仏教についてのひとりごと 72

反芻するのも思考ですよね。
思考がなければ十二縁起の反芻はできません。
原始仏典では、『縁起を順逆に考察された』とあります。

仏陀が言う縁起と、龍樹以降の観念である縁起とは全く違います。
仏陀の言う縁起とは、苦の縁って起こる原因のことです。
龍樹が出現してから、縁起=相依性として、すべては関連してあるもので自性がなく実体がない=空という哲学を作り上げたのです。

 

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これは今月、『ダンマの顕現』を読んではっきりわかったのですが
無思考型の坐禅をして見性まで行ったとしても、卑小な人格に何の変化も起きません。
無思考の状態の時は無限の感覚になることもあるでしょうが、日常生活を始めると途端に
元の木阿弥です。
日常生活には思考が絶対に必要なのです。
思考がなければ、赤信号で止まることも出来ず車に轢かれてしまうでしょう。

自我の縁って起こるところをはっきりと観なければ、機械的に同じ反応をしてしまい
同じような場面で同じように怒り怒鳴ることになります。
同じことをすることで更に潜在意識にその原因が植え付けられます。

怒りが起きるのはすべて、自己重要感のへこみからです。
これを直視しないと、いくら1時間無思考でいても何も変わりません。

 

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<<釈尊は、思考(頭の中の声)の扱いについては、どんなふうに語られていましたか?>>

仏陀の根本の八正道です。

正見=正見解に基づく正思です。

八正道は実はものすごく深いのです。
1滴の水滴が大海になるようになされているのです。
あの順番で。

ただ、いま、八正道はつめている最中ですので
またまとまりましたら。

 

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あなたは坐禅によって、人格が一大転換しましたか?

聖フランチェスコのような転回はあったのですか?

 

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原始仏典で、仏陀が縁起を説いているところを読んでください。
例えば、相応部経典でも。

仏陀が説いた縁起とは、十二縁起に代表される、苦の縁って起こる原因のことです。
ときには、十二支でなく十一支や十支、五支縁起など、十二支縁起のいくつかを省いた短いものはありますが、すべて、苦の縁って起こる原因です。

 

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縁起を見るものは法を見る
法を見るものはわたしを見る・・・

縁起(苦の縁って起こる原因・無明に縁って苦が起こること)を洞察するものは
真理を見る・・・という意味だと思いますが。


原始仏典の仏陀が縁起について説いているところをどこでもいいから読んでみましたか?
仏陀が縁起を説く時、それは十二縁起を代表とする苦の縁って起こる原因という意味のはずです。
どうでしたか?

 

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あなたの中の我塊もありのまま、そのままで
全く前と変わらず強固に存在するのではないですか?

 

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