仏教についてのひとりごと 63

しまとりさん、はじめまして。

<<これが、釈尊の説いた縁起であり、それが、相依性と訳されてしまったなどもあり、物事には自性がない、となり、空観になってしまった。ということですか?
順観と、逆観もあるので、初期経典でもすでに相依性も語られているように認識していましたが。>>

 

どうか、後世に形成された仏教の常識にとらわれず、原始仏典をひもといてみてください。
仏陀は、『縁起⇒相依性⇒無自性⇒空』などとは一切言っていません。
これは龍樹の独創にしか過ぎません。
原始仏典のどこでも、『縁起』という言葉が出ているときは、必ず、十二縁起を代表とする『苦の縁って起こる原因』のことです。
これに例外はありません。

 

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<<日本の鎌倉時代には、末法思想がありましたし、正法・像法・末法思想というのが言われてましたが、これ、本当に釈尊がそのような未来予言を残されていたのか?>>

正法・像法・末法は、後世の創作です。
たぶん、パーリ語原典の『律蔵』の中の『小品』の、最初に女性の出家を認めたときの記述がその創作の元になっているのでしょう。
仏陀は、正しい法は500年と言ったので、末法という時代が来て、戦争や騒乱が起こり大衆も下根の者ばかりが生まれるなどとは言っていません。
すべて後世の創作です。

<<女性が法を求めるようになり、それを許したために、正法が千年続かなくなった、と言われるのは、いささか不快ですね。>>

確かに、私もそれは不快です。
法華経の竜女の変成男子の話も不快ですし不完全だと思っているので、女性の出家で1000年続くのが500年になったというのは不完全な話だと思います。
これは推測ですが、仏陀の真意としては、女性が法を求めるようになったからではなく
サンガという集団生活のなかで、女性が入ってくると、求道より女性の方に目が向いてしまうことを危惧したのではないかと思っていますが。

 

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<<あの、逆縁は示されているので、と書きました。>>

逆縁というのは、十二縁起の逆観のことでしょうか。
『無明に縁って行が起こる。行によって識が起こる。識によって・・・・』が順観です。
逆観は
『無明が滅することによって行が滅する。行が滅することによって識が滅する。識が滅することによって・・・・』です。

<<あるものが、機縁によってそこにある。その機縁がなければ、そこには存在できません。
ならば、依ってたつ原因と結果は、相互依存性そのものではないでしょうか>>

相互依存性がある関係も存在はするでしょうし、それを否定しているわけではなく
唯一の関心は、仏陀が何を説かれたか、です。
仏陀は哲学や形而上学を説かれたのではありません。
あくまでも、『苦』を滅するにはどうすればいいか、を探求されたのです。
形而上学や哲学は『解脱に赴かず涅槃に赴かない』ので無記とされました。
それを部派仏教も龍樹も哲学を構築してしまいました。
ここは最大の誤りです。

原始仏典のどこを見ても、『縁起』は、『苦の縁って起こる原因』として説かれています。

龍樹も空海日蓮法然も天才であり、その人たちの理論を信じることはいいことだと思います。
しかし、私が探求しているのは、『歴史上の仏陀が本当は何を言ったのか』という命題です。
ですから、どなたが何を説いてもいいのですが、私が注目しているのは、ただ、仏陀が説いたかどうか、です。

 

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<<変成男子の話は、幼い女子でも、すでに悟っていました、という話ですよ。
信用されないので、男の姿になっただけです。>>

その部分の現代語訳は
『その時に龍王の娘は、一つの宝珠を持っていた。その価値は、三千大千世界ほどあった。
それをもって仏に献上した。仏はすぐにこれを受け取られた。
龍王の娘は、智積菩薩と尊者舎利弗にこう言った。
私は宝珠を献上いたしました。
世尊がお納めくださったこのことは、速かったですかそうではないですか。
答えていった。とても速かった。
娘が言った。
あなたの神通力によって、わたしが煩悩を断ち無上の悟りを開くことを観なさい。
またこれよりも速いであろう。

この時、その集まりの人々は皆、龍王の娘が突然変わって男となり、
悟りを求める修行者の修行を備え、そして南方の煩悩のけがれを離れて清浄である世界に行き、宝蓮華に坐って、生死の迷いを去って一切の真理を正しく平等に悟ることを完成し、
仏の身体に備わる優れた三十二の相と八十種の特徴があり、広く十方のこの世に生を受けたすべての生き物に、言葉では言いつくせない意味の深い教えを説いているのを見た。』

これを見ると、神通力によって龍女が悟り深い教えを説いているところを見た、とあります。
神通力によってその人が無常の悟りを得たことがわかるのであれば
わざわざ、龍女は男子に成る必要はなかったと思いますし、そこは残念だと思います。

 

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<<偽金という教えは、どこに説かれてましたか?>>

パーリ相応部因縁編第13節像法(saddhamma-pa!iτnpakam)です。

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<<仏陀ではなく、釈尊とすべきではないですか?
覚られた者たちは、釈尊以前にもいらっしゃって、皆さんを仏陀と言われたはずです。
覚られたら、涅槃に赴かれて帰って来られないと聞きましたが。>>

ゴータマ・シッダールタ(Gotama Siddhattha)の呼び方は様々です。
おっしゃるように、仏陀という呼び方は、仏陀の時代では『覚者』を意味していて
ジャイナ教のマハヴィーラも仏陀と呼ばれていました。
ただ、現代で、仏陀と言えばだれもGotama Siddhatthaで間違う人はいないでしょうから
いろいろな尊称は好みでいいのではないでしょうか。
釈迦という言葉は釈迦族から来ていますから、属性から離脱された人に族名で呼ぶのは少し抵抗があって私は仏陀と呼ぶことが多いです。

 

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<<空性というのは現代宇宙物理学などとも相性のよい思想なのであれば、それを開示した龍樹は、仏教における巨人と言ってよいでしょう>>

龍樹は天才だと思いますし、それは何度も書いてきました。
そして、仏教、特に大乗仏教においては八宗の祖と言われるくらい、巨人ですね。
仏教哲学の中で最大の巨人だと思いますよ。

私が言っているのは、いかに龍樹が頭が良くて巨人であっても
龍樹の哲学は仏陀が説いたものではない、ということです。

龍樹の言う『縁起』の解釈も『空』の解釈も、仏陀が説いたことではないです。

 

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<<男性の方々は、女性になった気持ちになって、レイプなどの罪は重くしてもらいたいです。殺人に近いことです。>>

おっしゃるとおりです。それは本当にそう思いますよ。
ですから、やはり、龍女は女性のまま成仏してほしかったと切に思います。
サンスクリット原典では、『男性器が生え』などと生々しく書いてますから
そんな必要はないだろうと思っています。

 

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<<原始経典あるいは初期経典での、釈尊の説かれたことに、焦点を当てたいということですね。ただ、偽金という言葉は重いので、そこには違和感あり、とお伝えしておきます。>>

わかりました。龍樹にしても親鸞にしても、私は相当きつい言葉で言っていますので
不快になる方も多いと思います。
しかし、わかっていただきたいのは、今探求しているのが『歴史上の仏陀が本当は何を言ったか』ですので、それを基準にするとどんな天才に対してもバンバン言ってしまうこともあるかもしれません。

私もかなり前から考えていて、今日読んだ本にもあった、この言葉、
『おしなべて大乗仏教は阿羅漢を高く評価しませんが、では大乗の修行によって悟った者がどれほどいるか、というと疑問ですね。
 宮元啓一氏が「大乗仏教の徒で、自他ともに仏になった、涅槃に入ったと認める人が、長い歴史の中ではたして登場したあろうか。答えは、まったく否なのである。」と喝破している通りなのです。
 大乗仏教の基礎を築いた龍樹(ナーガールジュナ)や世親も菩薩止まりでしょう。涅槃に入った、如来になった、という話は聞かない。然るに、最初期の仏教においては修行者が悟りに達することが頻発している。』(宮崎哲弥

ここに事の本質が隠されていると思います。
仏陀の時代には何故あれほど悟る人が多かったのか、です。
仏陀は解脱に赴かず涅槃に赴かない空理空論、形而上学、哲学を無記としました。
そしてひたすら、『苦の滅』を目指しました。
この本質は、根本分裂、部派仏教、龍樹などにより崩れ去り、仏教は高度に哲学化してしまいました。
仏陀が説いたのは空理空論ではなく、『目の当たりに実現する法』(スッタニパータ)のはずです。

 

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<<今流行りのアドヴァイタ体験などは、どうですか?
それと、禅での見性体験を、当時の修行者の悟り体験と重ねるのはどうでしょうか?>>

大乗仏教の中で最も悟った人を輩出したのは禅宗だと思います。
それも公案禅の臨済宗で、黙照禅の曹洞宗からはあまり悟った人は出ていません。
ここからも事の本質が分かるような気がします。
つまり、禅定だけではだめで、徹底思考型の瞑想が不可欠ということです。
臨在禅では公案を徹底的に考えます。
しかし、公案は真理ではなく、比較する思考を消し去るためのものですから
これを透過できる人は限られているでしょう。
もし、座禅の時に四諦十二縁起を徹底思考することができれば、全然違っていたと思います。
禅は無思考型の瞑想であることが多いですから、禅病のようにおかしくなる人も実はいるのです。