歴史上の仏陀の真意は無量心であったこと、そして仏陀の死後、部派仏教の時代になるとその『大いなる境地』は失われていって灰身滅智の考えに支配されていったこと、そのアンチテーゼとして大乗仏教が生まれたこと、大乗仏教は失われた主体の復興運動であったこと、しかし、仏陀の真意の復興運動であった大乗仏教も、小乗仏教を論破していった天才龍樹独自の理論へと大きく変貌したこと、が、私独自の仏教史観です。
さて、原始仏典ばかりを引用してきた私には珍しいことではありますが、大乗仏教の肯定的な面も心のままに書いていきます。
大乗仏教の人の中で、仏陀の真意に非常に近い人の一人は臨済だと思います。
随所に主となれば、立処みな真なり
長い大乗仏教の歴史の中で、臨済ほど、主体や自由を高らかに獅子吼した人はいないでしょう。
境に転ぜられず、処処に境を用いん
東湧西没、南湧北没、中湧辺没、辺湧中没
水を履むこと地の如く、地を履むこと水の如くならん
何に縁ってか此の如くなる
四大の如夢如幻に達するが為の故なり
道流、汝が祇だ今聴法するは、
是れ汝が四大にあらずして、能く汝が四大を用う
若し能く是の如く見得せば、便乃ち去住自由ならん
ここで臨済は、自らの絶対の主体を掲げると同時に、外境(環境)に支配されず、外境を意のままに用いることを説きます。現象=外境=環境 は、如夢如幻であること、それは固定化されたものでは全くないのに、固く動かないものと考えて外境に支配されているのが人間です。
我れ見るに、諸法は空相にして、
変ずれば即ち有、変ぜざれば即ち無
三界唯心、万法唯識なり
所以に夢幻空花、何ぞ把握を労せん
すべての現象は、夢幻空花のようなもの、心が化作したものです。
すべて、心が、意識が作ったものです。それが三界唯心、万法唯識です。
道流、汝如法に見解せんと欲すれば、但だ人惑を受くること莫れ
臨済のキーワードのひとつは、『人惑を受けざれ』です。
他人に惑わされてはいけない、他人に惑わない主体を確立せよ、ということです。
これは仏陀の真意に近いものです。