」

「第三の禅とは、正念が有り、正知が有る
喜を捨てて生じる、大楽を体験する禅である。
その時、全身は、無喜の大楽で満たされている。」

「第四の禅とは、大楽が無く、清浄が有る、
楽を捨てて生じる、空性を体験する禅である。
その時、全身は、無楽の空性で満たされている。」

「王子よ、中央の道とは、修習の道であり、
一切の苦を、明らめていく、三つの明がある。
それでは、この三つの明とは、如何なるものか。」

「第一の明とは、過去の智、宿命通である。
一、十、百、千の、過去世を思い出すことで、
如何なる業が、如何なる命を宿すか、証知する。」

「第二の明とは、未来の智、天眼通である。
一、十、百、千の、未来世を透し見ることで、
如何なる業が、如何なる生を課すか、証知する。」

「第三の明とは、現在の智、漏尽通である。
一、十、百、千の、漏煩悩を見て取ることで、
如何なる業が、如何なる漏を生むか、証知する。」

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この、大まかな訳からでもはっきりするのは、宿命智・天眼智・漏尽智の三明とも、業=kamma が因となってどのような果を生むか、という因果の法を導いた智慧だということです。

 

そして、四禅を、『一切の苦を明らめていく四つの禅』、

三明を、『一切の苦を明らめていく三つの明』、

としています。

 

四禅、三明によって、四諦十二縁起の法が導かれたということでしょう。