またまたある人がマニカナで変なことを書いているので、コメントしておきます。
三明は、仏陀の神格化によってでっちあげられたものではありません。
歴史上の仏陀が自分の修行した経緯と悟りへ至った道筋を語った中で出てくる核心たる智慧のことです。
三明は、仏陀の成道のときに、四禅を修した後に生じた智慧であり
これにより悟りを開いたとされる極めて重要なものです。
中部経典 マハーサッチャカ経にあります。
宿住智
天眼智
漏尽智
の3つです。
実は、この3つの智は、程度の差はあれ、誰にでもあるものだと言えます。
それが四禅の修得によって曇りがなくなり意識が広がっていくと強くなっていくものなのでしょう。
宿住智は、過去の自分を見る智慧です。
少しでも瞑想をしたことがある人なら経験があると思いますが、過去の全く忘れている小さな出来事を思い起こすことがあります。瞑想が進むとそれは普段より多くなるでしょう。四禅により曇りがなくなればありありと過去を見通すことになるでしょう。
これは十二縁起の理法にもつながってくる智慧です。
天眼智とは、天に眼があるように世界のものごとを俯瞰して見る智慧です。
これによりすべてのものごとの流れがはっきりとわかります。
先見の明があると言われる人は、この智慧が大きいのです。
これも四禅を修して意識が広がっていくと鳥のようにどんどん俯瞰してみることができるのだと思います。
あらゆるものごとの原因と結果を見通したのです。
つまり、想いが因であり、現象が果であるということ。
因果の理法です。
身口意の行い=業=想い・想いに基づく言葉、想いに基づく身体的行為
つまり思いが原因で、結果が生じるという理法です。
善なる想いは善なる結果を生じ、悪なる想いは悪なる結果を生じるということです。
天眼智により、世界のすべて、そしてすべての衆生は、この原因と結果の中で生まれ死にしていることが明らかとなったのです。
漏尽智は、四諦を如実に知ることによって、漏(煩悩)を消滅することができる智慧です。
苦という真実、苦の起きた原因、苦の滅と滅に至る道、これをありありと観ずることで漏(煩悩)を消滅させたのです。
もちろん、宿住智、天眼智、漏尽智にはレベルがあります。人間であれば誰でも持っておりほんの少しは顕れているのでしょうけどそのほとんどは煩悩に覆われています。覆われているので明るくなく暗いものです。
仏陀成道の時にはその覆いは全くなくなっていますから、明るさはMAXです。無明が明となるのです。
宿住明、天眼明、漏尽明となっています。
三明が、仏陀の悟りを考えるうえで、極めて重要であるのはこういうことからです。