非我の理法と

タキタロウ (58.183.206.23)  

ショーシャンク様。初めまして。
興味あることを書かれているので、 飛び飛びながら読ませていただいてます。
七科三十七道品を取り上げているのは良いことだと思います。
ただ、「仏陀はなぜストゥーパを作らせたのか」が謎、というのに は少し驚きました。釈尊の生前の行動と弟子たちへの説法を見れば、 アーナンダに言われたことに不思議はないと思うのですが。 ≪ストゥーパと福田について≫ 釈尊は、”世の人みんなを苦しみから救い、幸福にする”という大 誓願を持たれ、仏陀になられた後、インド中を布教伝道されました。 最後の旅の途中で、弟子たちに対して以下のように説かれているの はご存じかと思います。 「わたしは法を知って説示したが、お前たちは、それをよく保って、  実践し、実習し、盛んにしなさい。それは、清浄な行いが長くつ  づき、久しく存続するように、ということを目指すのであって、  そのことが、多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のた  めに、世間の人々を憐れむために、神々と人々との利益・幸福に  なるためである」 言うまでもなく、釈尊ご自身がこの言葉を実践されておられました。
釈尊は旅の途中で逝去され、もう輪廻から解脱しておられるため、 涅槃に赴かれました。しかし、涅槃から”仏舎利”を通じて仏陀の 力を発揮するため、仏舎利を納めたストゥーパをつくりなさいと指 示されたわけです。
それにより、現在に至るまで、多くの人や社会全体をも救おうとさ れているわけです。 それは、『ダンマパタ・法句経』<『ブッダの真理のことば・感興 のことば』中村元訳:岩波文庫>の次の句に記されていることに基 づいています。
もちろん同様の句は他にもあり、スッタニパータに もあります。
195、196 すでに虚妄な論議をのりこえ、憂いと苦しみをわたり、何ものをも恐れず、安らぎに帰した、拝むにふさわしいそのような人々、もろもろのブッダまたその弟子たちを供養するならば、この功徳はいかなる人でもそれを計ることができない。
 
この”供養”とは、単に布施して礼拝するだけでなく、仏陀の説い た法を学び、実践し、実習し、盛んにする(布教伝道してみんなに も行わせる)ことでしょう。
もちろん最初は、手を合わせ何らかの 布施をすることから始まりますが。
仏陀、およびその弟子たち(すなわちサンガ)は、経典で”福田” と呼ばれています。
その福田へ供養すれば、計り知れない功徳を得 られるわけです。
釈尊は、その福田を”仏舎利”と”ストゥーパ (仏舎利塔)”という明確な形で残されました。
仏舎利への供養は大きな功徳を得られるため、後世盛んになり、 大乗仏教(法華経、最初の阿弥陀経、密教など)の方へも引き継が れて現在に至ってます。
日本の初期の寺は、塔(仏舎利塔)が中心 でしたし、密教には、”本物の仏舎利を本尊として、宝石や貴石を 仏舎利の御分霊とする法”が伝えられています。
ほとんどの仏舎利 塔には、この”仏舎利の御分霊”が納められていますが、功徳は変 わりません。
仏舎利は、仏陀釈尊のご本体とみなされているわけです。
最も現在の日本では、これらのことはかなり忘れられているようで すが。
仏教の究極の救いは、仏陀になり涅槃に赴くこと、すなわち、この 娑婆世界に生まれてきて老病死に苦しみ、死後に自分の為した業で 苦しみ、また生まれてきて苦しむという輪廻からの脱出です。
しかしまず最初は、この世界で”長いあいだ利益と幸せ”を得るこ と、禅宗でいう”日々是好日”を実現することでしょう。
それは、仏教の修行の一環と言えます。
苦しみに遭うのは、それだけの悪因悪業(いわゆる不徳)を持って いるわけで、仏陀(仏舎利塔)やそのサンガに供養して善因善業 (いわゆる徳)を生み出し、それで不徳を消して”日々是好日”を 実現するわけです。
しかし、個人だけではそれを実現するのが難しいのは、現在のコロ ナウイルス問題を見れば分かるでしょう。
才能ある人が才能を発揮 する場を奪われだけでなく、時には最悪の結果まで起こっている。
やはり多くの人に徳を積んでもらって、いわゆる社会的な不徳をも 消していかなければ問題は解決しないのではないかと感じます。
ところで、仏陀の力とは、供養に応じて功徳を生むことと、この徳 と不徳を結びつけ、まず不徳を消すことだと思います。
徳、不徳は、そのままでは、業と因縁次第でそれぞれ無関係に現れ ます。
例えば、大金が手に入ったのはいいけれど、命にかかわる病 気とかケガにも遭う。
金などいらないから元気な体に戻してほしい、 と思うのが普通でしょう。
そこでまず徳により、大難を小難に、小難を無難にする。
不徳が無 くなれば、あとは徳によって”長いあいだ利益と幸せ”を得られま す。
それでこそ、生活も仕事も仏教の修行も順調にいくわけです。
飛び飛び読みで申し訳ないのですが、本ブログで気になっているの は、「上求菩提・下化衆生」の下化衆生に関する考察が少し足りな いのではないか、ということです。
そのため、「仏陀はなぜストゥ ーパを作らせたのか」が謎、という話が出てくるのではないかと 思います。
昔、部派仏教が僧院にこもり、煩瑣な議論や他との論戦、自分だけ の修行にあけくれ、人を救うことをおろそかにしたため、反発で大乗仏教運動が起こりました。
”人を救え”というその志は良かった のですが、今度は七科三十七道品を大乗仏教はおろそかにしてしま いました。
どちらもバランスを欠いたものになり、残念な結果にな りました。
下化衆生と言っても、要は「情けは人の為ならず」(人を助ければ 巡り巡って結局自分が救われることになる)、すなわち、人を助け て徳を積むことを自分で自覚し実践し、さらに人にも勧めるという ことです。その徳によって上求菩提が進んで行く、ということだと 思っています。
 
 
≪七科三十七道品への個人的見解≫ 七科三十七道品の概要について、個人的見解を述べてみます。
 
まず七科三十七道品は、すべて行うものでなく二科ぐらい行うもの です。七科とは、人の機根に応じて選べるよう便宜上分けられたも のでしょう。だから各科の間で重複した修行法があるわけです。 人によっては、科によらず修行法を選択して行うこともあったと思 います。
そして七科三十七道品は、結局、以下の「ダンマパタ」”七仏通誡 偈”で表わされているのではないでしょうか。
 
183 すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄   めること、──これが諸の仏の教えである。
 
前半2つは”四正断法”であり、不徳を積まず徳を積む(徳行を進 める)ことです。四正断法は各科の”精進”にあたります。
また、精進の前提として”信(根、力)””択法””正見”なども 含みます。つまり、下化衆生ですね。
「自己の心を浄めること」は、初心の瞑想や呼吸法などから究極の 解脱瞑想まで、”念””定””慧””神足”など上求菩提の法です。
「上求菩提・下化衆生」は、セットで行う修行なのです。
これらは、他でも示されています。 「阿含経」に頻繁に出てくる文言、 『我が生すでに尽き、梵行すでに立ち、所作すでに作し、自ら後有 を受けずと知る』。
”梵行”は徳行で下化衆生の法、”所作”は上求菩提の法です。 仏陀や高弟達は、これらを成し遂げて輪廻転生から解脱していると 云うわけです。
 
「ダンマパタ」では、
57 徳行を完成し、つとめはげんで生活し、正しい知慧によって解   脱した人々には、悪魔も近づくよし無し。 ”徳行=梵行”を完成、”正しい知慧”によって解脱、というセッ トで述べられています。
 
「舎利礼文」<仏陀の遺骨、仏舎利を納めた卒塔婆(ストゥーパ) を礼拝するときにとなえるお経>の最初では、
一心頂礼(一心に頂礼す) 
万徳円満(万徳を円満せし) 釈迦如来(釈迦如来と)  
真身舎利(その真身の舎利と) 本地法身(本地の法身と) 法界塔婆(法界の塔婆とを) 我等礼敬(我、等しく礼敬す) 釈尊は、万徳を円満して(徳行を完成して)おられ、また真身舎利 は、仏陀釈尊と等しく礼敬すべきものだとされています。
 
実際には、釈尊は涅槃におられるわけですから、真身舎利が現世の 仏陀釈尊とみなされているわけです。 ”徳行=梵行”は、特に在家の修行に重要になります。徳を積み、 仏陀の力で不徳を消していただいて自分を清め、さらに、自分を高 める修行を行い、まずシュダオンの聖者を目指すわけです。
 
仏陀になるまでに、シュダオン「預流」、シダゴン「一来」、アナ ゴン「不還」、アラカン「仏陀」の四つの段階がありますが、シュ ダオンの聖者になれば、後は仏陀を目指して上昇するだけです。 シュダオンは、まだ人天を最高で七回往復するとはいえ、もう三悪 趣には落ちません。普通の人の輪廻転生とは全く違うわけです。
 
ダンマパタでは、以下のように称えられています。
178 大地の唯一の支配者となるよりも、天に至るよりも、全世界   の主権者となるよりも、聖者の第一階梯(預流果)のほうが   すぐれている。
 
「ブッダ最後の旅」のナーディカ村で、釈尊は、亡くなった在家で アナゴンになった者がいることを話されています。
徳積みと、仏陀の力と、上求菩提の修行により、在家の者もまず聖 者になり、最終的に仏陀になる道が開かれているわけです。 これは素晴らしいことではないですか!
 
≪五根法や三明などについて≫ ところで、ブログでの五根法ですが、認識にいささか間違いがある ようです。
 
『雑阿含経・当知経』によると、
・信根  :三宝(仏法僧)と戒に対する四不壊信
・精進根 :四正断
・念根  :四念処
・定根  :四禅(初禅~四禅)
・慧根  :四聖諦 となります。
 
定根は、四神足法ではなく四禅です。
なお、当知経 では、慧根:四聖諦としていますが、中村元先生の本を見るとちょ っと違う気がします。四聖諦の部分は後世の付加だろう、と記して あります。
 
釈尊が仏陀になられた状況をたどってみると、定を次第に深め、初 禅~四禅までを成就し、次に、この確立し不動となった心を、 ・過去の生涯を想いおこす智(宿明智)、 ・もろもろの生存者の死生を知ること(天眼智)、 ・もろもろの汚れを滅す智(漏尽智) に向けられました。そして、これらの三明と呼ばれる智慧(神通力) 、特に仏教だけが得られる漏尽智を得て、輪廻転生から解脱された わけです。
 
以下は、漏尽智を得たときの記述です。”苦である”という後に、 四聖諦の説明がされているようです。中村元先生はそれを省いてお られます。
 
「そこでこの[一切は]苦であると如実に知った。われがこのよう  に知り、このように見たときに、心は欲の汚れから解脱し、  心は生存の汚れから解脱し、心は無明の汚れから解脱した。  解脱しおわったときに、”解脱した”という智がおこった。  ”生はつきはてた。清浄行が完成した。なすべきことはすでに  なされた。もはやかかる生存の状態に達することはない(注:  もはや生まれ変わらないという意味)”と知りおわった」
 
この初禅~四禅から三明獲得までは、ダンマパタに出てくる”止” と”観”の修行のことだと思います。
 
384 バラモンが二つのことがら(=止と観)について彼岸に達した (=完全になった)ならば、かれはよく知る人であるので、かれの束縛はすべて消え失せるであろう。
 
三明は、阿含経にも、また阿羅漢となった弟子たちの詩『テーラガ ータ』『テーリーガータ』にも出てきます。これを獲得することが、 最終的な仏教の目標でしょう。
 
そして、仏陀とはどんなお方なのかは、「ダンマパタ」の423 (または「スッタニパータ」647)に記されています。
 
423 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を完成した聖者、完成すべきことをすべて完成した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
 
なお、四聖諦は、輪廻転生の苦からの脱出方法を示したものと考え ます。それは、頭で考えたものではなく、三明によって明らかに なった輪廻転生の実相から導き出されたものと思います。 また四神足法は、機根の優れた人のための、かなり高度な修行法 でしょう。なぜなら、この四神足法を修練することによって、三明 だけでなく神足通・他心通・天耳通を加えた「三明六通」を獲得 できるからです。 以上、いろいろ述べてきましたが、参考になれば幸いです。
ところで、薄いピンクの文章はとても読みにくく読む気になれま せん。色を変えた方が良いのではないでしょうか。

 

 

 

タキタロウさん、はじめまして。

大乗仏教のフィールドで育ち大乗仏教の見方で見れば、歴史上の仏陀(ゴータマ・シッダッタ)が自分の遺骨を納めた塔を建てて礼拝せよ、という考えには疑問が涌くことはありません。

私も、ずっと大乗仏教の視点しか知らなかったのですから、何の疑問もありませんでした。

神格化された釈尊の遺骨に神秘的な力が宿っていることは当たり前でもあり、それを礼拝するのは当然でした。

ただ、いったん、すべての仏教知識を白紙にして、歴史上の仏陀の真意を探ろうと決意してから、その視点で見ると、かなり不思議な気がします。

仏陀は、成道、初転法輪のときから、死の直前まで、一貫して説いたものは『無常である(生じるものは必ず滅する)ものは苦である、苦であるものを私、私のもの、私の本体と呼んでいいであろうか。』ということで、無常・苦・非我でした。

四念処では、死体の朽ちていく様や白骨観でこの肉体は自分ではないということを徹底的に観じていきます。

 

仏陀は自分の見舞いに来た弟子に、『このように朽ち果てていく私の肉体を見たところで何にもならない。私が説いた法こそが私である。法を見る者は私を見ると言ったではないか。』と言う意味のことをいいます。

つまり、明確に、自分のこの朽ち果てていく肉体は私(仏陀)ではない、私の説いた法(理法)が私なのだ、と断言しているのです。

これは、仏陀がその長い生涯を通じて繰り返し説いた理法でした。

肉体は仏陀ではなく、説いた理法こそが仏陀なのです。

そういう視点から見ると、仏陀の肉体の一部(骨)を特別視することをなぜ最後に言い残したのか、これは私のこれから解決すべき課題です。

生きている時の仏陀の肉体でさえ、『見舞いに来る必要はない。この肉体は私ではない。私の説いた理法こそが私なのだ。』と言っていたのです。

ここが不思議なのです。

少なくとも、この言葉から、後世に大乗仏教が生まれたのだろうということは推測できます。神格化が急速に進みましたし、仏塔が各地に建てられていきました。

 

ちなみに、『供養』と言う言葉は、今の日本ではほとんど先祖供養などのように亡くなった人への祈りの意味で使われますが、仏陀の時代、供養とは、食べ物を差し上げたり、自分の家に呼んでお客に料理をもてなすことを指しました。

いま、お墓参りのときは、線香とお花と水が三点セットですが、これはもともと、インドで家にお客様をもてなすときに使われたものばかりです。白檀の香を水で溶いてお客さんの身体に塗ってあげるとひんやりして気持ちいいらしいです。それに花輪を首からかけてあげ、お水(インドでは飲める水が貴重のようです)を飲んでいただく、という風習から来たもののようです。

 

生きている出家者に食べ物を差し上げるのが供養であり、出家者は、解脱し仏になってはじめて応供(供養に相応しい者)となれるので仏を目指して修行するのです。

 

ただ、仏舎利塔がさかんに作られはじめて、供養は死者への供養というものに意味が変わっていったように思います。

 

 

次に、上求菩提・下化衆生 のことですが、大乗仏教とくに日本の仏教では、お釈迦様はすべての衆生を救うために悟ろうとして出家した、と言うようなことが言われていますが、そうではないと思います。

スッタニパータの中でも最古層の文に、『殺そうと争う人を見て、私に恐怖が起こった。世界はどこも堅実ではない。私は自分のよるべき住所を求めた。すべてのものは終極においては違逆に会うのを見て私は不快になった。』とあります。

仏陀は自らの恐怖、不快のために、自己の安らぎを求めて出家したのです。

仏陀でさえそうです。

すべての人間は、『正見解』を持っていないのです。顛倒夢想しているのです。

中心を持っているのです。

その中心がある限り、無量であることはありません。

人間が180度転回して、正見=正見解=智慧が生じるまでは、慈悲は生まれず、下化衆生と言っても、中心性を離れないボランティアのようになります。

よく、自分が救われる前にすべての人を救おう、などということを大乗仏教だという人がいますが、自分が救われなくて、自分が無量でなくて、自分がのたうちまわって、人を導けるわけはありません。

頭の混乱している人に道案内をたのむと、目的地とは真逆の場所に連れて行かれるだけです。

徹底した洞察をし、慚愧懺悔をして、180度の転回をし、正見=智慧が生じて初めて、八正道が歩めて、慈悲が生じるのです。

宗教界やスピリチュアル業界でよくある『人を救いたい』という人たちの怪しさを見ると世の実態がわかると思います。

まずは自己の確立です。180度の転回です。

 

 

次に、三十七菩提分法ですが、パーリ涅槃経に『過去、現在、未来の仏たちはみな、四念処と七覚支を修行して悟った。』とあります。

七覚支の念は四念処です。

ですから、私は、三十七菩提分法の核心は七覚支だと思っています。

 

 

ここで、わからなかったことをお聞きしますが

精進の前提として”信(根、力)””択法””正見”なども 含みます。つまり、下化衆生ですね。 「自己の心を浄めること」は、初心の瞑想や呼吸法などから究極の 解脱瞑想まで、”念””定””慧””神足”など上求菩提の法です。 「上求菩提・下化衆生」は、セットで行う修行なのです。

と書かれていますね。

信根、信力、択法、正見が、なぜ『下化衆生』なのでしょうか。

信が三宝への信であることはその通りだと思います。

しかし、信や択法や正見が、どうして『下化衆生』なのかがわかりません。

 

三十七菩提分法はすべて悟りに至るための法であると思いますし、強いて上求菩提か下化衆生に分けなければならないとすれば上求菩提だと思います。

そもそも、仏陀の法を上求菩提か下化衆生に分けるような記述が原始仏典にあるのでしょうか。

何か、大乗仏教の考え方で原始仏典を解釈しているような気がしますが。

 

三十七菩提分法は修行科目ですから、それを行じて智慧が初めて生じます。

智慧が生じるまでは、顛倒夢想しているのですから、下化衆生の心など持てません。

仏陀でさえ、成道した後、梵天に説得されて初めて法輪を転じようと決意したのですから。それまでは、ひたすら自らの安らぎを追い求めていたのです。

 

もし、原始仏教で、下化衆生があるとすれば、それは仏陀の理法を伝えることだけではないかと思います。

信根、信力、択法、正見はあくまで、その修行者の修行過程だと思いますが。

 

五根の定根は、私は四神足と書きましたが、本当は、初禅から四禅なのですかね。

ご指摘ありがとうございました。

定に関しては、止・観との関係や、色界定、無色界定との関係など、これからいろいろ調べていきたいと思っています。また、教えてください。