仏教についてのひとりごと 85

仏法僧に帰依するとは、
釈尊に絶対の信頼を置き
釈尊が説いた理法に絶対の信頼を置き
釈尊が作った集団であるサンガにその理法が守られていることに絶対の信頼を置く。

ということです。

 

 

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あなたの帰依する仏法僧は本当にそうですか?

仏は釈尊ですか?阿弥陀仏ですか?
法は釈尊が説いた理法ですか?
僧は釈尊が作った集団サンガですか?

 

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親鸞はなぜ一生あれほど苦しんだのか、を考えることがありました。
もちろん、妻恵信尼との別離や実の息子善鸞の義絶など人生においても苦しいことの連続でしたが
それよりも、自らの理論上、晩年に至るまで苦しみ続けた気がしていました。
法然や一遍は、晩年になればなるほど文字を切り落としていき、『南無阿弥陀仏』だけになっていきます。
しかし、親鸞は逆に晩年になればなるほど自ら著作することに執着していきます。

それは謎でしたが、やっとわかったような気がします。
親鸞の本質はキリスト教であったのではないか、それを無理やり仏教の中で納得しようとしたので
あれほど苦しんだのではないか、ということです。

親鸞は死ぬまで法然に絶対の信を置いていました。
しかし、実際は仏教や法然とは全く違う方向に行く自分と、法然の教えとの間で、相当な葛藤があったのではないでしょうか。

もし、親鸞の時代に、キリスト教が本格的に伝来していれば、親鸞キリスト教者として救われたのではないかと思います。

親鸞の教えは、阿弥陀仏絶対神にしなければ成り立たない教えです。
しかし、仏教は絶対神は認めず、龍樹以降の仏教理論によれば阿弥陀仏にも実体がなく空となってしまい
また、阿弥陀仏も諸仏の中の一人にしか過ぎないのですから
親鸞はそのことによって自らの理論との整合性に苦しみ続けたのではないかと思います。

それを考えると、親鸞がかわいそうになってきました。

 

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ちかいのようは、無上仏にならしめんとちかいたまえるなり。
無上仏ともうすは、かたちもなくまします。
かたちもましませぬゆえに、自然とはもうすなり。
かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはもうさず。

かたちもましまさぬやうをしらせんとて、
はじめに弥陀仏ともうすとぞききならひてそうろう。
弥陀仏は、自然のようをしらせんりょうなり

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なるほど。
確かに、これは究極ですね。
おっしゃるように、道元の境地にも通じるものでしょうね。
最終的に阿弥陀仏も方便に過ぎないと見切っていたとすれば
親鸞は凄いと言わざるを得ないですね。

 

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『弥陀仏は、自然のようをしらせんりょうなり』は
あの過激な歎異抄のどの文章よりも衝撃的ですね。

無上仏=無上涅槃=かたちなきもの

そして、弥陀の本願は衆生を浄土に生まれさせることではなくかたちのない無上仏とならしめること、というのは、それまでの浄土教の天地がひっくり返るような言説です。

浄土教は死後の浄土往生が目標であることが大前提の教えです。
そのために浄土の荘厳が説かれます。

阿弥陀仏も浄土も方便だというのは、最後の最後に親鸞もとんでもないことを言ったものです。

 

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たーぼーさん、こんにちは。
人間は思考が発達し過ぎて、動物本来の本能が壊れた存在です。
確かに生存欲は欲望の中で最も強いものだと考えられますが
しかし、時として生存欲を上回る欲望があります。わかるでしょうか。
また、例えば、東京の金持ちが、前に食べた札幌の名店の味噌ラーメンが食べたくなって
その店のラーメンを食べるためだけに北海道に行くとします。
この欲望の中で、動物本来の食欲はどのくらいの割合でしょうか。

スッタニパータは最古層の仏典ですから、本当に貴重です。
ただ、とっつきが悪く読みづらいときは、ダンマパダのほうが入りやすく読みやすいので
そちらのほうも読まれたらいいでしょう。

 

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<<ラマナマハリシは真我に至るために、「私は誰か」と問い続けよと説かれました>>

これは本当に重要なことなのでしょう。坐禅や瞑想や読経の数十分の間だけでは何も変わらず、問い続けることがキーなのでしょうね。仏陀で言えば八正道ですね。

<<生存欲を上回るのは慈悲、欲望で言うと救済欲ではないでしょうか>>

生存欲を上回る慈悲があれば、その人は悟っていますね。そういう人はまずいないですね。
自己重要感、承認欲求と言われるものが、時として生存欲を上回ることがあります。
それほど、人間を支配しているということです。

<<直感で言うと動物本来の食欲は5割程度かなと思います>>

東京の人がわざわざ飛行機に乗って、前に食べたことがある北海道の名店にラーメンだけを食べに行く行為の中で、本来の動物的な食欲が占める割合はほとんどありません。限りなくゼロに近いでしょう。
高いお金を払って飛行機に乗ってラーメンを食べに行く食通の自分、粋な自分、金持ちの自分という自己イメージを自他ともにアピールしたい欲望、つまり自己重要感、承認欲求がほとんどを占めており、前に味わったことのある名店の味をどうしても味わいたいという快楽への渇望がその次に大きいものでしょうね。
その行為には、純粋な食欲、本能はほとんどないでしょう。

ですから、本能、欲望、渇望、煩悩、はそれぞれ全く違うものだということがわかると面白くなってきます。
仏教をしている人でも、本能=欲望=渇望=煩悩=執着=愛着と思っている人は多いですが。

 

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私もずっと大乗仏教一辺倒で来ましたから、四諦、八正道、十二縁起などは馬鹿にしてきました。
八正道など8つの道徳項目をいくら守っても、道徳的に無難な人間は出来上がるかもしれませんが、解脱などできるわけはないですし、四諦にしても、人生には苦があって苦は執着から起きるので執着をなくせばいいんだよ、というようなくだらないことをよく真理などというなあ、という感想しかありませんでした。
そして、歴史上の仏陀は、ごく浅い道徳的なことを説いただけで、後世の天才たちがその教えを高度に発展させた、という感じで捉えていました。

しかし、仏陀が説いたことをパーリ語であたり、後世に積み上げられた堆積物やフィルターを全部取り除いてみると、四諦も、八正道も、十二縁起も、今まで様々な仏教書で解説されたものとは全く違うことに愕然としました。
仏陀が残した筏、四諦、八正道、十二縁起は、まさしく人類の至宝でした。
このような至宝を捻じ曲げてただの石ころにしてしまった後世の天才たちに非常な怒りを覚えたので、後世の天才たちを過激な言葉で責めてしまいましたが、これからはそれは慎みます。
私が解読した四諦、八正道、十二縁起が正しいか間違っているかはわかりませんが、残すだけは残しておいて後の人たちに判断してもらえばいいだけです。

 

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自己重要感、承認欲求は、人類のすべてを支配しており
私も支配されまくっています。
歴史上、悟ったという人でも、自己重要感、承認欲求から解放された人がどれほどいるでしょうか。
自由そのもののイメージがある一休にしても晩年、地位や名誉欲に非常に執着していて、煩悩も悟りも超越した破天荒な人間という自己イメージで生きただけで、とても承認欲求から解放されていたとは思えません。
普化や白隠などは解放されていたと思いますが。

三島由紀夫に関しましては、その人生を描いた映画も見てみましたが、その思想に至る過程がよくわかりませんでした。
ただ、もともと強烈な自己愛があって、ボディビルなどにも目覚めてナルシストの傾向を強めていき、思想に殉じる自分という自己像を永遠に残しておきたかったのだと思います。
これも、承認欲求に翻弄されているということでしょう。

 

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あくまでも、私だけの解釈なのでこれが正解ということでもありませんが
まず、人間は思考や習慣や社会からの強制によって本能は壊された存在だと思います。
おなかがすいた、ラーメンを食べたい、というのは食欲で本能だと思っている人もいるかもしれませんが、ラーメンを食べたい、ローストビーフを食べたいというのは、過去に食べた体験がありその記憶があり、その快楽を繰り返したいということですから
本能ではなく快楽への欲望です。
思考が大きく介在して思考のものを再体験したいのが欲望と思っています。
渇望は、欠乏感から生まれるもので、隣の人が所有しているものが自分になかったらどうしても欲しくなるとか、それ自体価値がなくてもこの世に一つしかないからほしくなるなど、主に欠乏感から生じてくるものという使い方を私はすることが多いです。
煩悩は、欲望も渇望も執着も愛着も全部含んだ概念で、つまり純粋な本能以外のもの全部です。
愛着は心地よいもの(楽受が主になりますが)に対してそれをとどめておきたいという心の働き、執着は愛着するものによって心が一点に固定化された状態、だと認識しています。
執着の場合、嫌悪するものを憎悪することによって心が一点に固定化された状態もあります。

これは、私だけの勝手な解釈ですから、人それぞれ、ご自分の用語の使い方でいいと思います。