人間はまず我儘になることが必要です。
自分の価値観や倫理観を押しつけてくる輩からは全速力で逃げてください。
そのような者に振り回されると、自らの主体を見失い、他人の言うがままの『いい人』になるだけです。
他人の目、他人の評価ばかり気にして、他人の言うことに神経をすり減らし続けると鬱病になるでしょう。
『いい人』にはなってはいけない。『いい人』になろうとしない、『いい人』に見られようとすることだけは絶対にしてはいけない。
わざと悪いことをしろということではなく、何より自らの『feel good』を最優先にするべきです。
特に、『それは自我だ』とか『それは我儘だ』とか非難してくる人は避けるべきです。その人は、あなたの鼻をつかんで自分の価値観に引き摺りこんで支配したいだけです。
そういう人には嫌われた方がいいのです。
すべての人間は強固な自我があります。徹底的に解脱しなおかつこの肉体から離れなければ、自我がなくなることは絶対にありません。
頭の上っ面で、『いろいろなものが集まっているだけだから自我なんてない。自分なんてない。無我だ。』と言ってる人は、自分の中の中心、そして激流が何も見えていないのです。
肉体を持ち、感覚を持ち、絶え間なく感覚の経験をし、経験の記憶を溜め続けていて、その中心から思考を出し、その思考がまた中心を形作る、それを私たちは瞬間瞬間休みなくしているのです。たとえ、1時間瞑想して思考をなくしても、日常生活に戻った瞬間、中心は現れます。
思考を持ち、わたしという中心がなければ、日常生活は絶対にできないからです。
無我だ、自分なんてない、全体だけがある、と口先ではいくらでも言えるでしょう。
しかし、例えば主婦が料理します。それは地球の裏側の見も知らない人に食べさせようとしてないですね。あくまでも『私』と『私の』家族のために料理を作っていますね。
夫が働いてお金を稼ぎます。そのお金を知らない人にばらまいたらどうなりますか。あくまでも、『私』と『私の』家族のために稼いでますね。
大勢の知らない人たちが断りもなしに自分の家に上がり込んできて冷蔵庫を勝手に開けて食べ始めても『自分などない。全体だけがある。』とすましていられますか。必死に自分の家を守ろうとしてそれらを排斥するでしょう。『私の』家が大事なのではないですか。
自分の肉体が車にぶつけられたら病院に行くでしょう。『私なんかない。肉体も自分ではない。』といってすましていることはできません。
いとも簡単に、『無我』だとか『自分はない』『全体だけ』と言っている人は、それらの現実をごまかしているだけです。
肉体を持ち、感覚を持っている限り、自我がなくなることはありません。
人生は、日常生活は、すべて『私』と『私のもの』で成り立っています。
『私』がないと、1日たりとも、生きることができません。
病院で自分の名前を呼ばれたら診察室に入っていくでしょう。これを『無我が本当だ。自分なんてない。どのような名前も自分ではない。』などと言って、名前を呼ばれても反応しなければまともに生活などできないですね。
要は、他人の目に引き摺られ、他人の評価に引き摺られて、自らの主体を失い、自らの『feel good』を損ない続けているから、心に大きな傷ができるのです。へこみができるのです。
その傷、そのへこみ、が強固な我塊となっているのです。
傷だらけになり、その傷がうずいて痛くて仕方ないのに、『私などない。無我が真理だ。無我であろう。』とし、その傷は自分ではない、だから傷を丸裸にして寒風にさらしその痛みを存分に味わおう、とするのは馬鹿げています。
その傷は、他人の評価に引き摺られ、主体を失い、他人軸で生きてきたから、自己重要感が傷つき悲鳴を上げているのです。
いますぐ、他人軸をやめ、他人が気に入るように行動することも止め、自らの『feel good』にだけ従わなければ危険です。
究極に我儘に生きることです。
誰が我儘と言って、仏陀ほど我儘で自分勝手な人はいないでしょう。
一国の国王の一人息子として生まれ、当然父の跡を継いで国王になる立場の人でした。しかし、結婚し息子が生まれたとたん、妻を捨て、生まれたばかりの息子を捨て、国王である父を捨て、家臣を捨て、領民を捨てて出家しました。
無責任極まりない。責任放棄もいいところです。
国王である父も、妻も、老臣たちも、必死に止めたはずです。『国の責任を放棄するのか』と忠告した人も多いでしょう。
しかし、仏陀は自らの『feel good』を選んだ。
後世の大乗仏教では、仏陀は衆生を救うために出家したとなっていますが、事実は違います。あくまでも、自らの苦を滅するために出家したのです。自分勝手ですね。
他に従属することはすべて苦しみであり
自由(主体性)はすべて楽しみである
(出典 Udana Ⅱ,9)(中村元訳)
これは仏陀が言った言葉です。
パーリ語原典では
Sabbam paravasam dukkha.
Sabbam issariyam sukham.
sabbam は『すべての』
paravasam は『他人の意志にたよる。追従する。従属する。』
dukkha は『苦しみ』
issariyam は『統治者の主権。支配管轄。』
sukham は『楽しみ』
パーリ語原典を直訳すると、次のような言葉となります。
他への従属はすべて苦しみであり、主体の確立はすべて楽しみである。
今までの仏教のイメージからは程遠い言葉です。
日本仏教の『わたしたちはすべて他の存在によって生かされているの。他の存在がなければ自分なんか存在しない。あらゆるものの関係性によっている。それを縁起というの。人は皆、縁起によって生かされている。ありがたいありがたい。』という言説とは、真逆のように感じます。
どちらが仏陀の真意でしょうか。
仏陀は、王族の皇太子、ひとり息子でした。妻との間には生まれたばかりの息子がいました。しかし、妻を捨て、生まれたばかりの子供を捨て、王である父を捨て、継ぐべき王位を捨て、家臣を捨て、領民を捨て、宮殿を捨てて、一介の修行者となりました。
これは、王である父親が最も怖れていたことでした。しかし、すべてを捨ててしまいました。国の統治者となるべき責任を放棄しました。父親としての責任、夫としての責任もすべて放棄しました。仏陀の弟子たちもそうでした。家族などすべての関係性を断ち切って出家しました。子孫が絶えるということで、両親が子孫を残してくれと泣いて頼んだために捨てた妻と性交した弟子を仏陀はサンガから追い出しました。
すべての関係性に何の価値も見出さなかったのです。自由への希求こそ、仏陀が望んだことでした。すべての関係性を捨てた人の教えが日本ではなぜか『あらゆるものの関係性によって生かされている』ということに変化していきました。
仏陀が選んだ出家とはあらゆる関係性をすべて断ち切ることでした。仏陀の弟子たちもそうしてきました。捨てられた、王である父親、妻であるヤショーダラー、息子であるラーフラはそれはショックだったはずです。
あらゆる関係性を断ち切り、自分の弟子にも関係性を断ち切らせた人が、『あらゆるものの関係性によって生かされている。ありがたいありがたい。』というような教えを説くはずがありません。もしそんなことを説いたらヤショーダラーは『どの口が言ってる?』と怒るでしょうね。実際、原始仏典には関係性によって生かされているという言説はありません。むしろ『愛する人をつくるな』と説きます。
さきほど、『日本ではなぜかあらゆるものの関係性によって生かされていると変化した』と書きましたが、龍樹から縁起の意味が仏陀とは変化したからです。
『他に従属することはすべて苦しみであり、自由(主体性)はすべて楽しみである』
これが仏陀が言ったことなのです。