仏教についてのひとりごと 71

宮元啓一氏の投稿が興味深かったのは
仏陀の瞑想は、無思考型の瞑想ではなく
徹底思考型の瞑想であったということを再確認できたからです。

仏陀はアーラーラ・カーラーマやウッダカ・ラーマプッタの瞑想を修行しましたが
完成すると『解脱ではない』として離れていきます。
そして、四諦十二縁起を徹底的に瞑想します。

ここに無思考型⇒徹底思考型という流れを見ます。

 

 

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<<瞑想は いわゆる 無思考 です  無思考型  の方が 正しい>>
<<失われるのは  得方が間違っているから>>

 

それでは、質問させていただきます。

質問①;『ダンマの顕現』に詳しく書いてあるように、玉城氏は二十代の見性体験から、執筆時の79歳まで真摯に修行され、見性の認可も数々の公案も解いてきて、その間悟り体験も何百回となくされていますが、数日で元の木阿弥になったとあります。
失われるのは得方が間違っているから、とのことですが、玉城康四郎博士は具体的にはどこが間違っていたのでしょうか?

質問②;仏陀は最初の悟りの後、十二縁起を順逆に考察され、ダンマの顕現に至ります。無思考型の瞑想で完結しているのであれば、なぜ、仏陀は十二縁起を徹底思考したのでしょうか。

質問③;仏陀は修行時代に、アーラーラ・カーラーマのもとで無所有定を、ウッダカ・ラーマプッタのもとで非想非非想定を完成させますが、そのどちらからも離れていきます。無思考型の瞑想が正しいとすれば、なぜ仏陀はそれらから離れていったのでしょうか。

 

 

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リッチポンタさん
おはようございます。

宮崎哲弥が本の中で『大乗仏教で悟った人はいない』と書いていました。
宮崎哲弥は中観派を自認するほどの龍樹信者ですが、そういうことを言っていました。
私は大乗仏教でも、臨済や普化や白隠などは悟っていたと思いますが、仏陀の時代に比べ、少ないのは確かでしょう。

私が非常に不思議なのは、原始仏典の中で、仏陀成道のときを詳しく書かれていて
それには十二縁起を考察したとあるのですが、仏教者の誰も十二縁起を瞑想しようとしないことです。
十二縁起自体非常に難解で解明されていないこともありますが。

数々の公案を解いてきた玉城氏が『公案とは、つまり中国の禅僧の問答である。要するにそれは他人の問題である。公案禅を続けても、未解決のどす黒い我塊は放置されたままになってしまう。』と書いています。

そこに、解答があるような気がします。

 

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宮崎哲弥の対談本『ごまかさない仏教』で宮崎哲弥がそう言っていました、という事実を書いたまでです。
『ごまかさない仏教』を確認してください。


<<知っていれば「 悟っていたと思います」 などという 不確定発言は為されない>>


誰も、歴史上の誰が悟ってたなど確定できないですから『思います』としか言えませんね。
あなたは確定できるのですか?

 

<<あなたが解明しているくらいだから誰でも解明できる
誰でもできることだが     する価値を見出すまでは 誰もしない>>

 

私は一度も解明したなどと言ってませんよ。
誰でもできるのであれば、あなたは十二縁起を解明しているのですね?
本当にそうであればお聞かせください。
また、仏陀成道の時に十二縁起を瞑想していますが、それを無価値と見なすのはなぜですか?

 


<<本当に解いたかどうか
案じて(公案して)みなさい>>

 

数々の公案を解いたといっているのは、玉城氏本人ですよ。
そして、その玉城氏が『公案とは、つまり中国の禅僧の問答である。要するにそれは他人の問題である。公案禅を続けても、未解決のどす黒い我塊は放置されたままになってしまう。』と書いているのです。
『ダンマの顕現』に書いてあります。確認してください。

 

 

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ということは、あなたは『誰でも解明できる』と言っていながら
あなたがどう解明したかは言わずに逃げると言うことですか?
『誰でも解明できる』と断言しながら解明しないのは
あなたは、ただの口だけということになりますよ。

また、あなたは、リッチポンタさんへの返信に対して割り込んできて文句を言ってきましたが
その前に私があなたに対してした質問①②③には答えないのですか?

 

 

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そうですか。
あなたが、自分のことを『紀野一義も仏教学者と認めた。仏教書も1万3千冊読んでいる』と聞かれもしないのに言ったのですよ。

その誇りを持っている本当の仏教学者なら、
私の言ってることの間違いを典拠を示しながら論破するでしょうね。

答えられない質問は逃げるのでは、『紀野一義も認めた仏教学者』の名が泣きますよ。

あなたは自分の中の我塊、どす黒い自我を見たことがないのです。

 

 

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>>>あなたは自分の中の我塊、どす黒い自我を見たことがないのです。

>>やはりそう思われますか。 他にもそのようにおっしゃっている方がいましたし、>>私もそのように感じるのです。

>>彼は自分の真の姿を見るのが怖いのだと思います。 

>>その方自身が、自分の思考の観察が必要だと思われます。

 

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そうですね。
座禅か瞑想をして、無間の空間を少し感じると
その体験を担いでまわって『自分は悟った。他人より偉い。』とふれ回る人は多いものですが
その一人だと思います。

自分の中の承認欲求、自己顕示欲に全く気づいていないようです。
仏教を全くしない人より、承認欲求に振り回されている自分を如実に見ないと、こういうタイプになってしまいますね。

 

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『なりきる』というのは、例えば怒りとか憎しみといった感情になりきるということでしょうか?
それとも、花や海など見ている対象物になりきるということでしょうか?

どちらにしても、『なりきる』のは危険です。
感情になりきるのは感情に没入することです。
たぶん、それを言った人の思いとしては
怒っている自分と怒りを抑えようとする自分の2つに分かれると葛藤というエネルギーの浪費が起きる、さらなる苦が起きる、ということなのでしょうね。

しかし、間違いです。
怒りの場合、さんざん怒り怒鳴ってすっきりするということはあるでしょう。怒鳴られた人はたまりませんが。
しかし、すっきりするのは、怒鳴った相手が恐縮したり謝ったりしたからです。
不平そうな顔をしたり口答えした場合、抑えるブレーキがないため、エスカレートして暴行に発展することもあります。

このように感情になりきることは非常に危険です。

怒りであれば、その怒りがどこから縁って起こったのかを洞察しなければ、根本的な解決にはなりません。