仏教についてのひとりごと 57

pipitさん、こんにちは。

Y和弘という人の言うことは気にしなくていいですよ。
この人は、micやsanと同じく、大乗仏教の何かを信じていて
それが自分の中で強い自我を構築しているのに気がつかないのです。
自分がどれだけそのドグマに束縛されているか直視できず
自分を解脱していると妄想していて、自分と違う意見のものが許せないのです。

こういう人たちを見ると、やはり、仏教は仏陀の真意からかけ離れているという確信が強くなります。

『何故原語が必要なのか?中村元の訳ではいけないとでもいうのか。』といきなり喧嘩腰に言われても、困ったものです。
どうして仏教や宗教をしている人はこんなにも人格が破たんしているのでしょうか。

こういう人はいっぱいいますので、気にしないことです。

 

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このように原始仏教聖典の韻文におけるbrahmanは,最高の存在として見なされ, 悟った者と同一視されていた。
しかし散文においてはbrahmāが梵天界より降臨し,釈尊の面前に現れ, 教えを乞うている。

 それによりbrahmāの地位は下がり, 釈尊の権威が強まったが, brahman が最高の存在を意味する言葉として用いられなくなったわけではない。

「実に聖なる八支道をbrahmanの乗物 (brahmayāna)とも,法の乗物(dhammayāna)とも無上の戦場の勝利者とも言われる。(SN . V , P5)


如来はこの力を具えて, 牛王たることを自称し,集団において、 獅子吼し,
brahmanの輪(brahmacakka) を回す。(AN .III,P9)

また, 散文になるとattanとbrahmanとを同一の存在として説かれるようになった。

「このように知り, このように見る彼には, 欲望の煩悩からも心は解脱し, 生存の煩悩からも心は解脱し, 無知の煩悩からも心は解脱し, 解脱した時には, 解脱したという知恵が生じる。生まれることは尽きた。梵行は完成された。なすべきことはなし終えた。もはや, このような〔迷いの〕生存状態に戻ることはない, と知る。

修行僧たちよ。これが自分(attan)を苦しめず, 自分(attan)を苦しめる実践に耽らず, 他人を苦しめず, 他人を苦しめる実践に耽らない人であり, 彼は自分(attan) を苦しめず, 他人を苦しめず, 現世において無欲で, 涅槃に達し, 清涼で,安楽を経験し, brahmanとなったattanによって住する(brahmabhūtena attāna viharati )。(MN .1,pp348 −)」

 

この「brahmanとなったattanによって住する」については,散文の中に繰り返し説かれている定型句であり,悟った者を意味しており, 悟りに達するとattanがbrahmanになることを明確に説いている。

  散文になると,atmanとbrahmanとが同一の存在であると説くウパニシャッド的表現をもって, 仏教の悟りの境地が語られるようになったのである。

                 『原始仏教聖典におけるattanとbrahman』西昭嘉

 

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以上のように, 原始仏教聖典には数多くのウパニシャッド的表現をもって説かれる語句が存在する。
 韻文においてbrahmanは最高の存在として説かれている。
 また世問一般においてbrahmanとbrahmāの両者を区別なく同一視していたと思われる。

「brahma に達した人」や「brahma になった者」は明らかに「悟った者」を意味しており,「brahmanの(車)輪」「brahmanの道」「brahmanの乗物」などの語句は悟りに導く仏の教えを意味している。
 故に原始仏教聖典に説かれるbrahmanに関する語句を軽視すべきではない。

 多くの学者は原始仏教の独自性を見い出したいがために, 聖典の教えをバラモン教ウパニシャッドから切り離して考察しようという傾向が強く, たとえ, 聖典の中にウパニシャッド的な表現を以て説かれる語句が存在したとしても, すぐに比喩的表現を用いた教えであると考え, それを釈尊が説いた真理であるとは認めなかった。

 しかし, 釈尊バラモンたることを自称し, 真のバラモンたる行為を説いていたのであり, そのような教えを聞いていた出家者在家者においても, 仏教とバラモン教ウパニシャッドが求める境地に区別がなく・brahmanという語句を最高の存在としてみなしていたはずである。

また散文においては,「bramanとなったattanによって住する」という定型句が説いているように,悟りに達するとattanという存在がbrahmanとなることを明確に認めている。

このような原始仏教聖典に説かれるウパニシャッド的表現について, 中村氏は
「最初期の仏教はバラモン教の優勢な雰囲気のなかではこのような説きかたをしなければならなかった。しかし仏教がひろがりさかんになるにつれてこのような配慮は無用になった。だから聖典の散文においては〈ブラフマンへの乗物〉というような語は現れなくなった」
と主張しているが,むしろ散文になるとattan とbrahman の関係が定型句になるほど繰り返し説かれるようになったと考えるべきであり, 我々は原始仏教の悟りの境地がウパニシャッドの悟りの境地と類似していることを認めざるを得ない。

                 『原始仏教聖典におけるattanとbrahman』西昭嘉

 

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仏教が、仏陀の真意とかけ離れた大きな原因は
教義を作り高度に哲学化、形而上学化してしまったことと
仏教の独自性、優位性を強調しすぎたために、精神フィールドであったバラモン教を全否定していき、バラモン教との共通性を削除したり矮小化してしまったことです。

そのために、仏教の真髄たるものが、極端に軽視されていってしまいました。
この、後世のフィルターを外していかなければ、仏陀の真意は探れません。

最近、非常に重要なことを発見しました。

brahmavihara は梵住と訳されてきました。『ブラフマンの住所、境地』であるから適切な訳なのですが、brahmaがついているためにどんどん矮小化されていきました。
最初期の仏教では、brahmanは間違いなく究極、最高の意味で使われているはずで
brahmaviharaは、究極の境地のはずです。
しかし、後世の教義では、梵天の住むところとなり、色界の最下層にまで矮小化されていきました。
梵住では涅槃に至らないと解されてきました。

このあたりの『後世のフィルター』を剥がしていかなければいけないと思っています。

 

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