四念処観について

<<ぷしゅけー (id:Push_key)

ショーシャンクさんこんにちは。四念処を瞑想するとありますが「観じること」というのは、どういうことを指すのでしょうか。受は苦であることを「実感する」みたいな感じでしょうか。それとも唱えるとかでしょうか。
もし教えていただけると幸いです。>>

 

ぷしゅけーさん、こんにちは。

『今まで絶対に書けなかったこと』にコメントいただきました。こちらに回答いたしますね。

四念処は、私の解釈では

【四念処】

1、身念処  身は不浄であると観じること

2、受念処  受は苦であると観じること

3、心念処  心は無常であると観じること

4、法念処  法は非我であると観じること

です。

これの解釈として、こう書きました。

 

身とは肉体です。受とは肉体の感覚です。心とは思考です。法とは、観念です。

眼耳鼻舌身意の対象物を色声香味触法といいます。眼耳鼻舌身意を六根、色声香味触法を六境といいます。眼という感覚器官の対象は色(形)です。耳は声を、鼻は香を、舌は味を、身体の触覚は触れるものを、そして意識は考える対象を、その対象としてます。ですから、法とは、イメージ、記憶ということです。

四念処は、肉体を不浄と観じ、感覚を苦と観じ、湧き上がる思考を無常と観じ、イメージ・記憶を非我と観じます。

自分の美しい肉体をなぜ不浄と観じなければならないかと思う人もいるでしょう。しかし、肉体が美しいというのは人類の幻想です。それは異性の気を惹くため、あるいは対外的に良く扱われたいため起きた幻想です。その幻想を維持するために夥しい化粧品や香水、衣服などが作られました。

しかし、ありのままに見ると、身体のあらゆるところから排せつ物が出ています。どんなに頑張っても、年を取るたびに劣化していきます。死体になると、どんどん腐っていきます。それがありのままの肉体です。

 

肉体の感覚が苦であるというのはどういうことでしょうか。感覚には、苦もあれば楽(快感)もあり、苦でも楽でもない感覚もあります。苦受(苦痛の感覚)が苦であることは当然分かります。棒で強く殴られたら痛いですし苦ですね。これを苦苦といいます。楽受(快感の感覚)は心地よいですね。美味しいものを食べたり、異性に触れたりする楽受は望ましいものでしょう。しかし、楽受の対象は永久ではなく、壊れたり、離れたりします。愛着する対象が壊れるとき苦に変じます。これを壊苦といいます。それ以前に美味しいものを食べて楽受なのはほんの一瞬です。ある量を超えると苦しみに変じます。苦でも楽でもない非苦非楽受も、感覚器官の衰え老化によって苦に変じます。これを行苦といいます。

このような説明よりも、受(感覚)が苦であるもっと直接的な理由は、感覚が束縛だからです。否応なく感覚しなければならないのです。強く殴られたらどんなに感じないようにしようと思っても痛みを感じてしまいます。一点に固定化されてしまう。束縛であり苦しみです。

心は無常であること。これは、湧き上がる思考を見ればわかりますね。とりとめのない思いが次々に湧いて出ます。外部からの刺激によって記憶の束が反応することが多いです。連想であったり、前にその人から受けた良いあるいは悪い経験であったり、です。眼で見るもの、耳で聞くものは次々に入ってきますから、思考も瞬瞬その都度反応していき、とめどもない思いが毎日大量に湧き上がるままになっています。外部からの刺激が変わればまた違う思考が出てきますから、コロコロ変わって無常です。

法が非我であること。つまり、これまで積み上げてきた記憶の束や、積み上げてきた観念、イメージを私ではないと観じること、これは、四念処観で最も難しい観法なので一番最後に来ています。この観法を実感するためには、十二縁起を理解する必要が出てくるかもしれません。これは後で説明します。

 

四念処は、身、受、心、法につき、不浄、苦、無常、非我をそれぞれ観じる瞑想法ですが、つまるところは、非我を観じていくのです。不浄であり苦であり無常であるというありのままのリアリティを洞察して、それらへの執着、愛着、自己同化から離れ、厭離の心を生じさせ、身・受・心・法につきどれも私ではないということを徹底させるのです。

 

私の解釈では、四念処観とは、イメージによって、身、受、心、法 が不浄であり、苦であり、無常であり、非我であることを洞察することです。

私たちは、身、受、心、法 すなわち、肉体、感覚、心、観念によって『私という中心』を形成しています。

そして、その『私という中心』はとんでもなく愛しいものです。守るべきものと思っています。本当の自分と思っています。

これこそが、私たちを『無量』から離れさせているものです。圧倒的な無量感を持つことができないのは、『私という中心』から離れることができないからです。

自己同化しています。感情移入してます。

この自己同化、感情移入を打ち砕くために、イメージをフルに使って、中心を厭離し、無量へと向かわしめるもの・・・それを四念処観と、私は解釈してます。

この説明で不明なところがあれば、ここに質問コメントしてください。