レス

ターボー     

これが遠藤周作の「沈黙」のあらすじです。 キチジローを私、ロドリゴをWさんとするとピッタリ符号します。つまりこの遠藤さんの書いた沈黙も私の心の影が作り出した現象だと思います。 私がクンダリーニの解脱時に抵抗した為に神が怒って、自己そして他己の身心を脱落させて大乗になってしまったと思うんです。 私とWさんはその大乗(大勢で共に乗る船)の船員同士ではないかと思っているのです。 30年前の同じ日の同じ時刻に、それぞれが違う空の見方をしたとしたら。。 華厳経(中村元訳)を読んだら、今までの龍樹的な相互依存の縁起、無自性の空とは、ちょっと違う感じの法界縁起という考え方がありました。(中村元 大事仏典5華厳経P25より以下引用) たとえば、現実の自然世界(私たちが住んでいる空間、場所)では物理的な空間の一部を一つの物体が占有すると、他の物体は、その場所を占有することができません。物体と物体がお互いに排除しあうからです。しかし、私たちの感覚を超えた世界に思いを馳せると、一つの物体の占有する空間に、他の無数に多くの物体がはたらきかけています。だからそれらをある意味で受け容れているとも考えられます。 そうすると、たとえば誰かが一つの物を、手に持っているとします。すると他の人がまた何か持っている、それは別の物と考えられますが、しかし目に見えないところで因縁の連鎖、因果の網によってつながっているということになります。(引用終わり) ネットで法界縁起を調べたら、たとえばある島に猿の群れがいて温泉に入る事を覚えたとしたら、そこから何キロも離れた島に住む猿の群れも温泉に入るようになったそうです。 お互いの島は相当に離れていて行き来はないのに、まるで測ったように同じタイミングで温泉に入るようになったという話が例として挙げられていました。 以下が遠藤周作さんの「沈黙」のあらすじです。↓ 島原の乱が収束して間もないころ、イエズス会の司祭で高名な神学者であるクリストヴァン・フェレイラが、布教に赴いた日本での苛酷な弾圧に屈して、棄教したという報せがローマにもたらされた。フェレイラの弟子セバスチャン・ロドリゴとフランシス・ガルペは日本に潜入すべくマカオに立寄り、そこで軟弱な日本人キチジローと出会う。キチジローの案内で五島列島に潜入したロドリゴ隠れキリシタンたちに歓迎されるが、やがて長崎奉行所に追われる身となる。幕府に処刑され、殉教する信者たちを前に、ガルペは思わず彼らの元に駆け寄って命を落とす。ロドリゴはひたすら神の奇跡と勝利を祈るが、神は「沈黙」を通すのみであった。逃亡するロドリゴはやがてキチジローの裏切りで密告され、捕らえられる。連行されるロドリゴの行列を、泣きながら必死で追いかけるキチジローの姿がそこにあった。 長崎奉行所ロドリゴは棄教した師のフェレイラと出会い、さらにかつては自身も信者であった長崎奉行井上筑後守との対話を通じて、日本人にとって果たしてキリスト教は意味を持つのかという命題を突きつけられる。奉行所の門前では、キチジローが何度も何度もロドリゴに会わせて欲しいと泣き叫んでは、追い返されている。ロドリゴはその彼に軽蔑しか感じない。 神の栄光に満ちた殉教を期待して牢につながれたロドリゴに夜半、フェレイラが語りかける。その説得を拒絶するロドリゴは、彼を悩ませていた遠くから響く鼾(いびき)のような音を止めてくれと叫ぶ。その言葉に驚いたフェレイラは、その声が鼾なぞではなく、拷問されている信者の声であること、その信者たちはすでに棄教を誓っているのに、ロドリゴが棄教しない限り許されないことを告げる。自分の信仰を守るのか、自らの棄教という犠牲によって、イエスの教えに従い苦しむ人々を救うべきなのか、究極のジレンマを突きつけられたロドリゴは、フェレイラが棄教したのも同じ理由であったことを知るに及んで、ついに踏絵を踏むことを受け入れる。 夜明けに、ロドリゴ奉行所の中庭で踏絵を踏むことになる。すり減った銅板に刻まれた「神」の顔に近づけた彼の足を襲う激しい痛み。そのとき、踏絵のなかのイエスが「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」と語りかける。 こうして踏絵を踏み、敗北に打ちひしがれたロドリゴを、裏切ったキチジローが許しを求めて訪ねる。イエスは再び、今度はキチジローの顔を通してロドリゴに語りかける。「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」「弱いものが強いものよりも苦しまなかったと、誰が言えるのか?」 踏絵を踏むことで初めて自分の信じる神の教えの意味を理解したロドリゴは、自分が今でもこの国で最後に残ったキリシタン司祭であることを自覚する。
 
 
歴史上を見ても、離れた場所で同じ発明が同時に為されたことはかなりありますね。物理的に連絡を取ったわけでもなく、何の関連もないのに同時に起こることがあるようです。
それは意識というのはひとつだからです。
区切りや限定が幻想なのであって意識は分離されないひとつであるのでしょう。
 
映画『沈黙』は私には、かなりの考えの変化をもたらしました。
原作そして映画のテーマは、人間の弱さ、そしてその弱さから棄教してしまった者をも許しているキリストの愛、むしろそのような弱い人間のためにこそキリストは十字架にかかったのではないかという気づき、そのようなものがテーマかなと解釈しました。
 
ただ、私はこの映画の中での宣教師の手紙に『日本人はモノ、形を欲しがる。十字架などのモノを。信仰は形ではないのにそこが不安だ。』という述懐がありました。
私は日本人として生まれ、それまで日本人は優秀で頭がよく、平和を愛する民族という固定観念をずっと持っていました。
しかし、日本人はいやアジア人は、観念や哲学が苦手でモノの表面だけしか考えられないのではないかと思うようになりました。
アジアでもインド人だけは違いますが。
 
さて、ところで、 ターボーさんがキチジロー、Wという人をロドリゴという意味がよくわかりません。禅などの仏教とキリスト教は本質的に違うもので、特に禅は信仰する対象を持たず棄教するとかという問題はないように思えますが。