パーリ涅槃経(大パリニッバーナ経)に八つの解脱について仏陀が説いたところがあります。
内心において物質的なものという想いをいだいている者が外において物質的なものを見る。これが第一の解脱である。
内心において物質的ならざるものという想いをいだく者が外において物質的なものを見る。これが第二の解脱である。
すべてのものを浄らかであると認めていること。これが第三の解脱である。
物質的なものという想いを全く超越して、抵抗感を消滅し、別のものという想いを起こさないことによって、すべては無辺なる虚空であると観じて、空無辺処に達して住する。これが第四の解脱である。
空無辺処を全く超越して、すべては無辺なる識であると観じて、識無辺処に達して住する。これが第五の解脱である。
識無辺処を全く超越して、何ものも存在しないと観じて、無所有処に達して住する。これが第六の解脱である。
無所有処を全く超越して、想いがあるのでもなく、想いがないのでもない境地に達して住する。これが第七の解脱である。(非想非非想処)
非想非非想処を全く超越して、表象も感受も消滅する境地に達して住する。これが第八の解脱である。(想受滅)
アーナンダよ、これが八つの解脱である。
そして、中村元は、この箇所の註として次のように書いています。
これら八つのうちで、第一と第二とは実在論的であり、第三以下は観念論的とは言えないかもしれないが、心の中に何ごとかを思い浮かべる念想作用が積極的に効果をもつものであると考えていたわけである。
上座部仏教は、satiを『気づき』と訳して、気づきの瞑想が主流となっていき
大乗仏教は思考停止の瞑想=定 が主流となっていますが、
仏陀は、念=sati を憶念、記憶、念想の意味で使っていたと私は思っています。
念(sati)を『理法の観念を記憶し保持し繰り返し念じること』と考えると、七覚支をはじめ三十七菩提分法がすべてつながるからです。
上の中村元の註にあるように、仏陀は想いを浮かべる瞑想を重視していたと考えています。