仏教についてのひとりごと 65

もし、仏陀が仏教を見ると
『私、そんなこと言ってませんけど・・・』と言うでしょうね。

後世に様々に造り上げられた仏教なるものを通して見ては仏陀の真意は絶対に探れません。
仏教史には多くの天才たちが現れ、宗祖となっていきました。
宗祖たちは天才だけに教えとしては優れている部分もありますが、仏陀の教えとは全く別物と考えた方がいいですね。

最近、『アップデートする仏教』と言う本をKindleに取り込んで読みました。
曹洞宗の寺院で30年、ミャンマーテーラワーダ仏教で数年修行した人の本です。
この人は、仏教を『仏教1.0』『仏教2.0』『仏教3.0』に分けます。
『仏教1.0』は、大乗仏教特に鎌倉仏教を中心とした日本仏教のことで
『仏教2.0』は、最近はやりのテーラワーダ仏教のことです。

私の考えと違うところは多々ありますが
この本の中で面白いところを少し抜き出してみると、

親鸞さんとか日蓮さんといった方々が宗祖になっているので「宗祖無謬説」で、宗祖は間違いないということになる。それを受け入れるところからすべてが始まっているんですよね。だから、お釈迦様とどのぐらい違うこと言ってるかって、そういうのはまず問題にされないんですよ。』

『日本のすべての仏教教団はお釈迦様にもう一度直接繋がる必要がどうしてもある。』

『(ヴィパッサナー瞑想に乗り換えたアメリカ人たちが)みんなこう言うんですよ。「ヴィパッサナーをやればやるほど『自分』が重く感じられる」って。』
『それとヴィパッサナーをやっていると暗くなる、つまり落ち込んでくるというようなことをみんなよく言ってましたね。』

『(パオ・メソッドでも)成功率は1%以下でとっても低い。』

それで、この人は、大乗仏教テーラワーダ仏教を合わせたような『仏教3.0』を提唱します。

それはそれでこの人の到達した結論ですから尊重しますが
私としては、この本の2人(対談本です)が指摘している日本仏教の現状、つまり悟ることができず救われることができない、そのメソッドがない、ということと、テーラワーダ仏教でも成功率が極めて低いということは、すなわち、どちらも仏陀の真意から離れているからだという気を強くしました。

 

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私は、スッタニパータともうひとつ
マハーヴァッガ(律蔵大品)の冒頭部分、最古の仏伝と言われる部分ですが、
この2つには、多くの宝があると思っています。

マハーヴァッガには、歴史上の仏陀が何を瞑想して悟ったのか、詳しく書いてあります。

テーラワーダ仏教はこれを無視して、sati(念)を「気づき」と解釈してヴィパッサナーというメソッドだけを強調します。

なぜ、四諦十二縁起を瞑想することがないのか、です。
それは十二縁起が未だ解読されてないからだと考えています。

 

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<<あなたは四諦・十二因縁を解読しておられるのですか。>>

今日はちょっと忙しいので、また明日以降にでも書きますが
十二縁起を解読する上で最も障害になっているのが
相応部経典『分別』です。
一部を貼りますと・・

【比丘たちよ、六処とは何であろうか?
眼処、耳処、鼻処、舌処、身処、意処、である。比丘たちよ、これを六処と言うのである。

 比丘たちよ、名色とは何であろうか?
  受・想・思・触・作意、これを名と言う。四大種(地・水・火・風)および四大種によって造られた色(物質的存在)、これを色と言う。是の如き名と色を、比丘たちよ、名色と言うのである。

 比丘たちよ、識とは何であろうか?
  比丘たちよ、これら六つの識の集まり(六識身)がある。眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、である。比丘たちよ、これを識と言うのである。

 比丘たちよ、行とは何であろうか?
  比丘たちよ、これら三つの行(行為)がある。身行・語行・意行、である。比丘たちよ、これらを行と言うのである。

 比丘たちよ、無明とは何であろうか?
  比丘たちよ、苦についての無智、苦の集起についての無智、苦の滅尽についての無智、苦の滅尽に趣く道についての無智である。比丘たちよ、これを無明と言うのである。】

この相応部経典『分別』のうち、特に識を眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識としてしまうと、どうしても解読できないのです。

ですから、完全に解読するには、相応部経典『分別』を無視するしかない、ということになってこの経典が私にとって最大のバリアーになっています。

 

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スッタニパータは「経集」と言う意味で、いくつかの経典を集めたものです。第4章と第5章はすべての仏典の中の最古層とされていますが、ほかの章には必ずしも最古層でないものも含まれます。
三十二相は第3章に出てきます。

セーラ・バラモンは、仏陀に三十相は具わっていることがわかりましたが、陰蔵相と広長舌相だけは確認できませんでした。
セーラの心を察知した仏陀は、『セーラ・バラモンが師の体の膜の中におさめられた隠所を見得るような神通を示現した』とあります。
つまり、大勢の前で、自分の性器をさらけ出すわけにいかないので、こっそり神通によって陰蔵相であることをわかるようにしたということです。
広長舌相は、神通にはよらず、そのまま耳や鼻や額を舌でなめ回してそうであることを示したのです。
ですから、セーラに対しては神通力があることを示したのが主眼ではなかったようです。

三十二相自体がインド的な誇張に満ちていて、後の弟子たちが仏陀が偉人だったことを言いたいための行き過ぎた表現だったと私は思っています。
大勢の前でいきなり、自分の舌で自分の耳や鼻の穴や額をなめ回す人がいれば、私なら引いてしまいますから。

 

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最古の仏伝にも、仏陀が神通力、超能力を使ったことはよく出てきます。
それは否定しませんし、意識が広がっていけば、諸天善神はすべて味方となって協力してくれるでしょうし、思い通りの現象を引き寄せられるでしょうし、神通力と言われるものが具わるのがむしろ当然だと思います。法然明恵日蓮空海もそうですが意識の広がった人には神通力は当然のようにありましたね。諸天善神が味方にならないようではその人は本物ではありません。

ただ、龍樹の伝記には
『そのころ1人のバラモンがいて、王の反対を押し切り龍樹と討論を開始した。バラモンは術により宮廷に大池を化作し、千葉の蓮華の上に座り、岸にいる龍樹を畜生のようだと罵った。それに対し龍樹は六牙の白象を化作し池に入り、鼻でバラモンを地上に投げ出し彼を屈服させた。』
とあります。
これは、討論の相手に龍樹が超能力で格闘し、暴力的にやっつけた記述です。
相手のバラモンはただ口で龍樹を罵っただけですが、龍樹はバラモンを地上にたたきつけたのです。

相手を暴力的にやっつけるために神通力を使うのは、仏陀の道ではありません。

 

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女性の出家に仏陀がためらわれたのは、女性蔑視では全くありませんね。
初期仏教を知れば、当然そうなります。
出家といえば安全な寺で修行する、今とは全く違います。

初期仏教においては、祇園精舎のようなところは2,3ヶ所ありましたが、雨期以外定住することはなく遊行が基本でした。
定まった住所となる建物がないというのは、比丘(男性僧)にとっても、虎などの猛獣や毒蛇、毒虫など危険極まりないことなのですが、女性にとっては、そのうえさらにレイプ被害などの危険性に晒されるわけです。

誘惑もものすごく多く、ある比丘尼(女性僧)が森の中を歩いていたら、男が近づいて
『あなたはとても若くて美しい。いっしょに楽しみましょう。あなたの目は本当に美しい。』と言い寄ってきたのです。
そこでその比丘尼は、自分の眼球をくりぬいて取り出して、その男に『そんなに美しいのであればあなたにあげます。』と言って渡したのです。
その男は腰を抜かして、自分の非を謝りました。

インドは現代においても、深刻なレイプ犯罪が多発しています。
治安も現代より遙かに劣っていた古代インドで、女性が出家し遊行することがいかに危険極まりないことか、世界史の中でも最も安全な現代の日本で生活しているわれわれにはなかなかわからないことです。

 

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<<マハーカッサパを悪く言うのは憚られるところもありますが、女性の出家を釈尊に何度も進言して下さったアーナンダには好感が持てました。>>

アーナンダは若くて美男子で多くの女性ファンがいました。
そして、その女性たちから、『自分も出家したい』と熱望されていたでしょう。
アーナンダの熱烈なファンで『アーナンダの近くにいたい』という動機から出家を望む女性も数多かったでしょう。
ですから、比丘尼制度が誕生してからも、アーナンダは多くの比丘尼から『説法に来て』と熱望され続けます。
マハーカッサパがアーナンダに『おまえは忙しいな』と皮肉を言ったくらいです。

アーナンダは十大弟子で唯一悟っていなかったのですから、女性のところに入りびったてばかりいないで修行しろよ、とマハーカッサパは苦々しく思っていたかもしれませんね。

アーナンダが女性の出家を進言した気持ちもよくわかりますし、仏陀がためらわれた気持ちもよくわかります。
結果的には女性の出家はよかったと思いますし、後世においては比丘尼の数の方が比丘を上回ったりしました。人生に苦しむ女性の避難所にもなっていきましたからアーナンダの進言は正解だったでしょう。