仏教についてのひとりごと 140

<<あの時 子供ながらに思ったことは もう友達はつくらない。 友達との別れがこんなに苦しむのであったら もう友達なんかつくらない。お釈迦さまの苦しみからの脱却は この「もう友達なんかつくらない」に当てはまるのかな? と以前から思っているところなんです。そのようなスタンスで考えることがお釈迦さまの教えなのでしょうか?。この私の境遇で友達が欲しいと思うことは「欲望」になるのでしょうか?。>>

 


人間は肉体を持ち感覚を持ったために、限定感、分離感、孤立感、欠乏感を持っています。
人生の経験を経るごとに記憶の束が積み重ねられていき、ますます限定感を強めていきます。
限定されている感覚から強い欠乏感が生まれます。
そして、人はこの欠乏感を一瞬でも紛らわしてくれるもの、対象物に執着し依存していきます。

欠乏感を埋めるために追い求め、執着したものは、すべて悲嘆に終わります。
その対象物は滅するものだからです。
欠乏感を埋めるために執着した対象物がなくなると、より一層深く欠乏感に襲われる結果となります。

あなたの例ですと、寂しかった家庭環境でその寂しさを埋めてくれる友達が見つかったために、その友達に執着し精神的に依存していきました。
それは善とか悪とかではありません。
人間の行いを宗教や道徳はすべて善とか悪とかに分けて裁いてきました。
人間は哀しいもので、すべての人間はやり場のない欠乏感・孤立感を抱えているのです。

限定感、欠乏感は無量感の欠如によって起こります。
精神の無量性こそが人間の本来の姿です。

依存は欠乏感から生まれます。
精神が無量にあるとき、依存は生まれません。
欠乏感からは依存ばかりの人間関係が出来ます。
精神が無量になったとき、依存から解き放たれたときには、全く新しい人間関係が生まれるはずです。
同じ人でも、寂しさを埋めるための対象物ではなく、大きな優しさをもって接することができ、その人を失うことの恐怖もなくなり、関係性は全く新しい次元に入るでしょうね。

精神の無量性こそはニルヴァーナであり、仏陀の境地です。
それは至福なのでしょう。

 

 

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<<ショーシャンクさんも云われています 『今の価値観とは真逆です』
通常云われる「人生の喜び」 その言葉の中には欲望を達成した結果もありますよね それが生きる糧になる生き甲斐になったり・・。勿論 高望みの欲望ではありません 日々の生活で感じる程度の喜びです。それが どうも お釈迦さんが言われているのは その幸せ感も「捨てようよ」と云われているよな気がして・・。>>

仏教と言われているものの根本的な問題がここにあります。
このスレッドの初めの方で、何人かの人に『あなたのいう煩悩、欲望とは何か?』と問いかけました。10以上の具体例を挙げて。
例えば、医者になりたくて医学部を目指して勉強することは煩悩なのか、主婦の人で夫に喜んでもらおうと思って夫が好きな料理を作るのは煩悩か、など、その人が煩悩という言葉をどういう意味で使っているかを聞きました。
しかし、ただの一人も答えませんでした。

仏教を知っているという人も、誰も自分が使っている煩悩という言葉をどういう意味で使っているかもわかっていませんでした。なのに、煩悩を捨てろとか、あるいは煩悩はなくならないとか、煩悩即菩提とかの決まり文句だけはよく使うのです。

今までの仏教解釈ではどこにも行き着かないな、という確信を持ったひとつのきっかけではありました。

 

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<<やっと棘が取れ仏陀に繋がりました。何んかほっとした気持ちになりました。>>

そうですか。
そう言っていただけると、私も書き込んだ意味がありました。

このスレッドも今月で終わりのようですので、質問があれば遠慮なくいってください。

 

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<<仏陀の説いた究極の幸せとは、「悩み無き生」のことなのですか?
 悩みの根源となるものはすべて断ち切るということなのですか?
 仏陀の説かれる幸せとはどんなものなのでしょうか?>>

 

仏陀は究極の幸せの境地をニルヴァーナ(涅槃)と呼びました。
最高の境地のことです。

『ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう』(ダンマパダ)
『ニルヴァーナは最上の楽しみである』(ダンマパダ)

悩みの根源は限定感、欠乏感ですから、全き無量感に達したときには悩みはなくなります。
限定感こそが根源です。
限定感がなくなったとき、『広大なる楽しみを見ることができる』のです。
それは圧倒的な無量感ですね。
音楽でもごく少ない最上の曲がほんの少しだけ垣間見させてくれるものでしょう。

 

 

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この掲示板もあと少しで消滅しますから
実社会の練習と思ってください。

自分の想いを犠牲にして他者の想いを気にしすぎる傾向を変えて
自分が思ったことを他者の目関係なく表現してみる、練習台だと思ってください。

他者の目を気にしすぎる傾向は自分を苦しめてしまいますよ。

 

 

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マーラーは、特にマラ9は、モーツァルトやベートーヴェン、ブラームス、シューベルト、チャイコフスキー、ワーグナーなどの音楽が深く理解できるようになった後でないと
そのよさはわからないと思います。
クラシック音楽に関しては、意識が広がる段階ごとに、薄皮というか膜が破れてより上位の音楽を心の底から理解できるようになりましたから
現在の意識レベルを測るには最適なものだと思っています。
精神的に疲れているときには、シューベルトの第9番交響曲『グレート』あたりがぴったりして
『意識状態が落ちてるな』と思うことがあります。
音楽には波動の高低が歴然とありますね。

 

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欲望を滅したところが涅槃だとか、煩悩があってはいけないとか、いや煩悩は生きるために必要でなくなることはないとか、煩悩即菩提だとか、わいわいくだらないことを言ってきたのが、いわゆる仏教なるものです。
仏陀の真意とは全く違う。
煩悩・欲望・渇望・渇愛・無明・本能~~~~
何を指しているかも考えることなしに、煩悩はあっていいとか、煩悩は滅しなければいけないとか、決めつけることに何の意味があるのでしょう。

煩悩とは、raga・dosa・mohaの三毒のこと。

raga・dosa・moha とは何かがわからなければ、煩悩の意味など分からない。

欲望をなくせとか、少欲になりなさい、などというひからびた言葉は百害あるだけです。

精神が無量であれば、現象も無量が流れ込む。
私はまだ無量の富が流れ込んでいないので、まだまだ無量になっていないと思ってますよ。

 

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<<あなたにとっては富はまだ足りてない、財富ですか?>>

足りてないとは言ってない。
精神が無量であれば、現象にも無量が現れる、と言っている。
現象に無量そのものがまだ現れていないうちは、精神が無量になっていないと私は思っているだけですよ。
晴れてほしい日に雨が降っても、自分の保有株が大暴落しても、自分の精神が無量になってない証拠だと私はそう思っていますよ。


私は何度も言っているように、小乗大乗問わず今までの仏教は歴史上の仏陀の真意からはかけ離れていると思っていますよ。
だから、それらの知識を白紙にして、最古層の仏典を探求したのですから。
あなたはいくら回答しても何度もまた同じことを言ってくるのでわずらわしいのです。
自分の主張だけをがなりまわしたいなら自分のスレッドに投稿していればいいでしょう。
自分のスレッドがあるならそのスレをもっと多くの人に見てもらえる魅力ある内容にするのが先決ですね。


あなたはよく『少欲であれ』『足るを知れ』『命をつなげる食があれば十分』と言っているようですが、そのような上っ面の決まり文句は現実社会ではマイナスになることが多いですね。

オリンピックで金メダルをどうしても欲しいと思って過酷な練習に耐えている人は素晴らしいと思いますよ。
『少欲であれ』『足るを知れ』『銅メダルでもいい』『6位入賞でもいいと思いなさい』などと言っていたら、それはマイナスに作用します。
会社も最大限の利益追求が使命です。


あなたは法華経行者とのことですが、それであれば、ドグマや教学を通さず、魂の目で法華経を読むべきですね。
長者窮子の喩えを本当に読めば、自分を限定することこそが最も真理から離れていることだとわかるでしょうね。

 

 

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本質的なことがわかってなく、極めて矮小化した世界観ですね。
法華経を心から読めばもっと意識は広がるはずです。

まず世界のすべての人が『命をつなげる食があれば十分』として、宮澤賢治のように一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べるだけになったら、世界で最も多い農業従事者はことごとく失業し貧困化になってしまうでしょうね。
果物を輸出して暮らしている新興国の農家は成り立たなくなります。
米と大豆以外の農家はすべて破産しますから、世界は今よりとんでもなく貧困層が増えることになります。


金メダルをどうしても欲しいと頑張っている選手を例えに出しましたが
金メダルがどうしても欲しいというのは大欲ですね。欲望そのものです。
そうでないと厳しい練習にも耐えられないでしょう。
ですから、大欲は必要だと言っているのです。
あなたのように『少欲であれ』『足るを知れ』、『銅メダルで満足せよ』『6位入賞で足るを知れ』などと言っていたら、ダメなことは多いのですよ。

貧困撲滅、飢餓撲滅、は私もその通りだと思っていますよ。
人を助けたいと思う人が多くのお金を稼いで、税金をおさめ、世界中の貧しい人に寄付すべきですし
富の再分配のシステムを一億総中流の時代まで戻した方がいいと思います。

私はもともと、消費税を全廃して、高級品にかける物品税を復活させるべきと思っていますよ。
消費税は貧富の差を大きくしますから。

飢餓に関しては、日本が廃棄する食糧1年分で、世界中の飢餓で死ぬ人が助かるのです。
食べ物は残さず食べる、賞味期限を気にし過ぎない、などを日本人が徹底するべきでしょうね。

 

 

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hanaさん、こんにちは。

<<私もショーシャンクさんが書いていらした
「仏陀は本当は何を言おうとしたのか」を知りたいなと思いました。>>

 

それはいいことだと思います。
私は仏陀は世界最大の教師だと思っています。
そして『私は矢を抜く最上の者だ』と言っています。
歴史の堆積物に埋もれている仏陀の真意を探求していきたいものです。


<<私が感じたのは、己の中で己を見よということなのかなと思いました。
それは誰それの言っていることは間違っていると思うことを一旦封印し、
己と向き合うこと、他人を見ないことなのかなと。。>>

 

そうですね。それは非常に核心に近いと思いますよ。
他人に振り回されず、従属しないこと。
本当の自己、自らの無量性に気づくことかなと思います。


<<ですが、誰かが間違っているとか
自分の方が正しいとかという議論を超えた批判合戦は
仏陀が悟りの際に観たものとは違うような気がしました。>>

 

確かにその通りです。
歴史上の仏陀の言葉と関係なく、自分のドグマばかり宣伝してくる人があまりにも多く
なるべく無視はしていたのですが、仏陀の言葉で間違っていることを言われると正したくなるのでまた時間を取られてしまっています。
これからはまた、無視していきたいと思います。

 

 

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nosさん、おはようございます。

そうですね。前にもこのようなことを書きました。
若くてかわいい女性が、ほとんど接点のない男に一目ぼれされてストーカーされ殺された事件がありました。20歳の誕生日に両親に産んでくれてありがとうというメッセージも送っていた女性です。
とてもいい子で、惨殺されるようなことをこの人生でしたことはありません。

善因善果、悪因悪果、因果応報、自業自得と言っている仏教者であれば、このような理不尽極まりない出来事に対し、こういうでしょう。
つまり、人間は今世だけではない。前世など過去世があり、その行いが今世でそのような報いになったのだと。自業自得と言ってのける仏教者もいるでしょう。

しかし、そうだとすると、この世でほとんど見知らぬ男に20歳で惨殺されるような悲惨な報いを受けるに相応しい、前世では極めてひどい悪行の数々をでした大悪人だったということになります。そんな大悪人が、今世に生まれ変わって、美人で親孝行な女性になったというわけです。
どう考えてもおかしいし納得できませんよね。
そもそも過去世の行状など誰にもわかりませんし、悪因悪果、自業自得の考え方では、不幸な境遇にある人に対し『お前が過去に悪い行いをした報いだ』と突き放してしまって慈悲の心が生まれないのです。

ここは、いわゆる仏教といわれてきたものの最大の弱点です。

キリスト教がボランティア精神に溢れているのは、キリストが目の見えない人に対しても『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。』と言ったからです。

もし、キリストが『生れつき目が見えないのは自業自得だ』と言っていたなら、ボランティア精神は生まれなかったでしょうね。

 

 

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若くて美しい女性が、若くて美しいということで一目ぼれされストーカーされて惨殺されました。親想い、友達想いの女性のようでした。
若くして惨殺されるというような悲惨な結果を、悪因悪果、因果応報でいえば、その酷い結果に見合うようなとんでもない悪行の数々をした大悪人ということになってしまいます。
そういうふうに捉えますか?

 

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リッチポンタさん
おはようございます。

マーラーの交響曲第7番は、難解といわれるマーラーの中でも支離滅裂で難解とされ最も不人気な曲です。
確かに、『夜の歌』というように第4楽章までは暗い夜のような曲ですが、第5楽章になっていきなり真昼間になったような騒ぎとなります。
誰もが支離滅裂と思うでしょう。

わたしはここにマーラーの秘密を見ます。
私は交響曲第7番の第4楽章までのマーラーの曲と
第7番第5楽章から最後の第10番までのマーラーの曲は全く違うと考えています。
宇宙的覚醒があったのだと思います。
直後の第8番『千人交響曲』は、マーラー自身が最も好きな曲で
『宇宙が鳴り響いているさま』だとマーラーが友人に書き送っています。

ブラームスは私も好きですよ。ヴァイオリン協奏曲は本当にいいです。
私も交響曲では第4番が最も好きでしたが、最近は第2番をよく聴きます。
ブラームスの『田園』と言われることも多いですが、
私はブラームスにおける『ベートーヴェン第7交響曲』だなと思います。
最終楽章の躍動感がそう思わせます。