マインドフルネスに否定的な理由

 
高原 (126.42.33.248)    
ショーシャンクさん、こんにちは。 たまたま学者さんがマインドフルネスについて話しておられて、satyaさんもマインドフルと書いておられたので、ぼくはマインドフルネスについて関心も、是とも否とも立場はありませんでしたが、ちょっと調べてみてました。 マインドフルネスは出た当初こそ、スピリチュアルな怪しい思想と警戒されていたようですが、今では意識高い人の思想とすっかり市民権を得ているそうです。 しかし、「マインドフルネス批判」と検索すれば、かなりの件数がヒットし、ひとつにはマインドフルネスがアメリカで20億ドル(日本円で2000億円)以上の市場規模を持つ巨大ビジネスになっており、心理学者もマインドフルネスにはストレスを減らす程度しか効果がないと否定的な声を上げています。 赤い実さんの「気づき」(sati)は「念」から来ていますが、satiもマインドフルネスなのかどうかは分かりませんが、岩井昌悟氏という仏教学者は「マインドフルネスは仏教の止観業からきています。止観業は『止』と『観』の両方が一対になっています。しかし、マインドフルネスはほとんど『観』の方ばかりに重きを置かれ、『止』の方はやるとしてもほんの入り口、形だけです。むしろ、ちゃんと『止』を達成した人だけが『観』に進めるんです。両立しなければいけない。マインドフルネスは『観』しかやらない、それはまったくの無意味なことです」とマインドフルネスは意味のない、インチキだと言っています。ショーシャンクさんはマインドフルネスはどうお考えですか?

 

 

高原さん、こんばんは。

マインドフルネスは世界中大流行ですね。

前にも書きましたが、私は satiを気づきと訳すことには否定的です。

というか、ここにきてはっきりと見えてきました。

sati =念 とは、『気づき』のことではなく、『記憶して保持すること』『憶念』のことだと。

歴史上の仏陀が言ったのは、『真理の観念を選び取り記憶してしっかりと保持し、意識的に繰り返し念じること』これこそが sati でした。

このことを発見したときに、すべての謎が解けました。三十七菩提分法もはっきりと解くことができました。

仏陀の瞑想法は徹底思考型の瞑想でした。徹底思考して三昧に入ったときに初めて『智慧』が生じるのです。

ところが後世には、無思考型の瞑想ばかりが重要視されるようになりました。

無思考型の瞑想は、仏陀が出家してすぐに2人の仙人に弟子入りして学んだものです。仏陀はすぐ師のレベルまで到達しましたが、『この瞑想は涅槃にも解脱にも至らない』と見極めてそこを去りました。

つまり、無思考型の瞑想は仏陀が捨てた瞑想法ということです。

そして仏陀は最終的には、菩提樹の下で十二縁起の順観逆観を繰り返して解脱へと至りました。徹底思考型の瞑想です。

 

残念ながら、今の仏教は仏陀の真意からはかけ離れていると言わざるを得ません。

ここ最近、特にはっきりとわかりました。

いま流布されている仏教なるものは仏陀が言ったこととは全く違うものだと言うことが。

なぜ大乗仏教が興ったかもはっきりとわかりました。

 

ところで質問の答えですが、思考に気づいていることが何の役に立つのでしょう。

また、思考をなくすことなど絶対できません。数十分の瞑想では思考がなくなる瞬間はあるかもしれませんが、日常生活に戻ればとたんに思考は沸いて出ますし、思考がなければすぐ事故に遭ってしまうでしょう。

 

部屋の真ん中に腐った食べ物を置いていると臭いが沸いて出ます。思考はその臭いのようなもので、いくらその臭いに気づいていても臭いの元である腐った食べ物を取り除かない限り臭いはなくならないでしょう。腐った食べ物を取り除いて、代わりに花を生ければ芳香となります。

 

マインドフルネスに関しては、このような指摘もあります。

 

心理学系ニュースサイト「Psychology Today」(11月20日付)が、今年10月、科学ジャーナル「Personality and Social Psychology Bulletin」に発表された驚きの論文を紹介している。それによると、同論文執筆者らが、259人の囚人と516人の大学生にマインドフルネス瞑想を実践してもらい、2つの観点(感情の抑制と自己に対する判断の保留)から、その影響を分析したところ、囚人らに負の影響が顕著に表れたというのだ。

  まず一つ目の感情の抑制においては、「犯罪傾向認知スケール(CCS)」(他者より優れているという感覚、自身の責任を受け入れない態度、権力に対する否定的態度、短期的な結果に集中する傾向、犯罪行為に対する無関心など)のスコアが低く出たものの、自己に対する判断の保留においては、囚人のCCSスコアが極めて高い値を叩き出したという。

 それというのも、犯罪行為に繋がる思考パターンに慣れている人物にとって、自身の思考に対する判断を保留するということは、自身の行動の責任を取らないことに繋がるため、CCSのスコアが高く出たのだという。囚人の更生や犯罪衝動の抑制を目的として、マインドフルネス瞑想を取り入れる刑務所が増えてきているが、本当に瞑想が犯罪抑止に役立つのか、今一度見直した方が良いかもしれない。

  また、ビジネスパーソンがマインドフルネス瞑想に最も期待しているであろう創造力にも、それほど関連がないことが分かっている。ウェブニュース「Inc.com」(2016年9月16日付)によると、研究者らがマインドフルネスネスと創造力の関係を調査した20の研究をメタ分析したところ、マインドフルネス瞑想が創造力(=思考の多様性)に与える影響が小さかったことが科学ジャーナル「Personality and Individual Differences」で掲載された論文で判明したという。

 さらに耳の痛い話だが、2015年に「Psychological Science」に掲載された論文では、マインドフルネス瞑想は記憶力に悪影響を与えるとまで指摘されているのだ。研究者らは、マインドフルネス瞑想をした被験者と、そうでない被験者に対しDRMパラダイム(Deese–Roediger–McDermott paradigm)と呼ばれる虚記憶を調べる実験をしたところ、マインドフルネス瞑想をした被験者の方が悪い結果を記録したという。

  そして、最大の問題はマインドフルネス瞑想が、うつ病・躁病・パニックなどを引き起こす可能性があると言われている点である。英コヴェントリー大学のミゲル・フェリアス教授の研究によると、14人に1人がマインドフルネス瞑想による深刻な悪影響を被っているという。

「自身の内面を見つめ、現実認識を変えるテクニックが、潜在的な悪影響を持たないわけがありません。全ての瞑想研究はネガティブな側面もしっかりと調べるべきです」(フェリアス教授)

 他の研究では、瞑想中に気分が悪化したり、瞑想によりトラウマが強化されてしまうケース、離人症を発症しているケースなども報告されているが、実は瞑想の悪影響は伝統的な仏教の世界ではよく知られていることなので、トカナで紹介しよう。

  たとえば、江戸中期の禅僧で臨済宗中興の祖と評される白隠(はくいん)は、厳しい修行の末、悟りを得るが、禅病と呼ばれる離人症に似た精神病に悩まされた。後に「内観の秘法」を体得し、禅病を克服するものの、彼ほどの修行者でさえ精神を患うことがあるのである。生半可な素人が一度その魔境に入り込んだら、とても白隠のようには行かないだろう。

 また、禅仏教、チベット仏教、テーラワーダ仏教などの瞑想センターが世界各地に存在するが、そのような場所でも精神に変調をきたす人々が後を絶たないと言われている。

 

 

坐禅にしても、ヴィッパサナーにしても、無思考型の瞑想は非常に危険です。

歴史上の仏陀が説いた方法は、徹底思考型の瞑想だと私は確信をしています。

様々な観念から真理の観念を選び取り(択法)、その真理の観念を記憶して保持し繰り返し念じ(念)、その観念三昧になる(定=三昧)、そして彼岸=涅槃に到達したらその真理の観念も筏として捨てる、これが仏陀が言ったことです。

これにより、初めて人間は中心を消滅させ無量に到達することができるのだと思っています。

そして、人間は無量心という創造の主体であらねばならないのです。

すべてを唯心所現とし、絶対の主体として躍り出なければならないのです。

この世には自らの主体性を見失わせる妄説が蔓延っています。

自らの主体を否定する教説は役に立たないどころか、人間にとって著しく害になります。それは人間を現実逃避に導く毒水です。

そのようなふわふわしたmohaから決然と離れなければなりません。

宗教やスピリチュアルやノンデュアルティに嵌まる人間が現実社会で弱々しく埋もれてしまい環境に困窮を作り出してしまうのはこういうことです。

それをはっきりと知りました。

自らが主であることが最も大事なことです。