今回、はっきりわかったこと

  ヤフー掲示板『仏教についてのひとりごと』スレッドを立ち上げる前からずっと考えていたのは、仏教には様々な瞑想法や修行法があるけど、どれも私が目指す無限の大海、無量心にまでは行き着かないのではないかということでした。

  坐禅の数息観にしても、ヴィッパサナーのsatiにしても、雑念を少なくするには非常に有効な手段だと思います。それで、対人恐怖症やうつ病が改善したという話もあります。それらの神経症は雑念の繁殖により起こりますから、最も基礎的なこととしてまず雑念を少なくすることはいいことです。

 しかし、そのようなことをしたところで、想念は絶対にゼロにはなりません。日常生活をするには想念は必要なものなのです。記憶があり知識があり思考がないと、赤信号でも渡ってしまうでしょう。瞑想を離れ現実生活に戻ってきた途端、思考は必要となります。

 坐禅をする40分間だけ無念無想になったとしても、坐禅から立ち上がったらすぐに元の木阿弥です。坐禅をしている間、想念がなくなり自我の枠が取れますから、限定されないものを感じることはあるでしょう。それでその体験を悟りとしてしまうと、実際には自分があるという観念の束はそのままなのに悟っているという強い自負心が生じ、それが今までより一層強固な自我の囲いとなるのです。

 この10年、ヴィッパサナー瞑想が大流行なのは知っています。satiという、想念や感覚にいつも気づいているという瞑想です。しかし、いろいろ複雑な交渉事をこなしていく日常では想念はフル回転させなければならないことも多く、いつも想念に気づいているというのは無理でした。また、想念にいつも気づいているからといって、妄念が生じてくる元である『思い込み』『自我』『我塊』がなくなるとは思えませんでした。

だから、歴史上の仏陀は本当はどんな瞑想をして悟ったのかを知ろうと思ったのです。

 

私のヤフー掲示板スレッド『仏教についてのひとりごと』には、数多くの投稿者が訪れましたが、その中で2人、興味が湧いた投稿者がいます。

  一人はKという人で、なぜ関心が生まれたかというと、自分が描いた絵を塗りつぶしたという話を投稿していて、少し心の闇の部分を感じたからです。その絵の話を投稿した後から、少しその人の他のスレでの投稿も見るようになりました。

  もう一人はAという人で、自分はいつも完璧に自分の心、想念に気づいていると私のスレッドに投稿してからです。その時に、私は、自分は交渉事など思考をフル稼働しなければならない時が多く気づけてないときが多い、と書きました。そして、本当にいつも気づいている人などいるのだろうか、本当に気づいているとしたら、その完璧な気付きによって無限の大海、無量心に達しているのだろうか、ということに強い関心を持ちました。で、この人の他のスレでの投稿も見るようになりました。

  いつも完璧に自分の想念に気づいていて、いつも無量の状態にあるなら、感情や衝動に流されることは一切ないはずです。また、いつも無量の状態にあるなら、文章にもそれが現れ現象にも人間関係にも家庭にもそれが現れるはずですから、その興味はありました。

 結論からいうと、私が求めているものはそこにはありませんでした。

 私の求める無量ではありませんでした。

  いつも気づくことによって、雑念が少なくなり、うつや対人恐怖症が改善するようなことはあるのでしょう。そういう人にとってはかなりの効果があるような気がします。またそういう体験も確かにあったのだとは思いますが、残念ながら私が求めている無限の大海とは全く違うものです。無量にある時、優しさや暖かな調和が生まれ現実生活にも暖かさが生まれるはずです。

  しかし、その人が語っている自分の家庭の状況はとても暖かく調和に満ちたものではないように思えます。その人の語ることによれば、三人家族なのにご主人はいつも一人で夕食をとるそうです。息子さんが一緒に食べるのを避けるので自分は息子さんと一緒に後で食べるそうです。本人はご主人はそれで平気な人なんだ、家庭それぞれで幸せの形はあるのだと考えているようですが、本当にそうでしょうか。一生懸命に仕事をして3人暮らしの家に帰ってきてもいつも避けられてひとりでぽつんと食べなければならない人の気持ちをその人は察することができていないようです。

 『わたしはただの主婦ですよ』とその人は言いました。専業主婦であるならなおさら、暖かい家庭を実現できてから、はじめて人に『私はいつも無量に気づいている。自分の心も他人の心も洞察できている。他の人も皆そうするべきだ。』と説教できるのです。

  人に説教すると言うことは、自分が完璧にできてからでしかしてはいけないし、自分がそうすることによって暖かい家庭を実現できてからでしかしてはいけません。私は自分ができないことを人に説教しようと思ったことは一度もありません。人に説教するというのはそういうことです。本当に無量にあるならば、自分が完璧にできていないのに人を責めようという気は絶対に起きません。

 その人のいう気づきで自分の心が軽くなったのはわかりますが、それを絶対視して、そうでないと自分が断罪する人のところにわざわざ行って説教したい、自分の尺度価値観に当て嵌めたい、という衝動は無量、慈悲ではなく、明らかに自我の衝動です。

 ですから、私にとっては、それは求めるものではないとはっきりしましたので、これはよかったと思っています。

 数息観や気づきは、雑念を少なくする初期段階では非常な力があるのでしょうけど、その人を見ると無限の大海までには行き着いていないように思えます。

 

  掲示板でも実社会でも、うつや対人恐怖の人は非常に多いです。そういう人たちのために、気づきを広めてあげて救ってあげれば本当にいいと思います。鬱病や対人恐怖症の人たちが、掲示板でも実生活でもその人にどんどん相談しにいく状況になれば、その人からは無量に伴う優しさ、暖かさが出ているということが言えると思います。

 

  私は、仏陀が言ったsati(念) は『気づき』と言う意味ではないと思っています。パーリ語からひもとけば明白なのですが、sati(念)とは元々の意味は記憶のことです。具体的に言えば、仏陀の説いた真理を記憶しそれを意識的に繰り返し思うことです。

  八正道の七番目、sammā-sati (正念)にしても、もしそれが『気づき』と言う意味であれば、一番の基礎でしょうから八正道の一番目に来るはずです。それが七番目という最後の段階に位置しているのは最初の段階では生じていないものだからです。八正道の六番目は正精進です。正精進の前は、正見⇒正思⇒正語⇒正業⇒正命 です。正精進の後は、正念⇒正定 です。正精進は『正しい努力』というような漠然としたことではありません。四正勤のことです。八正道の本当の意味に関しては、またこのブログ、または『今まで絶対に書けなかったこと』または、自費出版で書いていきます。

  四念処観というものがあります。非常に重要な仏教の瞑想法です。身・受・心・法の4つが自分ではないと観じる方法です。その四念処観の最初のほうに白骨観が出てきます。この身体も墓地に捨てられた白骨のようなものと観じる方法です。ありのままの今の身体は白骨ではありませんし白骨が出ている箇所もありませんから、つまり、自分の体も墓地の白骨死体のようなものという無常の観念を繰り返す、ということです。

 

sati(念)を、気づきではなく、記憶、憶念と解釈した時に

原始仏典に『唯一つの真理(=仏陀の教え)を念じて修行せよ』『仏の教えを憶念して』という言葉がよく出てくる意味がわかります。