仏教についてのひとりごと 51

「我・常」ということを積極的に主張するのが、如来蔵思想であり、『涅槃経』には「仏陀とは、我(アートマン)を意味する。しかるに、その我は永遠不変の実在である」と明記されているのである。
 大乗仏教というものが、ヒンドゥー教の強い影響のもとに成立したと見るのは、今日では学界の定説とも言ってよいものである。

大量の大乗経典を創作したのは、仏教的教養をもつもの、つまり、出家者であったかもしれないが、経典の読者対象としては、在家信者が強く意識されている。
しかるに、注意すべきことは、インドにおける在家信者とは基本的にはヒンドゥー教徒であるということである。彼等は、仏教の出家者のみに布施するわけではなく、ジャイナ教でも、他の宗派でも、区別することなく、出家者には布施して、死後の生天を求め、日常生活においてはヒンドゥー教の生活規範に従って暮らすヒンドゥー教徒であった。従って、このような在家信者を読者、または聴衆として強く意識した大乗経典に、ヒンドゥー教からの影響が見られるということは、当然である。これを端的に示すものとして、大乗経典における呪文、呪術の受容ということがある。
 しかも、大乗仏教がさらに進展すると、ヒンドゥー教アートマン論を積極的に公言するかのような主張が現れてくる。それが先に述べた如来蔵思想である。
 かくして、大乗仏教の思想というものが、基本的には、「空から有へ」と変化する非仏教化、ヒンドゥー教化の道をたどったことが、示されたであろう。
そして、最後に行き着いた先が、全く“ヒンドゥー教そのもの”と言っても過言ではない密教だったのである。
 いかなる大乗経典といえども、ヒンドゥー教の呪術的世界から切り離されてはいない。
例を『法華経』にとるならば、羅什によって漢訳された『妙法蓮華経』の第二六品は、多くの呪文を含む「陀羅尼品」であり、第二五品は、観音菩薩に対する信仰を説く「観世音菩薩普門品」である。観音の名を念ずるならば、諸の現実的な苦から即時に解脱すると説く観音信仰が、呪術的なものであることは明らかであろう。

  (松本史朗『チベット仏教哲学』、大蔵出版、1997年、pp. 407-410)

 

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原始仏教から部派仏教になると、無我の考え方が変容したことである。
すでに前項で見たように、原始仏教における無我説は、決してアートマンが存在しないとは説いておらず、むしろ実体として固執する種々のアートマン論の過誤を指摘して、論理的実践的な意味における本来の自己あるいは真実の自我の探求を教えた。
その後、アビダンマ教学の盛んな部派の時代に進むと、積極的にアートマンは存在しないと主張することとなり、本書の編纂された時代は、こうした考え方が支配的であった。
したがって、仏教の無我説は時代の変遷とともに、その解釈が大いに変わった。
無我即無霊魂という考え方もその所産である。ナーガセーナ長老もアビダンマ教学の説く無我説の立場から、無我とは無住普遍の実体のないことであり、個人にとっては実体としての人格的個体の存在しないことであり、更に無霊魂である、と明言している。
 ブッダの時代にあっては、決して霊魂の有無を論じなかったし、仮に論じたとしても、それは宗教的実践に何ら役立たない形而上学論議として斥けられていたものである。
保守伝統教学をもって特色とする部派のアビタンマに至って、ブッダの説いた真の意味の無我説がゆがめられたのには、それ相当のわけがあった筈である。
 つまり、人間性の探求と真実の自己の実現という、生き生きしたブッダの無我観が、部派仏教になると、アビダンマ教学の得意とした精神現象の分析と、およびバラモン教神学の有我論との対決という観点から、“我を立てない”無我論へと移っていったのである。
 シナでは、アナートマンを無我と非我との二つに訳したが、今日、一般に誤って無我を“我がない”ととるならば、むしろ、“我でない”という意味の非我の訳語のほうが、最初期仏教のアナートマンの原義にふさわしい。』

     (『東洋思想5/早島鏡正著「無我思想の系譜」』東京大学出版会刊p75-95)

 

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大日経』と並んで密教の根本経典とされるのは『理趣経』です。

理趣経』には
妙適清浄の句、是菩薩の位なり
      …男女交接の恍惚の境地は本質として清浄であり、菩薩の境地にある。
欲箭清浄の句、是菩薩の位なり
      …男女が相手を欲し、その気持ちが矢のように飛ぶ境地は本質として清浄であり、
       菩薩の境地にある。
触清浄の句、是菩薩の位なり
      …男女が相手を触れあうことは本質として清浄であり、菩薩の境地にある。
愛縛清浄の句、是菩薩の位なり
      …男女が四肢をもって離れがたく縛りあっていることは本質として清浄であり、
       菩薩の境地にある。

とあります。
欲望の中でも最も強い愛欲も、菩薩の境地という全肯定をしています。

また、密教は、中世においては、貴族たちの求めに応じて、憎む相手を調伏したり、愛欲を成就するための祈祷を盛んに行なっています。

 

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