仏教についてのひとりごと 43

古来、諸法無我と訳された文章のパーリ語
sabbe dhamma anatta
です。
これは『一切の事物は我ならざるものである(諸法非我)』という意味だということです。

東京国際仏教塾での講演で奈良康明先生も
『「仏教は無我説」だなどとよく言われます。サンスクリット語では an-Atman、パーリ語でan-attan といいます。an- とは否定の意味を持つ接頭辞ですから、「無我」つまり「我が無い」と訳され、そう理解されてきました。ですから、人間にはアートマンは無い、霊魂のような不変の実体はないというように理解されていたのです。しかし仏典を読んでいくと、意味がよく通じない。そして四十~五十年前ぐらいになりますか、渡邊照宏先生とか中村元先生、水野弘元先生方のおかげで、アナッタンというのは永遠不変の実体の霊魂的なアートマンがないと言っているのは違うのではないかと、いうことがわかってきました。そして、現在では、その意味がはっきりしてきました。結論を申しますと、漢訳仏典ではインド語仏典の an-attan を無我と訳しているし、常識的に「我がない」と理解されてきた。我がないというと、実体的なアートマンがない、という意味になります。そうではないのではないか。これは違うのではないか。「我がない」のではなくて「我ではない」と理解するのが今日の結論です。』
奈良康明博士 東京国際仏教塾講演録より)

 

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更に、他の仏教学者もこう言っています。
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多くの平均的な仏教者は無我の理解について完全に間違っていると思います。
アートマン(我)の存在を説き、アートマンこそが唯一なる実在(真実の自己/真我)であるとするバラモンヒンドゥー教は間違っており、アートマンなるものは何処にも存在していない(一切は空であるから)とする無我の教えを説くのが仏教であるとして、
これこそが唯一の真理とみています。そのように説いているのが、現存する南方仏教(現在の上座部)だからです。
しかし、それは部派時代に生じた誤認がそのまま現在の南方仏教までの二千年も継承されてしまったものなのです。
この間違った理解により、本場インドでは大衆からも相手にされず、遂には入信者が絶えてインド上座部は消滅したと思われます。
現在の南方仏教は、一般的にはブッダの教えに近いものとして評価されてはいますが、それは大乗仏教との比較の上での話に過ぎません。
ブッダ亡き後に数多く発生した部派の中から今日まで残存した諸派の一つに過ぎず(確かに、その中でもより優れたところが残ったとはいえるが)、
けれども、これが当時のブッダの教えをそのまま伝えたものというわけではありません。
ブッダというのは存在論で以てアートマンを有無では語りません。アートマンについては無記の姿勢を採り、そして、「それら(五蘊)はアートマンではない。アートマンではないものをアートマンと見なすことなかれ」と説いたのです。
決して、“アートマンを無いもの”としては語っていません。
れが本来の無我の教えであり、仏教学では「非我」(我にあらず)と示されているものでした。
(松本史郎著『仏教への道』東京書籍刊p22)

 

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中村元はあくまでも仏教学者であって、中村教の教祖ではありません。
いろいろな学者の著作を調べて、この学者のこの学説を支持する、あるいはその学説を基に自分なりに発展させる、という態度が必要です。
教祖ではないのですから、中村元が言ったことがすべて絶対に正しくて、中村元のこの説は支持するがこの説は支持しないなんてあってはいけない、すべてを信じろ、というようなものではないのです。
パーリ語の解釈においては、やはり優れた仏教学者の解釈を調べる必要があります。
しかし、教祖ではないのですから、どの仏教学者であっても、その人の言うことを全部信じるというのは客観的な姿勢ではありません。

 

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前にも書きましたが
大乗仏教であれ、原始仏教であれ、
sabbe dhamma anatta を諸法無我と解釈した場合
無我であれば、輪廻する主体は何か?ということです。

①無我⇒輪廻説の否定
②無我⇒輪廻する主体はないが、業が相続する、業が輪廻を繰り返す
③無我⇒無我とは不変のアートマンの否定で、刻刻と変化している主体を否定してない⇒主体が変化しながら輪廻を繰り返す

おおよそ、以上の3つのどれかになっているのです。

大乗仏教でも①の解釈は多いです。例えば浄土真宗の僧は、無我であるから無霊魂、
あの世もなければ生まれ変わりもない、葬式は死んだ人のためではなく生きている人たちのためのもの、という人が多いです。すべての僧とは言いませんが。

②の場合、業というのはカルマすなわち行為です。
その行為をする主体は何でしょうか。行為をする主体を認めれば無我ではないですね。

③の場合も、変化するから無我というのもおかしな話です。
人間は0歳の子供が80歳の老人になっても同じ人だと認識していますね。
すべての細胞は入れ替わっているでしょうけど、やはり主体は厳然とあるのではないですか。

無我=アートマンはない ということですから、どうしても輪廻する主体は何かという問題になってきます。

 

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<<善縁に出会えば輝きを増してくる。 悪縁に出会えば、魂に傷がつき、光を失ってくる。ようするに変化している。>>

善縁に出会えば輝きを増してきて悪縁に出会えば光を失ってくる、その魂とは何ですか?
その魂と、アートマンブラフマンはどこがどう違うのですか?
魂という個性があるのではないですか?
3歳の子供が80歳になった時、肉体も性格もすべて変化しています。
しかし、その人は同一だと見なされていますね。
変化する中に何か不変のものがあるからですね。
変化したから無我なのですか?
どのように外観や性格が変化しようと、借金すれば返さなければいけないし
犯罪を犯せば懲罰を受けるのです。
それは、何が変化しても人格という概念で続いているからです。
変化したから無我なんていうのは戯言です。
整形して外観が変わればもう借金は返さなくていいのでしょうか。
何か一貫した人格、変化しない人格がありますね?
ですから、無我なんて言うのは戯言です。
仏教は無我の教えなどと解釈したために、仏教は何とも馬鹿馬鹿しい教えとなってしまったのです。
はっきり言って、今の仏教はどれも仏陀の真意ではないし
どこにも行き着けない教えとなっているのです。

 

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アートマンを不変の霊魂と捉えるのではなく
自己の根源たる存在と捉えているのがバラモン教ではないでしょうか。
そして、その自己の根源は大宇宙の根源たるブラフマンと同一だということですね。
シャンカラは個や多様性は錯覚だと言いました。
錯覚するから個として輪廻する。一なるもののみと悟りなさいということです。

カルマ(業)はヴェーダに説かれていて、ヴェーダは紀元前1000年から紀元前500年の間に成立したと見られますから、仏陀の前にはカルマ(業)の思想はあったものと思います。
【業はインドにおいて、古い時代から重要視された。ヴェーダ時代からウパニシャッド時代にかけて輪廻思想と結びついて展開し、紀元前10世紀から4世紀位までの間にしだいに固定化してきた。】とウィキペディアにはあります。

 

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<<日本の宗教は空海最澄日蓮親鸞の誰もが「実体は(変わっていくが)残っていく」と解釈していたように思えます。>>

残っていくのは、永遠に残っていくのですね。
そうすると変わっていっても変わらない部分というのがあるのではないでしょうか。

3歳の子供が80歳になって、すべてにおいて大きく変化しますが、やはり同じ人ですね。

「実体は(変わっていくが)残っていく」場合は、自己があるのではないでしょうか?
残っていく自己=我 がどうしてもあることになります。

 

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【実体】という言葉の哲学的な意味は
【多様に変化してゆくものの根底にある持続的、自己同一的なもの】ということです。

ですから、言われた『実体は(変わっていくが)残っていく』という言葉は
『多様に変化してゆくものの根底にある持続的、自己同一的なものは残っていく』ということになり、自己が永遠に残ることになり、やはり無我ではないということではないでしょうか。

 

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わかりますよ。
霊山や聖地と言われるところは不思議がいっぱいです。
神仏は必ずおられますし、仏教を無霊魂、唯物的に捉えるのはとんでもない間違いだと思うのです。
もちろん、心霊主義になってはいけないと思うのですが
無我⇒無霊魂⇒唯物論 となっていることも浄土真宗などで多いことを思いますと
無我という言葉はやはり適切ではないと思います

 

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『カルマ(業)はヴェーダに説かれていて、ヴェーダは紀元前1000年から紀元前500年の間に成立したと見られますから、仏陀の前にはカルマ(業)の思想はあったものと思います。』と書きました。

輪廻転生については、カルマの思想の、今世で果が返ってこなかった場合に想定される来世と輪廻思想が結びついたのだと思います。

業(カルマ)の思想はかなり前からあったと思われます。

 

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<<無我は我が無いではなく>>
仏教の言う無我は、アートマンはないという意味ですね。
仮我は当然、真理から言えばもともとあるものではないのですが
仏教の無我は、アートマンという主体、実体の否定です。

しかし、
諸行無常
一切皆苦
諸法無我

無常⇒苦⇒無我
という図式が無我だと成り立ちません。
無常であるから苦、はわかりますが
苦であるから無我、つまりアートマンがない、というのは明らかに間違いです。

 

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