仏教についてのひとりごと 64

<<マハーカッサパ摩訶迦葉)は、仏典結集のときに、恣意的に、自分の気に入らない者たちに不名誉な評価がされるようになさったというお話を聞きました。>>

具体的にはどのようなことでしょうか。
魔訶迦葉は第一結集の議長役をしました。
第一結集の前日まで悟ってなかった阿難を入れるかどうか、という話であれば、聞いたことはありますが、誰か別の人が『悟ってないものが一人いる』と言ったので阿難が奮起して前日に悟った、それを魔訶迦葉が褒めた、という文献もあるようです。

<<釈尊の死の時期について、アーナンダに責任があるかのように釈尊が語られていることも、釈尊自身の言葉ではないかもしれません。>>

確かに、パーリ涅槃経の中で、仏陀が『もっとこの世にいてもいい』というようなことを匂わしたが阿難がそれに気がつかず『どうかこの世に留まってください』と言わなかったので、留まらなかった、というような記載があり、ここは違和感はありますね。
パーリ涅槃経の作者がそういうふうに作ったのでしょう。

<<初期経典も、そういうところで、釈尊の本意とは異なる記述もあるのではないか、と感じられました>>

そうですね。初期経典でも成立年代はバラバラですので、不純物だらけではあります。
仏陀自体が書いたのではないですから、伝承するうちに自分の考えも混ざると思います。

<<今は上部座と言っていいのか、一応、釈尊伝来に近いと思われる仏教を伝えて下さるご僧侶の皆さんもいらっしゃるから、気持ちを新たに学び直すのもいいでしょうね>>

日本テーラワーダ協会のスマナサーラの本も何冊も読みましたが
最も根本である、四諦(特に苦)十二縁起の解釈には納得できるものがありませんでした。
四諦十二縁起は、それを本当に理解し瞑想すれば悟れるくらい重要な法だと思っていますが
今まで納得できる解釈に会ったことがありませんので、自分で解読していこうと思っています。

 

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<< 釈尊は、社会的身分制度(四姓制度)や性による差別を否定し、極端を廃して中道を歩まれた方でした。ところが、このシリーズの始めの頃にもお話しいたしましたが、現存する初期教典には、釈尊の精神から遠い記述がたくさん出てきます。たとえば、シャカ族が軽んぜられ、女性蔑視のバラモン的色彩が強くなっていくこと。教団が、戒律にウエイトを置いた中央集権的組織になっていくことなどがそうです。そういったことの根本原因は、釈尊滅後に、カッサパが中心となって、教典の編集を行ったことにあると思います>>


なるほど、その浄土真宗のお坊さんは、仏教が仏陀の真意から離れていったのは、マハーカッサパのせいだという考えなのですね。

仏陀は教団の後継者を決めませんでした。
なぜかというと、仏陀には、修行者の尊い集まりがあるだけで、教義を基にした教団という観念はなくまして自分がその教団なるものを主宰しているという観念はなかったのだと、私は理解しています。

仏陀の教えに限らず、どのような教えも人間の手によって伝えられますから
時を経るごとに変質してしまうことは避けられないと思っています。
特に仏陀の教えは、梵天勧請のときの仏陀の感慨にあるように、『私の悟ったこの法は極めて微妙であり、この世のものに理解することはできないだろう』というくらい理解することが難しいものだったのですから、仏陀の死後の変質は避けられなかったと思います。

教えの変質がその人が言うように摩訶迦葉のせいなのかどうかはわかりませんが、
仏陀より10歳も年上で、仏陀と出会って8日目に悟った摩訶迦葉としては
仏陀の在世中に悟ってもいなかった阿難は未熟者に思えたでしょうね。

阿難は美男子で女性のファンも非常に多かったですから、厳格な摩訶迦葉は苦々しく思っていたかもしれません。

 

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スッタニパータにはこうありますね。

バラモンのセーラは心に思った。「われわれの聖典には偉人の相が三十二伝えられている。」と。
それで、ゴータマ・シッダッタにそれが具わっているか確かめに行きます。
セーラの心を察知した仏陀は、神通力によって陰蔵相と広長舌相をセーラに見せます。セーラはこれにより仏陀に帰依します。

ですから、三十二相とはもともとはバラモン聖典に伝承されてきたもののようです。

三十二相を見ると、そのほとんどは納得できるのですが、中には奇抜なものがあり、普通の人間と違うところを強調していく、すなわち神格化の跡が濃いものもありますね。
三十二相を詳しく見てみますか。

 

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三十二相のうち、仏の相として最初に納得できるのは
金色相     (全身が微妙な金色に輝いている)
丈光相      (四方に一丈の光を放っている)
味中得上味相  (何を食べても最上の味を味わう)

意識が広がった場合、どんなものを食べても最上の美味となるのは納得できます。
食べ物の好き嫌いの激しい人は意識も限定され歪になっています。
意識が無限となったときにはそんなものも美味になるでしょうね。

そして意識が広がったときに、光り輝くオーラを放つのは当然と言えます。
ですから、上の3つは最初に納得できるものです。

 

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足下安平立相  (足の裏が平らで、大地に立つと地と足の裏が密着する)
長指相     (手と足の指が繊かで長い)
足跟広平相   (足幅が広く、丸みをもっている)
手足柔軟相  (手足が柔らかい)
足趺満相   (足の甲が高く盛り上がっている)
伊尼延膝相   (鹿の膝のようである)
正立手摩膝相 (直立したときに、手先が膝をなでるくらい長い)
身広長等相   (身長と両手を広げた長さが等しい)
細薄皮相    (身体の皮は薄く、一切汚れていない)
七処隆満相   (両手、両足、両肩、首筋に肉がつき、柔軟である)
両腋下隆満相 (両腋の下にも肉がついている)
毛上向相    (体のすべての毛が上を向いている)
上身獅子相   (上半身に威厳があり、瑞厳なること獅子のようである)
大直身相    (身体が瑞直無比で大きい)
肩円好相    (肩が丸く豊かである)
四十歯相    (四十の歯が白く清潔である)
歯斉相     (歯の大きさが同じで、一本のように並びが美しい)
牙白相     (上下四本の歯は尖っていて、白い)
獅子頬相    (獅子のように両頬が膨らんでいる)
梵声相     (梵天のように大きく美しい声で聞く者を感嘆させる)
真青眼相    (眼は青い蓮華のように紺青である)
牛眼睫相    (牛のように睫 が長く美しい) 
頂髻相     (頭の頂の肉身が盛り上がっている)

このあたりは、古代インドの人が肉体の優れた特徴として考えていたものなのでしょうね。
それほど奇抜でもないですね。

足下二輪相   (各足裏に千輻輪が現れている)
手足指縵網相  (手足の指の間に水掻きのような膜がある)
一一孔一毛生相(毛穴にはすべて一本の毛が生えている)
陰蔵相     (馬や象のように陰相が隠されている)
大舌相     (舌は柔らかく大きく、出せば顔全体を覆うほどである広舌長)
白毫相    (眉間に右巻きの白い毛があり、伸びると一丈五尺ある)

このあたりは、優れた相好というより現実離れしはじめます。

普通の人間と違うところを強調した「神格化」のはじまりでしょうね。

 

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スッタニパータの記述から見ると、こういうことでしょう。

もともと、バラモン教聖典転輪王など偉人の特徴として三十二相が伝えられていたのですが、仏陀の弟子たち(仏陀在世中か後世かはわかりませんが)が、自分の師匠を偉人だというために三十二相が具わっているとしたのだと思います。

仏陀は『五蘊はどれも私ではない』と言っているのですから、肉体は仏陀ではなく、肉体の特徴にあれこれこだわることは仏陀の教えに反します。
凡庸な魂たちが「自分のお師匠さんが一番」ということを誇示するために作ったものでしょう。

仏教の場合、キリスト教の聖書のように定まった聖典がなく、後世の不純物が堆積しまくっていてどれが仏陀の真意かは、その堆積物を取り除かなければ探れるものではありません。

仏の三十二相なんてまだまだかわいいものですが、仏教には困ったことに多くの天才たちが出てきて自分の説を仏陀の説だと言い始めたので、ますます仏陀の真意は藪の中に入ってしまったのです