根源によるのではない、正しからざる思索を捨てよ。
戒律を捨てて退くことなく、師(仏陀)と理法と集い(サンガ)とに関して、根源からしっかりと憶いつづけよ。
そうすれば、そなたは、喜びに達し、喜びを楽しみ、歓喜に富む者となり、苦しみを終滅するであろうことは疑いない。
(林に関する集成)
仏法僧に関し、根源からしっかりと憶いつづけよ、とあります。
仏陀の教えの根本は、理法を心に保持し繰り返し念じ続けるということです。
最初期の仏教では、sati=念 は気づきのことではなく、記憶のことです。
記憶、つまりしっかりと心に保持すること、です。
そして、仏教は喜びを否定しない。
四無量心も慈悲喜捨で、喜がありますし、七覚支にも、喜が出てきます。
心に気をつけている人は、常に幸せである。気をつけている人は楽しく栄える。
気をつけている人にとっては明日はさらに優れている。
しかし、怨みからは解脱してない。
昼も夜もすっかり心に不傷害を楽しんでいる人は、生きとし生けるものを慈しむ。
かれは何ものをも怨むことがない。
(ヤッカについての集成)
この文は非常に重要だと思います。
心に気をつけているだけでは、怨みから解脱していない、というのです。
それは、心=想念に気づいているだけでは、我塊=記憶の束 がdeleteされないでそのまま残っているからです。
記憶の束、感情の束をdeleteしていって、智慧を生じ慈無量心に達したときに、怨みから解脱できるのでしょう。
森の中、樹木の根元、空屋の中にいようとも、修行者は、『全きさとりを開いた人』を憶念せよ。
そなたに恐怖は起こらないであろう。
もしも、世の中で最も偉い人、牡牛のような人であるブッダを念ずることが出来なければ、法を念ぜよ。
それは善く説かれ、目的に導くものである。
もしも善く説かれ、目的に導く法を念ずることが出来なければ、集いを念ぜよ。
それは、無上の福田である。
このように、ブッダと法と集いとを念ずるならば、修行者たちよ、恐怖も戦慄も身の毛のよだつことも起こらないであろう。
(サッカに関する集成)
この、仏陀が言っている言葉を見ても、やはり最古層の仏典では、sati=念というのは、憶念のことです。
記憶して保持し繰り返し思うことを指しています。