仏教についてのひとりごと 70

宮元啓一氏は著作の中で
『玉城康四郎博士は、最晩年、「私の仏教理解は間違っていた」と周囲の人にもらしていたそうだ。』と書かれていました。

そこで、私は今月、玉城康四郎博士の『ダンマの顕現』を読んでみました。
玉城康四郎博士に関しては華厳経の著作は読んでいましたが、『ダンマの顕現』は初めてでした。
玉城氏は、真摯な求道者そのもので坐禅と念仏に邁進され、二十台の時の『爆発』体験、つまり悟り体験をして、見性を許され、次々と新しい公案を解いていきました。
しかし、『爆発』(見性)体験を何度しても、数日間で元の木阿弥になってしまう。
玉城氏の表現では
『公案を解き続けていく満足感の、奥底深い無意識の中に、未解決のどす黒い我塊の蟠居しているのに愕然としたのである。』
そしてこのまま坐禅だけだと我塊は放置されたままになると感じ、禅宗の坐禅と決別してブッダの禅定を学ぶことにしたようです。

そして、仏陀成道の3つの偈に出会って、ダンマの顕現を体験したようです。

しかし、この著作執筆時点の79歳まで、道元と親鸞は究明し続けており
79歳では『正法眼蔵ー道元仏道の目指すもの』『親鸞の還相回向、その発展』を執筆しています。
この間、修行を続け、三週間の入定もしているようです。

このように日本でも稀な真摯な求道者である玉城氏が
宮元啓一氏のいうように、最晩年になって『自分の仏法理解は間違っていた』と嘆息されたとしたら本当に悲痛な気がします。

ですから、あなたに、『ダンマの顕現』の感想をお聞きしたのです。

 

 

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<<石飛 道子  が  宮本氏の 仏教解釈の 間違いを指摘するようになって
彼は 去りました
当初は 彼女も 表だって 指摘はしませんでしたが
わたしが 糾弾(?)するようになって 立場の違いではなく 解釈の間違いを 際立たせるようになりました>>

 

あなたが糾弾した、『宮元啓一氏の解釈の間違い』を具体的に教えてください。

 

 

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玉城氏も度々書いていますが
見性、悟り体験、爆発を経験しても
数日後には元の木阿弥になってしまう。
我塊は全くそのまま、前と何も変わらない・・・・

この玉城氏の述懐は、私には、今までの謎が氷解したきっかけになりました。
私自身も20歳くらいの時に大きな意識というものに気づいた気はしたのですが
人格は全く変わらず、卑小な精神のままです。
(クラシック音楽などは深く理解することができるようにはなりましたが)

無思考型の瞑想では、思考がない時は限定がなくなり無限と触れ合うような気がしますが
日常生活に戻り、思考が戻ってきますと途端に元の木阿弥です。
卑小な人格は何も変わらない。
かえって、『自分は悟った』という強固な我執を付加することになって
人格破綻する人も数多いと思います。

その全体が見えてきたような気がします。

玉城氏の、仏陀成道のときの3つの偈の解釈も
大乗仏教の解釈にしてしまって、ダンマも縁起も間違った解釈になっていて
我塊がそのまま放置されている結果になったと考えます。

つまり、今までの仏教解釈では、無思考型の瞑想であるために
玉城氏のいう我塊はそのまま放置で、思考が戻る日常生活では元通りということです。

よって、自我の縁って起こるところを如実に見なければならないのだと思います。
それが仏陀の真意であると、私は結論に到達しました。

そういう意味では画期的な本でした。

 

 

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玉城氏は盤珪の不生禅のことも書いています。
  ⇓
驚き、喜び、夢中になって不生、不生と念じ続けながら廻っていた。
しかし、いつの間にか、不生の仏心からずれ堕ちてしまう。
このシーソーゲームを何度も繰り返していたが
とうとうずれ落ちたままで今日に至った。
その理由は、三十年ばかり経ってようやくわかってきた。
要するに、業の問題なのである。

 

 

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>>マニカナを探しましたが、ありませんでした。

>探しようが悪い

 

宮元啓一氏が投稿しているのは
2002年5月19日に1回、5月20日に2回の合計3回のみですね。
そして、そのころにはあなたの投稿はないので、
あなたが宮元啓一氏を糾弾した投稿記録はありませんでした。

あなたは直接、宮元啓一氏と掲示板でやり取りしたのはいつですか?

 

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宮元啓一氏の全投稿です。
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2002/05/19 (日) 23:16
 「真の智慧」はサマーディによってしか知られることが無いというのがヨガの体験上明らか、とヨガ行者・服部正様はおっしゃっていますが、貴君のおっしゃる「真の智慧」とは何なのでしょうか。
 「智慧」というのは、「知識」の一つです。
 最初期の仏教でいう智慧とは、人生が苦であるとか、無常であるとか、身心(五蘊)が我(アートマン)でないという「事実」を、徹底的に観察、考察して得られる、「事実」についての、明晰で不動の知識のことをいいます。
 貴君は、観察も考察もしない無思考のサマーディ志向瞑想で、どのような「明晰で不動の知識」を得られたのでしょうか。
小生には不可能事としか思えません。
智慧を得れば、性欲、食欲、我執を筆頭とする抑制しがたい欲望(欲求と嫌悪ないし怒り)がなくなるはずですが、貴君の場合そうなっていますか。
もしなっていなければ、貴君は智慧など得ておられないはずです。
 今日知れれるヨガは、後の仏教、とくに大乗仏教の神秘主義の影響を強く受けています。
 思考放棄で知識である智慧が得られるとはどういうことか、ご説明願いたいと思います。


2002/05/20 (月) 16:42
 「智慧」とその対象が何であるかを最初に発見したのは、まずまちがいなくゴータマ・ブッダであります。
 小生は、その、最初期の仏教における智慧について語っているのであり、大乗仏教の影響を受けた『ヨーガ・スートラ』以降にいわれる「智慧」について語っているのではありません。
 ちなみに、「自己」(アートマン)は語ることができても、けっして認識されない、そこに自己の自己たるゆえんがあるとだけいっておきます。
 ゴータマ・ブッダは、自己が何であるのかなどということに、まったく関心をもっていませんでした。
この点、ウパニシャッドの哲人ヤージュニャヴァルキヤの自己哲学を彼はよく継承しているといえるでしょう。


2002/05/20 (月) 16:47
 服部氏の目指すところは、『ヨーガ・スートラ』とは無関係でシャンカラの不二一元論の流れをかなり強引にヨーガに取り込んだ、近代の宗教家によるものですね。
 ちなみに、シャンカラ自身は、ヨーガという行を否定していますし、「智慧」などということばは一度も使用しておりません