仏教についてのひとりごと 138

肉体を持ち、感覚を持ったために
わたしたちは無量からの分離感、限定感、欠乏感を持ってしまってます。
さらに、成長していくうえで、様々な人たちと交流していくにしたがい
他者(自分以外のものという意味で親も含む)の評価や言葉をかき集めていき
自我観念、自己イメージを作り上げていきます。
その自己イメージがますます分離感、限定感、欠乏感を強めていきます。

自己イメージは、他者に褒められればいい気分になり、貶されれば攻撃的になり
人生の経験を経ていくうちにどんどん強まっていきます。

他者が喜ぶことをすれば褒められ、他者の意に沿わないことをすれば怒られるので
人間はひたすら他者の気に入るように行動しようとし始めます。
自我は他者の注目から成り立っていますから、褒められることに絶望的な者は社会への攻撃という形で他者の注目を集めようとします。
どちらにせよ、自我の働きです。

自我と主体性を混同している人が非常に多いですが
自我=自己イメージは、他者の目から成り立っていて、主体的ではありません。

 

 

~~~~~~

 

 

例を挙げると
欠乏感が大きな人は、他者からの評価を上げたいために自慢をします。
自慢は他者に認めてもらいたい一心の行動です。
しかし、どんな人も自慢ばかりする人を嫌います。
自慢ばかりする人はますます周囲から孤立化していきます。
さらに、分離感、限定感、欠乏感、孤立感が増大していきます。

わたしたちは、日常、このようにして、孤立への道へ押し流されているのです。


誰も、本当の主体性を持たないために、他者の目を怖れビクビクしながら生きているのです。

想いが現象のすべてをつくります。
ゆえに、欠乏感、分離感に押し流されている現状では、すべての人は苦の集積に向かっているのです。
欠乏感が現象に現れてきます。

決然として、苦の連鎖を断ち切り、真に主体的になることが仏陀の本当のメッセージだと考えています。

 

 

~~~~~

 

 

精神が無量であることがすべてです。
しかし、わたしたちは、中心を持っているために、
分離感、欠乏感にまみれて生きており、日々の経験の中でその分離感、欠乏感は増大しているのです。
無量なるものが少しでも感じ取れれば、仏陀が言った『苦』の本当の意味がわかります。
『矢』の本当の意味も分かります。


同調圧力も激流です。
人はみな自らの『いい気分であること』よりも、他者によく見られたいほうを選択します。
この選択をし続けることによって、『世間様』は圧倒的な存在となり、自らの無力感が心に蔓延っていきます。

毎瞬毎瞬、人は、限定感の方向か、無限感の方向か、を選択しています。
しかし、限定感への激流に押し流されていますから、そのままでは限定感への方向を変えることはできません。
ゆえに、少しでも無限の方向を感じられるものに焦点を合わせる必要があります。
それはどんなことでもいいのですが、特に音楽は思考をはさまず直接精神に訴えかけますから最高です。ただし、無限を感じられる音楽に限りますが。
映画でも本でもそれはいいのです。
ですから、私は、人生の一冊の本、人生の一作の映画、人生の一曲の音楽を持っている人は幸せで持ってない人はどんなに富を築いても精神的には意味がないと思っているのです。

 

 

 

~~~~~

 

 

 

hanaさんの一番最初の質問に戻ります。

<<自分にとって理不尽で不条理に思える事象も、
全ては自分が原因しているということなのでしょうか?>>

 

私はそう思っています。
これは道徳上の善悪とか、善因善果とか、そのようなこととは違います。
道徳というものは人間の頭が作り出したことで、道徳上の善悪で宇宙の法則を説明することはできません。
善とか悪とかではなく、人はすべて自分が出した想いや気分を受け取っているのです。
私の中では徹底していて、自らに起こることはすべて自分の意識が作り出したものだと確信してます。
どうしても晴れてほしい日に雨が降りかかる状況も、健康状態も、人間関係も、交通渋滞に巻き込まれるのも、自分の保有株が下落するのも、どのような環境であれ、自分に起きてくることはすべて自分の心が作り出したものだと思っています。

ゆえに仏陀は『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる。』と言ったのです。


わたしたちは、無量であることを忘れてしまって、欠乏感の激流に押し流されているので
欠乏感そのままの状況が作り出されているのです。
善人悪人関係なく欠乏感を抱えています。善因善果というものではなく、どんなに人のいい善人でも、自らの欠乏感分離感に従って環境が作り出されます。
むしろ、他人の目、他人の顔色ばかり考えている善人は、無力感を抱き鬱になる人も多いのです。


hanaさん、何か質問があればしてください。
hanaさんのご質問の答えになったかどうかはわかりませんが、私が勝手に思っていることを述べました。
それが正しいか間違っているかはわかりません。
私の中では確信があるということです。


何度も言いますが、これはhanaさんの質問に答えたものですので、横から質問されても、答える気はありません。
もともとこのスレッドにはもう書き込まないつもりでしたから。

 

 

~~~~~

 

 

hanaさん、おはようございます。

<<どこかに属する、属したいという思いはありません>>

それは最も大切なことです。どこかに属したり、誰かに従属した精神は、どんよりとしてしまいます。人はただひとりあらねばならない、のです。私も、誰かに属したりすることはこれからもなく、賛同者なども一切不要です。

 

<<そして自身が主体的に生きていないために起こる苦しさを
他人の圧力によるものだと他人へ責任を転嫁して
自己を憐れんでいたようにも思います。>>


人間にとって自我にとって自己イメージにとって「他人にいい人に見られたい」という欲求が如何に大きなものか、です。
怖ろしいことに、生命の存続、つまり生存欲求より大きくなることがあるくらいです。
いい人に見られたい欲求と自分のいい気分が共存すればその行動をとるべきですが
人間はしばしば、あるいはいつも、自分のいい気分を犠牲にして他人にいい人に見られる方を選択してしまいます。
しかし、いきなり他人の期待を裏切ってばかりだと極端すぎますから
まずは、自分のそのような心の動きに気がつくことです。
自分以外の「世間様」の目をいかに怖れているか、です。
この怖れに囚われたとき、世間というものはその人にとってとんでもなく大きな圧力、壁に思えます。
ところが人間洞察が進んでくると、すべての人間が自分と同じように怖れているのだとわかってきます。
そのとき「世間」というものが強固な壁に見えていたのは幻想だと悟ります。

 

 

~~~~~

 

 

<<この十二縁起の1番目の無明には、始まりがあったのですか?
輪廻には最初があるということなのでしょうか?>>
<<>『すべては自分の想いでできている』としても、純粋無垢な赤ん坊の想いがなぜ?とどうしても理解できませんでした。
こちらの答えはも、自分の意識からなのですか? 何も考えることも出来ない赤ちゃんもですか?>>

 

掲示板終了まであと1週間を切るくらい残り少なくなりました。その1週間のうちでもスレッドに書き込める時間はほんの少しです。
残されたわずかな時間では十二縁起と【ベトナムの赤ん坊は自らに降り注ぐナパーム弾を自らが作った】という極めて怖ろしい言葉の本当の意味を説明することは難しいです。
私もかなりの年月をかけて取り組みましたので初めから説明するとかなり長くなります。

ただ、肉体を作ったのも(仏教では五蘊を仮合させたといいますが)想いというか想いの原型、潜在的形成力です。

また、十二縁起の無明と行を過去生の行ないとする解説はかなり多いですが、すでに決定された過去生では『滅する』ことができないので、私は過去生とは思っていません。


<<今回ショーシャンクさんから教えていただいたことで、
何故自分が苦しいのかの根源的な意味が分かったような気がしています。>>

それであれば、よかったです。
少しでも役に立てればうれしい限りです。


十二縁起など根源的な部分までは説明できませんでしたが
私の説明はこれで終わらせていただきます。
年末でかなり忙しいのですみません。

お元気でよい年をお迎えください。