六十華厳の唯心偈(唯心偈と言えば六十華厳の偈を指します)では
心は諸々の如来を造る
とあります。
しかし、前半で
心は工みなる画師の如く 種種の五陰を画き
一切世界の中に 法として造らざる無し
心の如く仏もまた爾り 仏の如く衆生も然り
心と仏と及び衆生との 是の三に差別無し
とあります。
つまり、心が一切世界の中に五陰を絵の具として現象を造り出している、心によって造られないものは無い、と言っています。
心の如く仏もまた爾り ですから
仏もそうである、と言っています。
仏の如く衆生も然り ですから
心が造り出すことは衆生も仏と変わらない、と言っています。
心と仏と及び衆生との 是の三に差別無し
ですから
心も仏も衆生も、この3つは、創造の主体ということでは差別はないと言っています。
ただ、仏と衆生の何が違うかというと
諸仏は悉く了知す 一切は心從り転ずと ということです。
つまり、仏は、一切が心より現出していることを了知していて
衆生は、一切が心より現出していることを了知していない、
これが違うのです。
ところが六十華厳の最後では
心は諸々の如来を造る
とあります。
如来というのは仏ということです。
前半では、心も仏も同じく、すべての現象を造り出すのだ、創造の主体なのだ、と言っていながら、ここで、仏は心が造り出した現象になっています。
この矛盾がどうしてもわからなかったので、八十華厳を調べたのですが、
一切唯だ心の造なり
でした。
これなら前半と何の矛盾もありません。
それでは、六十華厳ではなぜ心は諸々の如来を造ると漢訳したのか、サンスクリット語の原典ではどうなっているのか知りたいところです。