人が身体で為し、また言葉や心で為すところのもの(業)、それこそ、かれ自身のものである。
人はそれを取って受けて、行くのである。
それは、かれに従うものである。影が人に従っていくように。
それゆえに、善いことをして、来世のために功徳を積め。
功徳は、あの世で人々のよりどころとなる。
(第3篇 コーサラ)
ここでも、kamma=身口意の行為 が 影のように従っていく、と言っています。
われらは、何も持っていないが、さあ、おおいに楽しく生きていこう。
光り輝く神々のように、喜びを食むものとなるだろう。
(第4篇 悪魔についての集成)
これは、今の仏教のイメージ、仏陀のイメージとは真逆な言説です。
仏教は決して、ぐったりと死んだ世界、寂しく静かな世界、神々もない喜びもない世界を目指すものではなかったということです。
次に、ゴーディカという弟子の最期が語られます。この記述は相当微妙なものですが、最初期の仏教を語るには欠かせない文だと思います。
仏陀の弟子ゴーディカは、解脱に達したが退いてしまった。
6回解脱に達したがその都度退いてしまった。
7回目に解脱に達したときに、自ら刀を手にした。
つまり、解脱から退転しないために自ら命を絶ったということです。
そのとき仏陀は離れた王舎城に滞在していましたが、その様子を神通力で見てこう言います。
思慮ある人々は、実にこのようにするのである。
生命を期待していない。
妄執を、根こそぎにえぐり出して、ゴーディカは安らぎに帰したのである。
これはかなり微妙な問題を提起しますので、ここでは文を挙げることにとどめます。
第6篇 梵天に関する集成 には有名な梵天勧請が出てきます。
ここでは、法を説くことを決意した仏陀が梵天に言った言葉を挙げます。
耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。
信仰を捨てよ。
梵天よ。人々を害するであろうかと思って、
わたしはいみじくも絶妙なる真理を人々に説かなかったのだ。
注では、極めて古いサンスクリット仏典「マハーヴァストゥ」では「信仰を捨てよ」となっている。ところが、それ以後の典籍では「信仰あるものは喜べ」と改められている。つまり、後世に仏教教団の威信が確立すると、信仰を強調することが必要となったのであろう。・・・とあります。
仏教なるものが確立する前と後では、正反対なのです。